批評に好みを入れないのは無理_2023_07_13
最近個人の活動で作品や創作物を評価したり、されたりする機会が多いが、正しく評価するのって難しすぎないか?
特にジャンルや文脈がある芸術は何を評価の軸とするのか難しい気がする
たとえば自分はブラックメタルやデスメタルなどのエクストリームな音楽が好きだ。
好きだから楽しみ方や、評価の軸がわかっている状態でもあると言える。そのジャンルの特異性や文脈をある程度理解できるからだ。
しかし、たとえば「音楽のクオリティを評価します」となった場合に、
公正な評価ができるのだろうか?たとえば以下のような曲
自分はめちゃくちゃ好きだし、クオリティも高いと思っている。その上どこが良いのかもある程度理解できるが、クオリティを評価するのはとても難しいのでないかと思う。
一般的な歌謡曲やポップスを聴いている人にとってはキャッチーなメロディもなければ綺麗な歌声もない。歌詞もよくわからないノイジーな音にしか聞こえない、低品質な音楽という感想になるのではないだろうか。
自分の視点だと、リフの繰り返しによる陶酔感、重厚さ、そして歌唱方法や楽器の音色から生み出される音の景観(サウンドスケープ)を強く感じられ、非常に没入感の強い曲であると思う
このように好みによってクオリティの評価が分かれてしまうような物を正当に評価するのは難しいというか無理なのではと思う
後これ書いてて思ったけど、自分がポップスをあまり好きになれない理由がわかったかもしれない。サウンドスケープを感じられないことが多いからだ。
映像作品のサントラやゲームBGMはサウンドスケープを重視する傾向が強く感じるので、自分はそのような音楽ばかり聴いてきたからかもしれない。だから歌詞やキャッチーなだけのメロディにあまり関心が向かないのだと思う。全部受け付けないというわけではないので完全にそうだとは言い切れないが…
評価する場合は、「私はこのような思想や文化資本を持っており、過去の経験を踏まえてあなたの作品を評価しますよ」という前提をあらかじめ共有するのがいいんじゃないかな〜
多くの場合はそこのコミュニケーションがない状態で評価をしあうから噛み合わなくなるような気がする。文化の前提を共有しておけば、ネガティブな評価を受けた時でも。「なるほど、あなたの文化圏ではそのように見られるのですね」という受け入れ態勢ができるので、精神的にもプラスなのではないだろうか
問題はいちいち共有するのが面倒ということかな
いや、評価するというただでさえ傲慢な行いをするのだから、これくらいの手間は惜しんでは行けない気がする。難しいね〜
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