見出し画像

2023-01-21: 梨.psd先生の作品にみる恐怖の現在形

昨年、初の単著でありホラー小説『かわいそ笑』をイースト・プレスから上梓された梨.psd先生(以下、梨先生)をご存知だろうか。

氏は現在、商業作家業やドラマの構成(『このテープ持ってないですか?』2022年)を手掛けられる一方、Twitterや創作プラットフォーム「SCP財団」、テキストメディア「オモコロ」などでWebを中心として精力的に作品を発表されている。
近年、『変な家』などで一躍ベストセラー作家となった雨穴先生もその影響下にあることを公言されており、Webを中心に日々その影響力は増大していると感じる。実際、昨今では梨先生のフォロワーと思しき方々の創作もTwitterなどで確認できる。


梨先生の創作物はおしなべてホラー作品である。しかし、私の拙い読書体験上、ホラー創作として特異な方向性を志向し、作品を作り続けていると感じる。これはどういうことか。

平成ホラーの文脈

年号が平成に変わる頃合い、荒俣宏、菊池秀幸や夢枕獏が牽引した80年代伝奇ブームは失速していく一方、90年代には映像界隈にも強い影響を与えた平成怪談ブームが瞬く間に燃え上がる。
木原浩勝・中山市朗『新・耳・袋』や常光徹『学校の怪談』に代表される実話怪談がまるで呪いのように世の中に浸透し、自身の相似形となる作品を生み出す土壌を作った。ある種の強い型となる平成怪談の「語り方」が確立され、多くの語り手・書き手によって洗練されていく。

他方、1991年には鈴木光司『リング』が上梓され、98年には上記の平成怪談映像化に関する仕事でキャリアを積み上げた中田秀夫・高橋洋のタッグによって映画版『リング』が公開され、映画界を震源としたJホラーブームを加速させる。鶴田法男や黒沢清、小中千昭といった映像界隈において80年代以前からホラーを追求してきた作家たちが、平成怪談を経由してモダンホラー小説界と結節した形である。
実際、日本のホラー映画の興行収入上位は、市川崑『八つ墓村』(1996年)を除くと『リング』が劇場公開された98年以降に公開された作品が多いようだ(備考:下記のランキング参照。ただし、興行収入5億円とされる黒沢清監督『スウィートホーム』(1989年)などが勘定されておらず、参考程度にとどめる。溝口健二作品なども検討したランキングを今後もし見つけたら、それに従って本稿を改訂する)。

ホラーとテクノロジーには親和性がある。『リング』シリーズや瀬名秀明『パラサイト・イヴ』、貴志祐介『天使の囀り』など、モダンホラーとSFとの間で輻輳する作品は多い。また、『リング』の設定は一般家庭へのビデオデッキ普及によって実現した、現実のガジェット進化がホラーの設定をエンハンスした好例であると思う。

2000年代、各家庭にインターネット回線が普及し、デジタル・ディバイドという言葉が徐々に死語化していくなかで、怪談はサイバースペースにさえ伝搬していく。ホームページブームに追い風を受けてpikochu-『絶望の世界』や狂気太郎(灰崎抗)『狂気太郎.net』のようなネット発のホラー小説が公開される中、大型匿名掲示板「2ちゃんねる」のオカルト板において作家不詳の投稿怪談である『洒落怖』ブームが静かに始まる。

『洒落怖』について、Jホラー立役者の一人であり「小中理論」提唱者である作家(特殊脚本家)の小中千昭による『恐怖の作法 ホラー映画の技術』(2014)という優れた書籍があるため、ここでは詳解しない。
このネット風俗は2023年現在においてネットホラー愛好者以外にも人口膾炙した有名作(『八尺様』など)が呼び水となり、非中央集権的な形で活性化した。特徴として、基本的に実話怪談の体裁をとっており、匿名掲示板の性格上作者不詳であることが不気味なリアリティを各作品に通底させる。

特に、いわゆる「実況系」と類される作品群はネット掲示板の即時反映性・投稿容易性を効果的に利用した作品群であり、『新・耳・袋』の名作と名高い『山の牧場』のようなミステリーサスペンスホラーが数多くリアルタイム配信された。

私見だが、インターネットの発展に準じて、『洒落怖』のようなネットホラー創作と同時に発達してきたのが、実在の猟奇事件や未解決事件についてのデータベース増強である。もちろん90年代以前から実在事件に関する好事家向けの書籍は刊行されており、柳下毅一郎の仕事などに詳しい。ただ、蒐集されるのはエド・ゲインやジェフリー・ダーマーらが引き起こした世界的に著名な事件が多かったのに対し、比較的知名度の低い国内の未解決事件情報などはネットを中心に集約され続け、ネットミーム・タトゥー化している。

やがて『洒落怖』と実在の猟奇・怪奇事件情報が接合し、新しいホラー創作が生み出される。

忌録の衝撃

2014年、阿澄思惟なる覆面作家によって『忌録:document X』がKindle専売で上梓される。もともと文学合同というネット小説合評サイトの企画によってネットで無料公開されていた児童失踪ルポ風作品『みさき』を含む全4章からなる本作。詳細はマシーナリーとも子氏による紹介記事に譲る。

本作群がそれ以前の作品に対して比類ない点としては、作者が覆面作家であり匿名的であることに加え、洒落怖の文脈を踏襲している点である。また、エッセンスとして実際の未解決事件からもおそらく影響を受けており、著者がいかにホラーの読み手を阻害する「つくりばなし」感を排除しうるか手を尽くした労がうかがえる。

また、特筆すべき点として、本書は洒落怖における「信頼できない語り手」による「自己責任系」の要素を含む。そもそも「信頼できない語り手」とはミステリ界隈における叙述トリックを実現するための理論的手法の一種だ。ミステリにおける本手法を採用する動機はミスリード誘引など読み手の撹乱が主たるが、洒落怖においては読み手に対する恐怖装置である。

たとえば「自己責任でこの先の画像を閲覧してください」と、文章中にハイパーリンクを挿入することで読者は好奇心に負けて画像を閲覧する(勿論閲覧せず読み進めることもできる)。さらに読み進めると、先程の画像リンクは読者に呪いを「プレゼント」するためのトリガーだったことがタネ明かしされ、読者は「お憑かれさま」となるわけだ。
他愛ない遊びには違いないが、作品への没入感が高いほど、読者へ与える不快感や恐怖感が増大するトリックである。
また、『忌録』はミステリ的な意味における「信頼できない語り手」の手法もふんだんに用いており、2023年現在でもSNSへ数多くの考察が投稿されている(何者かがその投稿をTogetterというツイートまとめメディアに収集し続けており、現実世界に侵食する世界観実現に一役買っている)

阿澄思惟の仕事に多分な影響を受けており、それを乗り越えようとしているのが、今回の主題である梨先生である。

梨先生の仕事の比類なさ

梨先生の仕事の特異な方向性とはなにか。
それは私見だと大きく2つある。

ひとつは、読者の不快感に重きを置いた作風である。
梨先生はインタビュー中に下記のように述べている。

恐怖感というより、気持ち悪いとか、気味が悪いとか、不快感が残るような書き方ができれば良いなと考えています。

月に吠える通信

恐怖感とは異なる不快感とはなにか。
それは、事態への理解不能性や人物への共感不能性、あるいは生理的嫌悪である。
怪談の文脈を理解し、論理的に読解して恐怖に変換する作業は理性的である。
不快さとはもっと感覚の表層で生起するものであり、納得できないものだ。「よく出来た恐怖だな」と物語を評価することはできるが、「よく出来た不快さだ」とはあまり形容しないだろう。

実在の未解決事件や猟奇事件にまつわる余談として、現在も意味不明な怪文書や遺書の存在や、奇妙な防犯カメラの映像、不可解な現場状況や証跡などがしばしばネット上の話題に挙がる。
これらは端的に言って奇異であり、また薄気味悪さをネット閲覧者に植え付ける。それは、テッド・バンディの犯罪録を読む時に生じる恐怖感や嫌悪感とは一線を画すと思われる。梨先生の作品に怪文書が多く登場するのは、こういった感情の惹起を狙っていると思われる。
また、不快な画像を容赦なく添付し、テキストの読者へ不意打ちを食らわせる(映像界隈では「ジャンプスケア」と呼ばれる)技法を多用する点も、あくまで文章がもたらす怪奇性に全力投入するホラー作家とは毛色が異なる点だ。

もうひとつは、梨先生の作品が基本的に読み手を呪いに参画させている点だ。
間違いなく「自己責任系」に列する作品群であるが、重要なのは呪いの対象が常に読み手とは限らないことだ。どういうことか。
つまり、読み手は知らず知らずのうちに「知らない誰か」を呪う取り組みに、梨作品を読むことで参加させられているのである。

梨作品は洒落怖や阿澄思惟作品同様、動画サイトやファイルアップローダー、HTMLといった非テキスト情報をトリックに利用している。この考え方はSCP財団によくみとめられる創作方法(ある怪異=SCPについて、非テキストな情報ないしそれに類するテキストを参考資料として挿入し、SCPの実在性や詳細情報を補填・強化する方法)とも一致する。
テキストを通読したり、これらの「小道具」に好奇心から読者が触れることで、仕掛けられた「呪い」の信管が作動する。

従来、自己責任系が恐ろしいのは古典怪談から脈々と続く、「私を殺したのは、お前だ~~!!」「ギャー!!」といった、物語終端における指差しによってであった。
そこにおける被害者は元来、物語の語り手であったのが、「自己責任系」においてはメタな構造を取り、読者にターゲットがスイッチした。ゆえに、読者は読後感として「ムラサキカガミ」の怪談にみられるような、後足で砂をかけられたような不快感を抱く。

しかし、梨先生は被害者を「読者以外の誰か」に設定し、読者を「加害者」という形で怪談に外挿する。そして、怪談は現在進行系で展開されており、その貢献者に読み手が無自覚に参加してしまったことを告げるのである。
この不快感は筆舌に尽くしがたい。まるで呪いがブロックチェーンのように発展し、一度書き込まれた加害者としてのサインは抹消できない。他ならぬ私は、すでにこの怪異を読んでしまったのだから。
好奇心は猫をも殺す。ただし、その猫は一体どこの猫なのだろうか……。

おわりに

徒然なるままに梨先生の作品について、現在思うところを述べた。
本稿は研究論文ではないため、内容はあくまで筆者の私見にとどまり、研究者や好事家の査読には耐え難い点に注意されたし。

え? 怖くてとても読めないって? 

へー
















かわいそ笑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?