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好きなものは、ただ好きなだけででいい。

好きを仕事に、という言葉が私は苦手だ。

巷にあふれる「好きなことで稼ぐ」という文言。ここ数年は特に、より頻繁に耳にするようになった。

これを聞くたび、私はなんとも言えない、どんよりとした気持ちになる。
好きなことで収入を得ることは、素晴らしい。誰だって嫌なことを続けるのは嫌だし、自分の仕事を好きになれたら、きっと楽しい。

それでもなぜか、この言葉に引っ掛かりを感じてしまう。長らくその原因がわからなかったが、最近になってようやく気づいた。「好きなことで稼ぐ」という言葉の裏には、「好きなものとは、収益化できるものである」という方程式が見え隠れしている。それが納得できないのだ。



好きなことはたくさんある。

私には好きなことがたくさんある。

例えば眠ること。ふわふわの布団にくるまる至福のひととき。

本を読むこと書館のみっしり詰まった書架を眺め、タイトルと背表紙と装丁を見て、良いなと思う本を手に取る。借りた本でずっしりと重くなった鞄を抱え、喫茶店の門をくぐる。コーヒーが来るまでの間、かばんから本を取り出し、最初のページを開くその瞬間。

音楽やミュージカル。気に入った曲を、気がついたら何十回も何百回も繰り返し聞いている。ひたすら歌詞を読み込んで、自分なりの解釈や背景を考える。CDでは我慢できず、実際に公演やライブを見にいくこともあった。どんな服を聴いて行こうか、どのグッズを買おうか。考えるだけで楽しく、幕が降りた時は少し寂しかった。

他にも好きなものはたくさんある。

自宅で過ごすひとりの時間。ドリップコーヒーのちょっと贅沢な香り、深い飴色をした紅茶。新しいパジャマ、古着屋さんで見つけた着物。歌を歌うこと、お芝居を語ること。趣味仲間と語り明かす夜更け、何気ない手紙や贈り物。文章を書くこと、本の装丁を考えること。美味しくできた晩ご飯、一週間がんばったねと労いあう食卓。

どれも好きで、ただ好きなのだ。ただ好きだから、今まで細く長く続いている。
私の「好き」には、仕事に結び付けようとか、誰よりも極めようとする目的はない。自分の人生と日常の合間に、心を癒せる隠れ家のようなものばかりだ。

だからなのかもしれない。「好きなことで収入を」と言われると、そこで思考が止まってしまう。


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好きなことはあるけれど、お金になるかは別。

ときどき、自分の文章を褒めていただくことがある。文章力がある、読みやすいとのお声を頂くこともある。ひたすら思いのままに綴った文章にそんな声をかけていただくと、とても嬉しい。ただただ有り難く、恐縮するばかりだ。

実は過去に、文章で副業ができないかと考えたことがあった。何回か試行錯誤して、実際にライティングの募集要項を見てパソコンに向かったりもしたが、少しして諦めた。

理由は簡単だ。
私は「書く」ことにおいて、決定的な弱点を持っていた。それに気づいただけのこと。


弱点とは、誰かの求めに応じて文章を書くことができない、ということ。

書く、ということは感情の発露そのものだ。自分の中に育った思いや考えを、外へと出す作業。心の中めいっぱいに大きくなった感情や考えを、とても自分の中だけでは抱えきれないから、書くことによって外へと出す。

私にとって文章を綴る行為は、癒しや救いに似ている。突発的な衝動に突き動かされるからこそ、いつ、どこで、どんなものが出来るのか、まったく予測ができない。自分で自分の文章をコントロールできないのだ。

ライティングというのは、読者が「読みたい」「知りたい」と望むものに応える仕事で、これは私の「書く」という行為と正反対だ。だから私は、書くことはできても、ライティングや文筆業には向いていない。




実は、着物も同じだ。

数年前から着物にハマり、リサイクル着物を着たり眺めたりして楽しんでいる。着付け講師でもなく、目利きができるわけでもない。ただただ、着物というお洒落を自分なりに楽しんでいるにすぎない。

一方で、いわゆる「着物を収入としている人」に目を向けると、それはそれは眩しい世界が広がっている。どなたも皆、見目麗しい人ばかりだ。さらっと美しい着付けをされたり、はっとするような斬新な着こなしをされる方もいる。前世は日本人形ですかと思うほど綺麗な人が山ほどいて、毎月数万円もする着物をコンスタントに買う人もいる。とにかく凄い。

そんな世界を眺めていると、果たして自分は「着物が好き」と公言していいのか不安になる。世間が思う「着物が好き」と、今の自分はあまりにも乖離していて、趣味は着物です」なんて言おうものなら「あの程度で?」となるのが関の山ではないかと。

少し前まで、私は自分の「好き」に対してまったく自信が持てなかった。



好きであることは、それだけで力だ。

転機となったのは、とあるnoteだ。

自分軸手帳という手帳に感激し、「自分軸手帳のここがすごい」という、なんともオタク丸出しの文章を書いたのがきっかけだった。



出版業界とはなんら縁のない私が、ただただ自分軸手帳の装丁に感激し、その内容を綴ったものだ。レトリックも技術も何もない、全世界に大公開したファンレターみたいなものだった。少しでも多くの人に手帳の素晴らしいさを知って欲しくて、なにより制作者に感動を伝えたくて、愚直に「すごい」を連呼した記事。書きたくてたまらなかった、書かずにはいられなかったから書いた、それだけの単純なもの。

こんな素人かつオタク丸出しの文章を書いて大丈夫なのかとビクついていたのだが、公開後、驚くほどたくさんの方に読んで頂けた。実際に手帳を作られた方の目に留まり喜んでいただけたのは、本当に嬉しかった。


この文章を公開してからしばらくして、とある方に「スキの力」という言葉を頂いた。

「スキの力」

何かを好きでいる力。どうやら私は、この「スキの力」が凄いらしい。


その言葉を頂いてからしばらくの間、「スキの力」という言葉を折に触れては眺めた。眺めて、眺めて、眺めて。そしてふと、気付いたのだ。

好きって、それだけで力なのでは?

と。


文章を書くことも、本を作ることも、着物を着ることも、どれも収入には結びつかない。そんな「好き」は、好きであって好きでない。過去の私はそう思い込んでいた。だが、その頑なな思い込みは、「スキの力」という言葉によって少しずつ溶けていった。


ただ紙の手触りや質感が好きで、本が作られる過程が好きで、印字される文字が好き。それはどう掛け合わせてもお金になるレベルではないけれど、それでも私の内側にあった単純な「好き」が自分軸手帳へのファンレターとなり、それがさらなるご縁や実を結んでくれた。これが「スキの力」以外のなんだというのか。


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好きは、たぶん、それだけでいい。

好きなことで収入を得られたら、それはとても素敵なことだ。

だが、好きなことで収入を得られなくても、それは不幸ではない。収入があってもなくても、自分が好きだと言えるものがある。それだけで、日々の幸せは増える。

朝食のクリームパンや台所にある一輪のガーベラ。夕日に輝くガラス細工、一人でワイングラスを傾けるひととき。そのひとつひとつは些細なもので、なんら金銭をもたらさない。だが日常に溢れる小さな「好き」は、人生を少しだけ奥深く、鮮やかにしてくれる。


自分の中の「好き」を大切にしたくて、すこし前から着物の音声配信を始めた。着物が好きな私が、ただ好きなものについて語り倒す、そんな番組だ。



以前なら「着付け講師でもない自分が発信なんて」と後ずさっていた。だが今は、自分に正直に、ただただ「好き」を語っている。好きなものを語ることが、こんなにも楽しいとは知らなかったし、これからも続けていきたい。もちろん、着物を着ることも。


同じように、文章を書くことも、ただ好きなのだ。ただ好きで、ただ書きたいという衝動で続けている。きっと、これからも書き続けていくのだろうと思う。私の「書きたい」という衝動が形となり、その中で綴った思考が誰かの役に立てば、それ以上に嬉しいことはない。




好きが、何かを生み出さなければならない、ということはない。

好きはきっと、ただ、それだけで良いのだ。






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