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2023-04-10: AIイラストの概況について雑感

AIイラストを取り巻く概況が目まぐるしく変化する昨今。
Twitterを通じて、興味深い増田を知り、読んだ。
こちらである。

投稿者(以下、X氏)は、イラストのコミッション支援サービスSkebユーザーである。

X氏は昨今のAIイラスト生成技術によって、Skebを介して人間のイラストレーターに有償でイラストを依頼するメリットが薄まったと感じている。

AIイラスト生成ツールによって、ユーザーは期待する画調(あえて高品質、という表現はここで採用しない)のイラストを作成できる。
X氏の言葉を借りれば、AIイラスト生成は「安く、早い」点において価値がある。

上記の増田が、投稿者の本心からまろび出た苦悩譚か、あるいは釣り針かに関心はない。ただ、X氏と同じような二律背反を抱えている方もいらっしゃるのではないか。

この増田とコメントとは、いくつかの点で2023年現在においてイラストを取り巻くサイバースペース事情の一端を表現していると思う。
私個人としてはX氏の意見にそもそも感覚的なレベルで共感できないが、それは私とX氏との間の個人的な乖離に過ぎない。
ここではもっと大きいなにかに光を当ててみよう。


「早くて安い」から嬉しいとはどういうことか

アニメ『スクライド』のストレイト・クーガーではないが、現代は様々な技術革新によって実現された”早さ”が、かつて以上によくよく尊ばれる時代だ。
時間対効果を意味する、「タイパ」という造語がそれを象徴している。

X氏はAIイラスト生成ツールによるアウトプットが、人間のイラストレーターのアウトプットよりも安価で早いと指摘しているが、そもそも両者を等価に扱い比較するとは、どういうことなのだろう。

少なくとも、人間系のアウトプットであること自体に特権的な価値を見出さないことだろう。
極端な話、人間と機械とがゼロベースで同じアウトプットを出したとして、そこに本源的な差異を認めて他方を特権的に扱わないということ。
アウトプットに至るナラティブや「誰によって」を問題にせず、最終的なアウトプットだけをフラットに評価できることが前提である。

そこでは、実在のイラストレーターにイラストを依頼することと、そのイラストレーターの作品で十分に学習したAIイラスト生成ツールを利用することとが同質と評価され、差異を認めない。

ところでX氏は以下のように書いている。

手描きの絵には温かみがあるのかもしれない。手料理とファストフードを同じ扱いにはできない。

skebクライアントがAI絵に手を出した結果

この一文に歯切れの悪さを感じる。「両者は等価ではない」という価値観にコレクトネスがあり、それを真っ向から否定しないためのX氏の社会的配慮があるのではないか。

「では、その差異とはなにか」という問いにクリアに回答できないから。手料理を特権的に扱うための根拠がないから。
本質的には”高品質なコンテンツ”かどうかだけが尺度であるという価値観。

私は、このようなフラットな価値観が現代において育っていることにまったく不自然さを感じない。

コンテンツと体験

高速で大量のイラストを機械によって生成し閲覧すること。
2時間程度の映画や、数百ページの小説を要約・編集したWebサイトや動画を観ること。
アルバム単位でなく、音楽をTikTokの動画のBGMとしてスマホで聞くこと。

これらはここ数年の技術革新によって可能となった新しい体験である。
これらの体験に共通しているのは「タイパが良い」こと。
そして、一方でそれまでに存在していた「タイパが悪い」体験というものもまた、確実に存在する。

Skebを例に採ろう。
Skebは面白いサービスだ。X氏が指摘するように、お金を払うユーザーよりもクリエイターの立場の方が強く、コミッションを成立させる上での非効率性が担保され続けている。

お金払おうかな、止めようかな。ええい、やっぱり払おう。
描いてくれるかな。どんな絵になるのかな。楽しみだな。まだかな。

X氏が書いているように、Skebの依頼者は「ワクワク」しているはずだ。「ドキドキ」もしている。
ときに、「がっかり」したり、何らかのストレスを感じることもあったはずだ。
私はこれを総じて”充実度の高い体験”と呼ぶ。
違えてはいけないのは、体験の充実度の高さは、かならずしもコンテンツそのものの品質と相関しない。

誤解を恐れずに言えば、AIイラスト作成は情報生成である。ここに蔑視のバイアスは投射していないつもりである。

付随する体験が極めて乏しい。
自ら絵筆(あるいはタブレットペン)を動かして練習するわけでもない。
上手なイラストを眺め、自分と何が違うのか煩悶する時間もない。
クリエイターにイラストを依頼し、生成過程を想像したり、感謝を伝えることもない。

人間としての体験は乏しいのである。これは同意いただけるのではないか。

AIイラスト礼賛を否定する側に立ちたいという気持ち

X氏は文末にて、「反AI主義アリバイ作り」の要を語っている。
投稿文全体を通じて、X氏はクリエイターとの関係性を軽視していないことがわかる。

AIイラストに敵愾心を燃やすイラストレーターに賛意を送りながらも、心中穏やかでない。
AIイラスト生成の恩恵を受け続けたいが、それを実現するのは結局人間系のアウトプットであり、既存の、そしてこれからのイラストレーターである。

既存のクリエイターやコミュニティに敬意を表したいし、敵と味方に分かれるのなら味方の陣営に入りたい。自分だって”絵”が好きなのだから……。

ネット上では過激で極端な意見が可視化されやすいが、実際にはこのようなアンビバレントな感情を抱えて現状に向き合っている方もいるのだろう。

現状、私はこのような方にかける言葉が見つからない。
ただ、あえてX氏について言及するならば、日々慌ただしく更新される倫理的・道徳的・法律的な概況を注視しつつ、自らにとって幸福で、かつイラストレーターコミュニティと折衷できる界面を模索していただければ、と思う。
これはX氏だけの課題ではなく、コミュニティ全体の社会課題である。

AIイラスト生成という技術は善悪の対象にないと思う。
ただ、社会と利用者がその技術に追随できていない。明らかに悪意を持った参入者も無論、現出する。

AIイラスト生成を個人的に楽しんでSkebを利用しなくなることによって、自分を責めないで欲しいと個人的に思う。両親への贈り物もたいへん素晴らしい。
無限の給料があろうと、技術の進化を楽しんで良いはずだ。
Twitterなど、イラストレーションのコミュニティに所属する多くの人は、坊主憎けりゃ袈裟まで憎しを主張してはいない……と私は思っている。

他方、新技術とその進化を取り巻く概況には多様な課題・問題があり、事実として多くの人が喜び、恐怖し、傷ついている。センシティブな技術として社会的に認識されはじめている。

明朗な解答は一足飛びに得られない。
残念ながら、対話を続け、考え続けるしか方法はない。極端な発言やアフォリズム、罵声には注意しなければならない。

コミッションやファンコミュニティ活動について

上記増田のコメント欄も興味深い。

いくつかのコメントでは、「コミッションで金銭報酬を得ている絵描きは、アウトプットに対して報酬が高すぎる」という意見が認められた。

これは定性的な感覚に過ぎないが、AIイラスト生成ツールの低コスト化が進めば、このような意見は増えるだろう。
ところで、漫画『湾岸ミッドナイト』に以下のようなシーンがある。

『湾岸ミッドナイト』15巻

受諾開発のエンジニアリングの世界でも古くから言われる話である。
きっと、どの業界でも上記のような話は、社会人であれば耳にしたことがあるだろう。

イラストのコミッション価格に適正はない。
ただ、コミッションは一定のアウトプット品質を保証する組織やサービスによるコンテンツビジネスではない。
そこには各クリエイターの手仕事があり、その背後には研鑽がある。

現アルゴリズムのAIによるアウトプットも、そのようなクリエイターの研鑽に依拠して実現している。
これは間違いない。


If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me, and there I am. There’s nothing behind it.

Andy Warhol

かつてアンディ・ウォーホルは「アンディ・ウォーホルの全てを知りたいなら、ぼくの絵と映画、僕の表面を見るだけでいい。そこに僕がいる。裏には何もない」と嘯いた。

では、AIが出力したイラストの表面には、はたして誰がいるのだろうか。

ファストフードを「消費」するにあたって、多くの購買者が材料や調理者といった出自・過程を問題にしないように、”誰”なんて気にもとめない時代はずっと前に到来している。
私はAIイラストによって、あらためて鼻面の前にその事実を突きつけられた思いだ。

私はどうすればいいんだろう。
考え続けるんだ。それしかない。

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