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note執筆は映画製作のごとし

昨日のサトウカエデさんの記事に対するアンサー記事である。

カエデさんは弓を引くように文章を書くそうだ。
文章を書く他の人の心象風景を見てみたい、という彼女の話に乗っかって、私の心象風景をしたためてみる。


私もカエデさんと同じく高校三年間弓道部で、記事に書かれていたことは呼吸をするようにすんなり理解できた。
だがしかし、同じ弓道人だというのに、執筆時の私にカエデさんのような静謐さはない。荒ぶっているのである。noteを書く私は荒ぶっている。

心を荒ぶらせ書きなぐっているときの私は、心の中でカメラを構えている。カメラといっても写真用の一眼レフではない。映画撮影用のカメラだ。

高校生のときに弓道部だった私は、大学生になって紆余曲折を経て映画部に入る。(詳細は「人生を変えた出会い」タグでまた書こうと思う。)
映画部で自主制作映画を撮り、映画を研究するゼミに入り、商業映画の撮影現場でプロと働き、映画館でバイトして従業員特典でタダで映画を観まくった、映画漬けの大学四年間だった。

映画は面白い。観るのも作るのも面白い。四年間映画のことばかり考えていたせいで、ふとしたときに映画的手法が頭をよぎる身体になってしまった。

noteを書くとき、私は映画監督である。監督であり、脚本家であり、カメラマンであり、編集者である。カメラを担いで被写体を追いかけ、物語の断片を文字に収め、場面を繋ぐ。

冒頭シーンはインパクトを出していこう、次の段落に向けてフェードアウト、次の段落はバッとカットインで始めて、ここは長回しでたたみかける展開に、逆にここはカット割りを細かく。いらない情報をバッサリ削ぎ落として思いっきりズームインするよ。いいねぇ、君、いいねぇ。

noteは構成を練らず、いきなり思いつくまま書いている。伝えたいことだけ決めて、あとは指の動きにまかせて文字を紡ぐ。映画の撮影でいうと、絵コンテはおろか、脚本も書かず、現場に役者だけ呼び寄せて、監督1人で手持ちカメラで撮影するような破天荒スタイルだ。撮影をして、作品をつくること自体が楽しいタイプ、どんなものが出来上がるかは知ったこっちゃねぇ。

(映画製作と大きく違うところがある。文章はあとからいくらでも書き直せるので、恐れずダダダッと書き進められるのだ。自主制作映画では編集の段になって「あぁー!このシーン撮り直したい!(or 撮り忘れた……)」と机に突っ伏したことが幾度となくあるが、文章ならば何の事はない、ちょちょっと文字を消して、新しく書き直してしまえばよい。何も怖くない。文末までギャッと書き切って、あとで修正しよう。)

こうやって書いたnoteは、いい感じに仕上がるものもあるし、もうちょっと読む人にやさしい文にできたんじゃないかな、と反省するものもある。破天荒監督も表現者の端くれなので、受け手に伝わるかどうかを非常に気にしているのだ。

映画には、メッセージを強く表に出すもの、ひっそりと隠喩するもの、そもそもメッセージなどないものもある。私のnoteは今のところ真正面からブン殴るようなオピニオン系と、ちょっとした主張を家族の日常風景に重ねるドキュメンタリー系の2パターンぐらいしかない。伝えたい想いはたくさんある。もっと修行を重ねて多彩な表現をできるようになりたい。

サトウカエデさんが「こんなこと書くと、やっぱり何言っているかわからないと思われる気がする。」と先述の記事に書いていたのと同じ気分になってきた。読み手のみなさんには何言っているかわからないかもしれないけれど、私はこんな気持ちでnoteを書いています……。

もうひとつだけ、文章を書くときに私の中の映画監督がこだわっている演出がある。最後の一文は、切れ味の良いもの、パッと画面が暗転しエンドロールとともに爆音でエンディングテーマが流れるようなイメージで書くのだ。
先日、公式おすすめにピックアップされた私の記事とか、最後の一文が終わった直後、ハチャメチャにハッピーな音楽が流れてくる感じしませんか?し…ないか?そうか。

この記事のエンドロールはまだ先である。私もサトウカエデさんと同じく、みなさんのnoteを執筆する際の心象風景を見てみたい。ので、どなたか書いてくださると嬉しいな。

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