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坂口安吾と自己啓発男

高校生のときの愛読書は『堕落論』、昭和の文豪 坂口安吾(1906-1955)の代表作である。その豪快な論の展開、破天荒な筆致に私は心酔していた。


大学に入ったあと、ヒロキ(仮名)と知り合った。彼は野心に燃え、悪い意味での「意識高い系」が言うようなことを吹聴していた。実際には何も成し遂げていないのに、成功者のようなセリフを吐いて常に周りの学生よりも自分を高く見せようとするのだ。

ある日、ヒロキは私に本を手渡して言った。
「自費出版の本を書いたんだ。本当なら買ってほしいんだけど、特別に読ませてあげる。読み終わったら返してね。」
へぇ。本書いたんだ。その場でページをめくり、冒頭部分を読む。

『僕は慶應義塾大学の学生。』
いや自分、京都の私大の学生やん。最初の一行でイラっとしながら突っ込むと、ヒロキは、まぁそこは説得力を持たせるために、とわけのわからない言い訳をして、先に進んでよ、と促してきた。

『キャンパス内の噴水に座って彼女を待っているところ。恋も人生も上手くいっている僕が秘訣をお教えしよう。』
いや自分、彼女おらんやん。いたことないやん。なんやねんキャンパス内の噴水て。二行目でイライラMAXにするなんて、逆に才能ある。

本を突き返そうとする私をたしなめて、いいから、特別だから、家に持って帰って読んでみて。役に立つからさ、とヒロキは自信満々であった。
いちおうパララーっと目を通してみたが、中谷彰宏さん(自己啓発本をたくさん書いている)の著書から転載しました?というような案の定な内容であった。

書いてあること自体は自己啓発本から拾ってきたような、一理あるなぁという内容だが、ヒロキの人生から生まれてきた言葉たちでないことは火を見るよりも明らかだった。
口を開けばマウンティング、学内で違法行為すれすれというかアウトなビジネスをして(実行力はある)大学側から注意されている彼が、恋愛論とビジネス論、しかも世間的に成功しているような口ぶりで語る。現実と言葉の乖離が甚だしいにもほどがある。
マジで中谷彰宏さんの著書から転載したでしょ。白状しなさい。


以来、巷に氾濫する自己啓発本、SNSで跋扈する自己啓発系や投資アカウントは「全部ヒロキに見える病」にかかってしまった。
(ヒロキ、いま何してるのかな。情報商材屋さんになっていないよね。)

薄っぺらい「成功者の言葉」に微塵も心が動かない体質を得たのは良いのだが、「ヒロキ病」は思わぬ後遺症を残していった。


ヒロキの本を読んでしばらくしたあと、いつものように坂口安吾の本を読んだ。
何かがおかしい。
坂口安吾の「痺れる」と思っていた強引なまでに力強い文章が、酒を飲んでグデングデンになったオジサンが語る居酒屋談義に見える。だめだ、これは。ヒロキ病は、不可逆性なのだ。勢いのある高らかな文章の向こうに、どうしても、ウンウン唸って酒を飲んで筆を進めるオジサンの姿が見えてしまう。かっこいいと憧れていた坂口安吾はもう戻ってこない。

なんてことをしてくれたんだ、ヒロキ。

ヒロキ病にはいい側面もあった。
坂口安吾の書いたものには、文筆家仲間を題材とした随筆が多く残されている。
太宰治論を展開する『不良少年とキリスト』、織田作之助を論じる『大阪の反逆』。それらはヒロキ病を患ってからの方が、楽しく読めるようになった。文筆家同士のおちょくりあい、ライバルに対する嫉妬心、訃報に際しての悲哀、「文豪」というちょっと遠い存在が、かわいささえ感じられるオジサンたちに見えるようになった。


蓋し(けだし)ヒロキとの出会いは、安居への憧憬を破壊した。破壊ののちに可愛らしいオヂサンとして安居を蘇らせた。
私は未だに自己啓発本は上手に読めないし、読むならエッセーを好む。
(↑この段落は、坂口安吾ぽく書いてみました。「蓋し」は「思うに」という意味で、安居がよく使うフレーズです。)


これを書く前、久しぶりに坂口安吾を読みたくなって青空文庫で堕落論を探したら、冒頭部分でもう難しくて読むのが辛くなっていました。現代の読みやすい文章ばかり読んでいたため、近代文学をたしなむ力が衰えてしまったみたい。

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