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葛藤と救済の物語。ミュージカル『ベートーヴェン』感想と考察

2024年1月14日にミュージカル『ベートーヴェン』を観劇した。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生涯の謎でもある、彼と、彼の「不滅の恋人」と称されるアントニー・ブレンターノ(トニ)との物語だ。

私が持っているベートーヴェンに関する知識はかなり乏しい。小学校の音楽室に飾られている肖像画、耳が聞こえなかったこと、酒浸りの父親に音楽を強制されたこと、モーツァルトよりも後の人物、というくらいだ。大のクラシック音痴のため、代表曲もほとんど知らない。「運命」の「ダ・ダ・ダ・ダーン!」と、「エリーゼのために」の冒頭くらいだ。「不滅の恋人」のエピソードもまったく知らなかった。それくらい、予備知識がなかった。

その『ベートーヴェン』に、お花様(花總まり)が出演するのだ。ベートーヴェンの不滅の恋人とされた、アントニー・ブレンターノ役で。これは観るしかない。

というわけで、観た。年末の配信と、御園座で生の舞台を観た。そして考えた。そのことをつれづれと書こうと思う。音楽にも音楽史にも詳しくない素人が考えた、あくまで個人的な考察なのでその点は多めに観ていただけると大変ありがたい。そして盛大なネタバレをしているので、その点もご容赦いただきたい。


ルードヴィヒとトニの間にあった”愛”とは、なにか


初見からずっと気になっていたのが、ルードヴィヒとトニの間にあった愛情とは「なに愛」なのか、だった。その昔、小学校の先生から愛とは3種類あり、それは「慈愛」「恋愛」「友愛」で、そのうち見返りを求めないのは「慈愛」のみであり、あとの「恋愛」と「友愛」は見返りを求める愛情なのだ、と教わった。今回の開幕前インタビューで、ルードヴィヒを演じる井上芳雄さんが「やっと花總さんとがっつり恋愛のお芝居ができる」と話していた(確かにこれまでは姉弟だったり死神だった)。なので本作はルードヴィヒとトニの大人の恋愛劇なのだろうと予想していたのだが、最初に配信を観た時の印象は想像していたものとは違った。確かに二人の間に恋はあるし、愛情もあるけれど、その一方で男女の情愛とも言える生々しい恋愛感情はあまり感じなかった。それはトニに夫と子どもがおり、フリーな男女と違って互いの感情のままに行動することができず、どうしても互いに一歩引いた状態で関係を作り上げていくしかなかったのだとしても、それだけではない「恋愛」以外の愛情が二人を強く結びつけているように感じたのだ。これは芳雄さんが言っていた「恋愛」なのだろうか、と配信を見ながら心がざわついていた。

だから御園座で生の舞台を見る時、ずっと考えていたのだ。二人が交わし合った愛情の中には、なにがあるのだろうかと。


被虐待児でもあるルードヴィヒと、音楽


舞台は1810年のウィーンから始まる。ここで公爵家の晩餐会に演奏者として招かれたルードヴィヒ39歳と、貴族夫人であるトニ30歳が出会う。公爵家の弁護士に身なりを指摘されたルードヴィヒは開口一番に「僕に命令できるのは死んだ父親だけ」と答える。

ルードヴィヒの父は音楽家でありつつ、大変な酒飲みであり浪費家だった。ルードヴィヒに音楽の才能があることに気づくと、その才能を金銭に変えるべく過酷な指導をする。今から考えれば立派な虐待である。その父の影が、音楽家として成功した39歳の成人男性の日常にちらついている。音楽家として成功を収め、父親との苦しい記憶などとっくに取り払ってもいいはずなのに、未だにルードヴィヒには父親の影が張り付いている。象徴的なセリフだった。

ミュージカル『ベートーヴェン』は、彼と彼の「不滅の恋人」との物語であるとと同時に、虐待されて育ったがために、他者への信頼や愛情を理解できずに成長してしまった大人の葛藤と救済の物語でもある、と私は思っている。だから作中のルードヴィヒは絶えず揺らいでいる。救いを求めて手を伸ばそうとするのと同時に、絶望に慣れきってしまい心を閉ざそうともする。孤独で他人に心を許さない人間が心を開いていく物語。そう書いてしまえば至ってシンプルだが、その揺らぎが彼と彼の"音楽"との関わりを通して描かれていく。

一幕の前半で、ルードヴィッヒが念願だった宮廷音楽会を目前にして「これこそ勝利だ」と歌う。喜びと自信に溢れてはいると同時に、この時の彼は独善的だ。「ここまで一人でやってきた」「音楽だけを支えにやってきた」という歌詞には、音楽との閉じた関係性が滲み、「自分を馬鹿にした貴族たちにも、自分が作った音楽を与えよう」という言葉には傲慢さも感じさせる。

この物語には、"音楽"たちがルードヴィヒの周りを常に取り囲んでいる。『モーツァルト!』でアマデウスがいたように、『エリザベート』で死が体現されたように、クンツェ&リーヴァイ作品では目に見えない概念や存在を"役"として表現しえくる。今回の"音楽"たちも過去の作品と同様に、ルードヴィヒに非常に大きな影響を与えている。

ルードヴィヒと"音楽"は、非常に閉じた関係にある。ルードヴィヒは音楽をもって外界や他者と接しようとするし、そして彼の周りにいる”音楽”たちもまた、ルードヴィヒに孤独に音楽と向き合うことを要求する。宮廷音楽会の直前、ルードヴィヒの頭には彼自身と彼の音楽しかない。それまで彼を献身的に支えてきた弟のカスパールや、彼の音楽を聴いて喜ぶ観客、演奏者たちへの関心もない。この宮廷音楽会は、彼にとって「一人きり」で成し得た勝利だった。だからこそなのか、この音楽会は開催されることなく中止となる。作中、一人きりの驕った勝利は達成されないのだ。


ルードヴィヒにとっての音楽


彼にとって音楽はなくてはならないものだ。音楽を作りあげる喜び、大衆や貴族に受け入れられる興奮。音楽は、貧しい暮らしをしてきた彼が、地位や名声、金銭を得るために必要不可欠なものだった。だからこそ、聴力を失うと知った彼は絶望する。聴こえなければもう音楽を作り出せないと気づき、生きていく希望を失う。

ルードヴィヒは、音楽なくしては生きられなかった。幼いルードヴィヒと、彼を虐待する父親が交錯する場面で幼いルードヴィヒを抱き上げたのは父でも母でもなく”音楽”だった。”音楽"だけが、ルードヴィヒを父親から守り、引き離すことができた。けれど彼にとって命とも言える音楽は、他でもない彼の父親から与えられたものだった。自分は音楽を愛している。音楽に愛されている。けれどその音楽を最初に自分に与えたのは、酒に溺れ自分を殴り怒鳴った父親である。この事実は、作中の彼を蝕む最大のアンビバレントであったはずだ。

「僕と僕の音楽に敬意を払え」とルードヴィヒは言う。音楽を携えて晩餐会や音楽会に招かれる彼は尊大なほど堂々とした物言いをする。自身の演奏会を中止に追い込んだ貴族を糾弾するときでさえ、彼は一歩も譲らない。けれど一転して、街中を歩く彼の背は丸い。俯いて、誰とも関わることを避けて足元を見ている。「連中は、僕の音楽は好きだけど、僕のことは嫌う」というのが、彼の自己認識である。父親から虐待され、その中で母親から「きっと立派なピアニストになる」と呪いを受けてしまったルードヴィヒの自己肯定感は地底よりも低い。ルードヴィヒが音楽から離れて生きていくことができれば違う人生があったかもしれないが、残念ながら彼は音楽を手放せなかったし、音楽もまた彼を解放しなかった。ルードヴィヒを守りながら、一方で孤立させていく"音楽"たちの迫力がすごい。


トニの慈悲と愛情


本作において、トニがなぜ「不滅の恋人」足り得たのか。その理由を考えるに、おそらくルードヴィヒに「他人を信じること」そのものを教えたのが彼女だったからだと私は考えている。単純な恋愛感情だけではなく、そもそも「愛」というものを知らなかったルードヴィヒに、まずは「信頼」という感情を教え、そして、慈愛や友愛も含めた「愛」を伝え実感させたのが彼女であったと。それは一方的に与え、与えられる関係ではなく、トニとの関係性の中でルードヴィヒが自ら気づいていったものでもある。

さて、そのトニを演じるお花様について語りたい。

めちゃくちゃ可愛いのだ。

トニを演じるお花様が可愛いと言うべきか、お花様が演じるトニが可愛いというべきか。とにかく可愛い。可愛い。30年以上のキャリアを持ってしてなお可愛いを更新してくるお花様。可愛いが渋滞しているので一瞬も目が離せない。

一幕の冒頭、ベートーヴェンが招かれた舞踏会にトニも現れる。上手から現れたトニは、”あの”ベートーヴェンの演奏が聴けると知っているのか、ウッキウキなのである。背中から楽しみで楽しみでたまらない気持ちが溢れているし、弁護士に注意されているベートーヴェンを見つけて「あ、あそこにベートーヴェンさんがいるわ! お話しできるかしら? お取り込み中かしら? ああ、でも少しだけでもお話しできたらいいのに!」(これはセリフではなく私の妄想です)という様子でそろりそろりと近づいていく姿が可愛くて可愛くてたまらない。配信ではここまでウッキウキのお花様は映っていなかったので、これは生の舞台の醍醐味でもあった。眼福だった。

トニは名家の令嬢であり、彼女の父は政治家でベートーヴェンの支援者でもあった。幼い頃からベートーヴェンの楽曲を聴き親しんできたのだろうか、憧れのあの人に会える!と少女のように胸を弾ませるトニの姿は、危ういほど屈託がない。

その後、一幕の途中、突然訪ねてきたベートーヴェンに驚くトニもまた、めちゃくちゃ乙女なのである。「あの、あの、いただいた楽譜を持ってきますわ!」と言いながら、後ろ向きでぴょんぴょん跳ねながら舞台下手にはけていくのだ。繰り返そう。後ろ向きでぴょんぴょん跳ねながら退場していくのだ。可愛いが渋滞している。宝塚時代、ある評論で「花總まりの走る姿が好きだ」と書いてあるのを読んで以来、私はお花様が走る時はその走り方を凝視してしまうのだが、この後ろ向き走りは突出して可愛かった。あのシーンだけでも延々と見ていられる。円盤化されるならぜひ収録してほしいし、できるなら1月21日の千秋楽配信でも見たい。


話は戻して。


本作はベートーヴェンと共に、トニという一人の女性の葛藤と救済の物語でもある、と思う。名家に生まれ、恵まれて育った高貴な女性。美貌も教養もあり、本人も「恵まれている」と何度も口にする。だけど彼女はどこか満たされない。言葉にできない空虚さを抱えながら呟くのだ「私には悲しむ”資格”がない」と。
この「資格」という言葉がずっと気になっていた。悲しむ「理由」ならわかるのだ。金銭的にも恵まれ、子どもも生まれ(当時の貴族階級の女性にとって後継を産むことはかなり重要なことだっただろう)、地位も名誉もある。だから悲しむ「理由」がないならわかる。けれど彼女は「資格」がないという。誰もが羨むものを持っているはずの彼女の、この自信のなさはなんだろう。何不自由なく育ったはずの彼女は、けれどもまた、ルードヴィヒと同じようにどこか満たされなさを抱えた少女だったのではないか。実家の父の書庫を整理しながら、彼女は何度も「15歳の頃に夢中になって読んだ貴婦人と狼の物語」を語って聞かせる。トニが結婚したのは17歳。15歳であれば、社交界にもデビューし、嫁ぎ先も決まり始めていたかもしれない。彼女はなにを15歳の頃に残してきたのだろうか。


ルードヴィヒとトニの「子どもの頃の満たされなさ」が交わるのが、一幕のact 10、バーデンでのシーンだ。療養中のルードヴィヒのもとに、トニが訪ねてくる。この場面は、初めてトニが「自分の意思で」ルードヴィヒに会いにいく場面でもある。散歩する二人を、突然雷雨が襲う。激しい雨と雷。ルードヴィヒは恍惚とした表情さえ浮かべながら、雷を歓迎する。

ルードヴィヒにとって、雷は音楽だ。

激しい光と音。見るものに衝撃と、驚愕と、恐怖を与えるもの。雷が音楽だからこそ、音楽から逃れられないルードヴィヒはまっすぐに雷を求める。その背中を見ながら、トニは理解するのだ。「あなたの中にある、傷ついた子どものあなたを」と。

そこにあったのは、たぶん恋愛感情ではないんじゃないかと思うのだ。恋した男性を激しく焦がれるような、男女の情欲的な感情ではないと、私は思う。でなければ目の前にいる成人した男性の中に、小さな子どもを見るはずがない。ルードヴィヒの心の中にいる、癒されることのない幼い傷にトニは気づいた。そしてそっと、彼の目を塞ごうとするのだ。

ここでトニの「子どもを持つ母親」という特性が活きる。

小さな子どもにとって雷は怖い。雷を怖がる子どもは、そばにいる大人、多くは親に助けを求める。親は子どもを抱きしめ、暖かい場所で守る。時に目を塞ぎ、耳を塞ぎ、恐怖から遠ざけようとする。きっとトニはそうしてもらった過去があり、また自分の子どもにもそうしてきただろう。だから当然のように、トニは手を伸ばした。雷を、雷のように傷と栄光を与えた音楽から、彼の目を塞ごうとする。そこには恋愛感情だけではない、慈しみの心があるように見える。

残念ながら、その手は他ならぬルードヴィヒにより払い除けられた。彼は雷に打たれながら生きてきた。生き延びていくすべを学ぶしかなかった。だから雷から守ってもらう体験をしていないから、強く求めてしまう。目を塞ぎ、耳を塞いでくれる暖かな人は、子ども時代の彼にはいなかった。

そして雷雨の中、二人は初めて唇を交わす。貪りあうような劣情はあまり感じなかった。どこか欠けたものがあって、それが何かわからないけれど、けれど欠けたものを差し出したルードヴィヒと、それを理解したトニが欠けたものを埋めるように触れ合った、そんな口付けだった。ルードヴィヒは愛を知らない。理解できない。トニに向けた感情が恋愛なのか、子どもの頃に与えられなかった安心や信頼を求めた結果のか。本人も自覚できていない。けれど、ルードヴィヒの中に埋められないなにかがあって、それに初めて触れられたのがトニだった。恋愛感情がないとは言わない。けれどそれだけでは成立しない。この時のルードヴィヒにはまだ、その区別がつかない。

作品を通して、二人の関係はプラトニックだったのか否か、ということをずっと考えていた。個人的には、プラトニックでも十分ありなんじゃないかと思っている。男女の劣情があってもそれはそれでありなのだが、二人の恋愛はどこまでも無邪気で、欲深くて、潔くて、儚くて力強い。これはプラトニックでもそうじゃなくても成立する。


トニはルードヴィヒにとって女神(ミューズ)だ。
一幕最後で、トニが現れる。初めて出会ったときの、純白の夜会服をきて、彼女はルードヴィヒの頭上から楽譜を降り注ぐ。父親でもない、音楽でもない。愛情を交わし合い、感情を許し合った人から与えられた初めての音楽。ルードヴィヒにとって、音楽は希望でもあり、絶望でもある。傷ついたルードヴィヒに触れた初めての人。その人から与えられた、これまで経験したことのない音楽を、ルードヴィヒはトニから得た。


なにもかもを持っていて、なにも持っていないトニ


本作でもう一人、存在感を放つのがトニの夫、フランツ・ブレンターノである(お花様がたびたび「フランツ」と呼ぶので、エリザの「フランツ違い」が生じている。ちなみにフランツの中の人もフランツである)。作中ではかなり嫌なやつとして描かれているが、実際はそうでもなかったらしいし、トニとの夫婦仲もそんなに悪くなかったらしい。なのにその辺の史実は横に置かれ、フランツはとにかく「強権的な人物」として描かれている。

フランツもまた、象徴だ。ルードヴィヒの父親のように「威圧的で、妻や子どもを自分の所有物として支配する父親」としての象徴だ。時代は19世紀になったばかり。フランス革命を経てはいるものの、まだ貴族社会は続いているし、平民が力を持っても女性の参政権は認められていない。父親(男親)が社会でも家庭内でも強い力を持っている時代だ。フランツの振る舞いは当時の常識から極端に外れているわけではない。貴族との結婚は契約だし、妻の財産はもれなく夫の財産だ。自分が愛人を囲うのは問題ないが、妻が恋をするのを放任できない。妻は、その存在も、財産も含めて夫が管理する対象であり、フランツはそれを忠実に守っている。それだけだ。

対して、トニはなにも持っていない。

恵まれていて、人が羨むようなものすべてを持っている彼女は、その実、なにも持っていないのだ。彼女の地位も、教養も、すべて彼女のものではなく彼女の「実家」であり、さらには彼女の「父」が作ったものだ。その栄光の一部は、婚姻という形で夫のフランツが持っている。彼女は「アントニー」ではなく「ブレンターノ夫人」でしかない。

実家の宮殿を売り出そうとするフランツと、それに抗議するトニ。フランツにしてみれば妻の財産は自分のものなので、好きにするのは当然だ。そのことをトニは薄々気づいている。けれど彼女は「なぜ自分が父親の財産を継承してはいけないのか?」とは問わず、ただ父との思い出を訴えることしかできない。女性もまた男性と同じように実家の財産を継げるはず、夫だからといって妻の財産を自由にしていいわけではない、という思想や主張はない。社会がまだそこまで成熟していないのだから、その発想がそもそも存在しない。思想や概念がなければ、自分の苦しさや矛盾に気づき追求することも、自分が望むものを訴えることもできない。恵まれている彼女は、その実、なにも持っていない。

トニの弱さを感じさせる場面がもう一つある。ベッティーナとの関係である。

作中、ベッティーナとトニは行動をよく共にしている。姉を慕うベッティーナと、可愛い義妹に心を許すトニではあるが、しかしトニはまた、ベッティーナがフランツと連絡を取り合っていることに気づいている。トニとルードヴィヒの関係をフランツに告げたのは、フランツの妹であるベッティーナだ。「ベッティーナを連れていけ」というフランツに対して、トニは「監視するのはやめて!」と叫ぶ。トニは、義理の妹が自分の行動を監視していることに気づいているのだ。

それでもなお、トニはベッティーナに子どもたちを連れてくるように頼む。彼女が裏切ったら、子どもたちを連れて夫と離婚することはできないと理解しつつ、裏切るはずはないと信じることしかできない。トニには自分の味方をする弁護士もいなければ、自由にできる財産もない。唯一頼ることができるのは(作中であえてそう見せていたとして)夫の妹だけなのだ。すべてを持っているように見えて、なに一つ動かせる手札がない。これは厳しい。

家長という強すぎる相手には、決して叶わない。その惨めさをトニは味わう。「千のナイフ」は今回の日本ver.で追加された新曲だが、歌い上げるごとに絶望が深まっていく。クンツェ&リーヴァイの曲は、曲の中で歌い手の感情が変わっていくことが多いが、この曲はどんどん絶望を深掘りしていく。なにも持っていない彼女が、なにも自分の力では自由にできいない彼女が、唯一自ら生み出した子どもたち。それを奪われる辛さは、「子どもと離れ離れになる母親の悲しみ」だけではない。トニにとって唯一存在する「自分で何かを成し得る力とその象徴」を奪われることなのだ。


トニの夫のフランツは、死んでしまったルードヴィヒの父親の再現なのではないかと思う。フランツとトニの構図は、ルードヴィヒの父とルードヴィヒとの構図でもある。けれど決定的に違うのは、トニにはルードヴィヒがいたことだ。フランツと別れることもできず、ルードヴィヒとの生活を選ぶこともできず。子どもたちと共に生きたいと願うトニの背中を、ルードヴィヒは迷いなく押す。たとえ家長に従うしかなくても、自由に人生を選べなくても、それでもルードヴィヒはトニを愛し、トニはルードヴィヒを愛している。それは、幼いルードヴィヒには与えられなった感情だ。愛を支えに生きる、という言葉では言い表せないやりとりが、ドナウ川のほとりで交わされる。ままならない人生の中に、それでも愛はあると確信を持って生きていく。

与えられなかった子どもが救われる方法は、いくつかある。自分で自分を癒すこと。あるいは、他の誰かを癒すこと。ルードヴィヒはトニを救うことで、トニを愛し彼女の人生を肯定することで、自身を救済する足掛かりを得ていた。ルードヴィヒはトニを救った。幼いルードヴィヒをトニが救ったように。


弱さを認める、曝け出す


トニと別れたのち、ルードヴィヒは決別した弟、カスパールと再会をする。「兄さんはなにをしたいの?」と問うカスパールに「ただ謝りたかった」と告げるルードヴィヒ。愛しい人を失ったルードヴィヒが、怒鳴り散らすでも、自暴自棄になるでもなく、大切な弟に謝るのだ。


自分を信じられない人間は、自らの非を認められない。


傲慢に振る舞う人間ほど自信がない、というのはそういうことだ。他人を信じられないルードヴィヒは、他人に弱さを曝け出すことができなかった。耳が聞こえなくてもそうと知られないように必死に振る舞う。弱みを見せるなと、”音楽”たちも囁く。そのルードヴィヒが、自らの非を認め、これまでの振る舞いを、おそらく初めてカスパールに謝罪したのだ。


カスパールとの和解より前に、ルードヴィヒが自分の過ちを認め他者に打ち明ける場面がある。二幕の前半、プラハの演奏会が失敗に終わった理由をトニに問われ、最初は「演奏者が悪い」と取り繕った直後、「あなたに嘘はつけない」と自分の難聴のためにうまく指揮ができなかったことを吐露する。一幕の最初、ひたすら音楽を盾に他者を糾弾していたルードヴィヒにとって、他人に隙を見せるものかと懸命に強さを演じていたルードヴィヒにとって、「この人になら打ち明けても責めないだろう」という存在が、トニだったのだ。


ルードヴィヒは、おそらく父から謝罪されることはなかった。彼は、彼の父から謝ってもらうことはできなかった。幼い頃の傷を、傷のまま残しておくことしかできなかった。しかしルードヴィヒは、弟に謝った。これはすごいことだと思う。

だから謝罪を受けたカスパールは泣きながらルードヴィヒを抱きしめた。愛を信じられなかった兄。時折、酒を飲み、暴力を振るい、父親の面影を見せてきた兄。その兄が、ボロボロになりながら、助けを乞うのではなく、強権的に要求するのではなく、自分に許しを乞うたのだ。

ルードヴィヒと再開する直前、カスパールは「僕はもう兄さんが怖くない」とヨハンナに言っていた。彼もまた、陽気に見せて、兄が怖かったのだ。父に似ている兄が怖かった。二人の和解は、苦しくも逃れられない環境の中で育った兄弟が、ようやく弱さを見せ合えた瞬間でもあった。抱き合い、互いの頭を撫でながら泣く兄弟を見て、私も泣いた。ああよかったね、もう大丈夫だねと思えたのだ。


和解した後、カスパールが「また明日来るよ」と去ろうとする。その背中に、ルードヴィヒは「ありがとう」と言う。このとき、ルードヴィヒはカスパールの声が聞こえていなかったんじゃないだろうかと思うのだ。ルードヴィヒにとっては、カスパールが近くにいることが当然だった。「あいつが出ていくはずがない」「すぐに帰ってくるはずだ」と思っていた。それはルードヴィヒが逃げられないと知りながら、彼に過酷な音楽を与えた父親と同じだった。けれど、ルードヴィヒは父親とは違う人間で、違う関係性を弟と築くことができる。「ありがとう」の言葉は、明日も来てくれることに対してではなく、ただ今日、この瞬間、カスパールが訪ねてきたことそのものに向けてだと思いたい。


“音楽”を従え音楽に生きる


トニと別れ、カスパールと和解したルードヴィヒは、再び音楽に向き合う。この場面で、実は二幕で初めて”音楽”たちが現れる。

一幕ではほぼ出ずっぱりで、ルードヴィヒがいるところいるところに現れた“音楽”たちが、二幕に入ってからはまったく出てこなかった。唯一の登場シーンが、
生きているルードヴィヒが登場する最後のシーンだ。k

ルードヴィヒが求め、ルードヴィヒを求めた音楽たちが、また彼の周りで音楽を奏でる。彼を音楽とだけの閉ざされた世界に誘おうとする。その誘いをベートーヴェンは否定しない。けれどある時、ルードヴィヒはピアノの上に駆け上り、音楽たちを見下ろす。

この瞬間、主従関係が逆転する。

ルードヴィヒは自分を作り上げてきた音楽を否定しない。父親が与えた音楽を否定しない。父親に強要されて磨き上げた音楽を否定しない。けれど、もう翻弄されることもないのだ。彼は自分の中から溢れる音楽を知っている。自分が自分の力で音楽を作り出せることを知っている。音楽を作り出せる自分を知り、その自分を受け入れ信頼してくれた女性を知っている。だからもう、ルードヴィヒは”音楽”たちの上に立つのだ。

人生を否定することは難しい。どれだけ嫌な記憶でも、それらをすべて捨て去って、まったく違う自分になるのは難しい。10代や20代の若者ならまだしも、この場面でのルードヴィヒは40代。若くないし、捨て去ってしまうには過去はあまりにも長い。だからルードヴィヒは”音楽”たちを否定しない。けれど、それがすべてだとも思わない。彼らを従えて、拳を高らかにあげ、恋に浮かれるのでもなく、恋の喜びに自分を鼓舞するのでもなく、音楽に生きる。そして晩年の作品へと繋がっていくのだ。


雷の中での別れ


そこから時間は一気に流れ、ルードヴィヒの死後、埋葬のシーンになる。
墓所では雨が降る。雷がなる。雷の音が聞こえた瞬間、トニがはっと目を見開き、そして噛み締めるように目を閉じながら俯いたのが印象的だった。ルードヴィヒにとって、雷は音楽だった。音楽に包まれて、彼は地中に眠るのだ。

「トニをただ可哀想な女性にはしたくない」と、お花様はパンフレットのインタビューで語っていた。その意味を考えている。「あなたなしでは、私ではなかった」という二重否定のなんともややこしい歌詞と一緒に考えている。
ルードヴィヒと共に生きることはできなかった。けれどルードヴィヒとの間に交わした愛情や信頼があった。それはトニにとって紛れもなく救いだったのだろう。一緒に生きることはできなくても、ルードヴィヒから与えられ、彼女の中に残るものはあった。

棺が埋葬され、ピアノの前にルードヴィヒが座る。本作で、実はルードヴィヒの演奏は一度も完結していない。「僕と僕の音楽に敬意を払え」という彼の要求に、初めて出会った時から誠実に応え続けた女性の前で、ようやく彼の演奏が完結するのだ。



……ここまで書いているうちに、またベートーヴェンが見たくなった。
御園座はダイレクトに音が響く、というのは千秋楽挨拶での芳雄さんの言葉だ。私も御園座は好きな劇場だ。横と縦にギュッと舞台に近く、しかし新しい劇場なので足元が広々としていてシートの座り心地が良い。今回、偶然にも壁の近くの席だったためか、音の迫力がすごかった。よい経験をした。


ちなみに本作、1月21日の千穐楽公演も配信がある。

円盤になるかわからないし、このキャストで次も続投されるかはまったくわからないので、もし興味があればぜひにとお勧めしたい。ちなみに配信後は一週間アーカイブがあるのでお得である。私も見ようか迷っていたが、書いているうちに見たい気持ちがもくもくと出てきて買ってしまった。


私にクラシックの知識がもっとあれば、作中に使われていた楽曲の制作背景や会食をもってして、より深くこの作品を理解できたんだろうと、少し残念に思う気持ちもある。(観劇前に友人に有名な楽曲をいくつか教えてもらってyoutubeで聞いていたのだが、どれも全然聞き馴染みがなく、しかも覚えられなくて断念した。完全なクラシック音痴である)だからもし、楽曲と絡めての考察があればぜひ拝読してみたい。


ミュージカル『ベートーヴェン』は、明後日、いよいよ千秋楽だ。




おまけ

印象的だったキャストさんの感想を少しだけ。

カスパール

最初の登場シーンから「あ、これ、陽気な弟枠」と一目でわかる仕様だった。兄に恋人を紹介するシーンでいきなり寸劇を始める弟。「彼女の手をとって〜🎵」と歌いながらヨハンナではなく兄の手をとる弟。新婚気分でるんるんしながら兄が床にぶちまけた楽譜を拾う弟。ウキウキである。

ときどき辛さや苦しさを滲ませるものの、カスパールが絶対的な陽であることが、ルードヴィヒの救いでもあったのだろうと思う。ルードヴィヒとの決別するシーンで、突き飛ばされたカスパールに抱き起こし、部屋から連れ出すヨハンナが印象的だった。カスパールには、苦しい時にその場から一緒に逃げてくれる人がいたのだ。


キンスキー公爵

演者の吉野さんは、マリーアントワネットのオルレアン公で拝見したことがある。第一印象は「やっぱり胡散臭い人」だった。(ごめんなさい)(褒めてます)けれどこのキンスキー公、ルードヴィヒの演奏会を邪魔したことを謝ったり、あれだけ色々迷惑をかけられていたはずなのにプラハの音楽ホールの最初の指揮者にベートーヴェンを読んだりと、意外と彼に理解がありそうな人なのである。

第一幕では貴族が全員カツラをつけていて、第二幕ではカツラを外していた中、やっぱりカツラをつけていたキンスキー公の存在がピカイチだった。あれはかつらじゃなくて地毛なんだろうか。誰か教えて欲しい。


ベートーヴェンのガチオタ

見ていてめちゃくちゃ楽しかったキャストさんがいた。第一幕の「賑やかな路地」の場面。街中を民衆とベートーヴェンが行き交うシーンに、ベートーヴェンのガチオタがいる。
これは配信では全部流れないだろうから、生で見る人はぜひ注目して欲しい。私はこのガチオタさんがめちゃくちゃ好きだ。ベートーベンの楽譜を持ち、街中でベートヴェンを見つけて「うわあああ!!あの!!あの!!ベートーヴェンだ!!」と興奮するガチオタ。サインが欲しくてベートーヴェンに楽譜を差し出すもスルーされ、それでもなお嬉しそうなガチオタ。いい匂いがするはずもないのにベートーヴェンの上着の匂いを嗅いで嬉しそうなガチオタ。その彼が最終的にベートーヴェンからサインをもらい、そして「どんな悪人でもベートーヴェンの曲を聞けば涙を流して改心するさ〜🎵」と歌うガチオタ。めちゃくちゃ良い。


金が好きダンサーズ

フランツと弁護士が「パートナーになろう!」「金が大事だ!」と歌う(これまた声が良い)後ろで、カフェの店員二人とお客さん3人がかっこよく踊っている。やたらとカッコ良いのでついつい見てしまった。バックダンサーさんに注視できるのも生の舞台のよいところである。


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