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不同意堕胎致傷について思うこと


つい先日、飛び込んできたニュースに、私は耳を疑いました。

医師が知人女性に対して、同意を得ないまま堕胎手術を行った、という事件。


この報道を知ったとき、私はとても、やるせない思いをしました。

今日はこのことについて書きたいと思います。



はじめに


この事件では、まだ医師は容疑者にすぎません。

裁判で有罪判決が出ない以上、その医師は有罪ではありません。今後、事実関係が明らかになる過程において、当初とは異なる事実が明らかになるかもしれません。そして医師が無罪になる、あるいは無実である可能性もあります。

疑わしきは罰せず。

司法の基本原則において、逮捕された医師は、いまだ無罪です。

今回は、その無罪の人に対して、批判的とも取れる発言を行うことの重大さと責任を負うつもりで、この文章を書いています。



堕胎手術は医療でなければならない


堕胎手術、いわゆる人工妊娠中絶手術というものは、誰でも受けられるものではありません。母体保護法という法律に基づき、厳密に決められています。

人工妊娠中絶が認められるのは2つです。ひとつは、母体の健康上あるいは経済的な理由で妊娠の継続または分娩が困難な場合、もうひとつは、暴行もしくは脅迫によって性交の抵抗・拒絶することができなかった場合です。

そして手術を行うのは、母体保護法指定医という資格を持つ医師のみであり、誰でもできるものではありませんし、誰にでも許されるものはありません。



あまりにも痛ましいとしか言えなかった


報道を聞いた時に真っ先に思ったのは、被害を受けた女性はどれほど辛いだろう、ということでした。妊娠されていた女性は、堕胎の意思はなかったとのこと。そして事件があった2日後に産婦人科を受診して胎児を確認できないと知り、堕胎手術に気付いたということを知りました。

女性は妊娠2ヶ月だったとのこと。

妊娠2ヶ月といえば、ちょうど心拍が確認できて、母子手帳をもらいに行ける頃です。早い方ではつわりが始まっているかもしれません。妊娠希望があり、自らの月経周期を気にされていたのかもしれません。女性は堕胎するつもりはなかった。

その状況で、顔見知りの知人から「診察してあげる」という言葉をかけられ、会いに行った。医師である知人の言葉を信じたのでしょう。そして気がついたときには、お腹の中にいた胎児はもう、いなくなってしまっていた。

想像を絶する状況です。

SNSでもリアルでも、女性の心情を慮る言葉が少なく、それがひっかかっていましたが、少なくとも自分ならとても耐えられなかっただろうと思います。

ご本人にはまったく堕胎の意思はなかった。不慮の事故に遭ったわけでもない。なのに目が覚めたときには宿した命を勝手に奪われていた。そんな理不尽なことが、あって許されるのだろうかと。


この行為を医師が行った、ということが、私は信じ難かった。いや、信じたくありませんでした。



医療と暴力をわけるものはなにか


医療従事者が医療を行えるのは、それが医療であるからです。

私がやっているのは、ほとんど他人とも言える人に対して、その体に針を刺し、麻薬を投与し、呼吸を止めるような仕事です。針を刺すのが傷害罪にならないもの、麻薬を投与することが麻薬取締法に違反しないのも、呼吸を止めることが致傷罪や致死罪にならないのも、それらがすべて医療行為だからです。

医療行為というのは、できるからやるとか、やりたいからやるものではないんです。

例えば私がある日突然、「手術をやりたい」という理由でメスを患者さんに向けたとします。これは、医療でもなんでもありません。

私に外科手術を行う技量がない状態で、患者さんにメスを入れるというのは、医療ではなく傷害、あるいは暴力だと考えています。それは職業倫理上、あってはならないことです。


医師が患者に行う処置は、すべからく医療であるべきだと考えています。医療というのは、患者さんの同意を前提に行うものであり、そして患者さんの心身を守るためにするものです。でも、今回は違う。


私が医療行為をできるのは、私が医師だからではありません。

私が持っている医師免許が、私に医療行為をすることを許しているんです。


私が医療を行えるのは、私が偉いわけではないんです。私が医師免許という資格を持ち、その資格が私に、ともすれば暴力と紙一重になりかねない医療という行為を許している。だから「できるからやる」「やりたいからやる」というのは、何か違うと思います。


逮捕された医師は、詳細はわかりませんが、おそらく堕胎手術が「できた」のだと思います。

でも、医療とは「できるからやっていいもの」ではないんです。

患者さんの同意を得ていない時点でそれは傷害罪ですし、胎児に対しては殺人罪になるかもしれません。患者となった女性に対して、医師は十分な説明をしなかったはずです。

堕胎手術、と簡単に言いますが、簡単なものではありません。

手術後に早産や流産のリスクが高くなることもありますし、堕胎手術そのものが不可逆的な後遺症を残す可能性もあります。また、この女性は処置中「意識を失った」とあります。意識を失うということは、何かしらの鎮静薬が用いられた可能性があります。こういった薬剤は、一歩間違えば呼吸が止まり命を落とす可能性もあるのです。

患者さんを危険に晒すような行為を行い、そして実際に心拍動がある生命を奪ってしまった。それが「できてしまったからやった」ということに、倫理観の欠如を感じずにはいられません。



虎の威を借る狐になってはいけない


医師というのは、権威というものを得やすい職業だと思っています。まるで虎の威を借る狐のように。

医師免許は、本来の自分よりも自分を大きく見せてしまうものです。ともすれば自分は偉大な存在なのだと勘違いさせそうになるほど、強い力を持っています。

患者さんは医師に対して態度を変えます。

病棟で業務を行なっていた頃、よく患者さんから「看護師さーん」と呼び止められました。ああ、これは自分のことだなと思い、「どうされましたか?」と足を止めていました。病棟のこと、あるいは患者さんのことは、看護師さんのほうがよく知っています。薬の管理や、睡眠や、家族とのこと。だからいつも「すいません。私は看護師ではないのでお答えできるかわかりませんが、必要であれば看護師に伝えますし、必要があればナースステーションに行って担当のものを探してきます」と伝えていました。それを聞いて、患者さんはハッとなっておっしゃるんです。

あ、先生でしたか。すいません、と。

その瞬間、ほんの少しだけ、態度が変わります。最初に私を「看護師さーん」と呼び止められたときよりも、少しだけ、遠慮深くされていたんです。


このとき、患者さんは私を見ているのではなく、私が持っている医師免許を見て私を判断されているのだということを強く感じました。


医師になって10年弱。いろいろな病院で、そして手術室で勤務をしてきました。たくさんの看護師やコメディカルの方とも仕事をさせていただいています。そしてどこにいっても必ず、私は「先生」と呼ばれます。

先生って呼ばれると、自分が偉くなったように勘違いしがちなんですよね。

でも、そうではない。

看護師さんが私を「先生」と呼び、指示を仰ぎ、あるいは言葉をかけて気を遣ってくださるのは、私が偉いからでもなんでもないのです。私の「医師として責任」がその場に必要だからでもあるし、あるいはそれまでその職場で働かれてきた他の医師たちが、多職種の人々を尊重し、尊敬し、良好な関係を築いてきたからこそ、たまたまその場にいた私が快適に働けているんです。


それを自覚しなければ、私はただの虎の威を借る狐にすぎません。

自分は何もしていないのに、自分の力だけで偉くなったような錯覚をしてしまいそうだと、いつも感じています。



医療の姿をした暴力ではない、別の方法はなかったのだろうか


逮捕された医師が、どういう考えで今回の行為に及んだのかはわかりません。

ですが仮に「自分は処置ができるから」という理由で今回のことがなされたのだとしたら、悔しいですし残念だと思います。仮にその医師が望まない妊娠であったとしたならば、別の方法で解決に望んで欲しかったと思います。医療の姿をした暴力ではなく、人として、人間らしく、言葉の力でこの問題と向き合って欲しかった。


そして今回のことが事実であるならば、被害女性に対して精神的、身体的に適切なケアが専門家の手によってなされることを願います。また、女性が今後妊娠を望まれたときに、なんの憂いも悲しみもなく、その希望が叶うことを強く願います。



心して、今後の行方を見守りたいと思います。






お読みくださりありがとうございました。
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辛い気持ちにさせてしまった人がいたら、申し訳ありません。
大切な人と、心安らかにお過ごしください。

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