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星野道夫さんと出会い、そしてアラスカへ行った話

この記事を書き始めた今日は雨、しんしんと降る雨はなぜか人の心を落ち着かせる。

昔は大嫌いだった雨も、今は自然の中のサイクルを感じる重要な役割なのだと気づいている。

これだけ便利になった世の中で、ここまで人間の生活に制限を与えるものも珍しいなと思う。

雨が不便と感じるものまた、自分がどっぷり社会のシステムに浸かっている証なんだなだと、いつも思う。

さて、今日は僕の大好きな人の話をしようと思う。

それがこの人「星野道夫」さんだ。

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写真家と文筆家として活躍し、アラスカで原始の自然に触れながら生きることの根幹を見つめ続けた人。

残念ながら1996年8月、ロシアのカムチャツカ半島というところでヒグマに襲われて亡くなってしまった。

僕が彼を最初に知ったのは、どうぶつ奇想天外という番組だった。

その番組内容はあまり覚えていないが、星野さんの名前は千石先生のような感じで頭の片隅にずっと残っていた名前だった。

星野さんとの再会は2018年の春、没後20年に開催された写真展に知人に一緒に行かないかと誘われたことだった。

なんとなく気持ちが向いて写真展に赴いて、星野さんの写真と言葉に改めて出会い、そして惚れ込んだ。

自分が感じていたこと、表現したいことにそのまま解を与えてくれたような気がした。

こんな感性を持った方がいたんだ、とその日から貪るように道夫さんの本を読んだ。

そしてその年の秋にはアラスカへ行くことを決意。

道夫さんの見た景色をどうしても追いたかった。

燃えるようなツンドラの秋、厳然たる佇まいのマッキンレー、キンと冷えた朝の感触、たくましく生きるホッキョクグマ、広大なツンドラで1人佇んでいたカリブー、そして怖くなるほどのオーロラ。

たくさんの景色や動物を見た。中でも印象的だったのがオーロラだ。

北極圏にあるCold Footという場所を早朝3時に出発。

夜中が奇跡的に雲ひとつない晴れ間だったのでガイドさんもかなりの確率でオーロラが期待できると話していた。

しばらくすると、眼前にみたこともないような大きなオーロラが現れた。

僕らは車を降り、天を仰いだ。

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次々に形を変えるオーロラたち。

それはまるでもう1つの別の世界へ旅だったような不思議な感覚。

圧倒的なそのスケールの大きさに、僕らは言葉を失っていた。

「道夫さんもこんな景色を見ていたのかな」

脳裏にふと道夫さんが浮かんだ。

初めて訪れたアラスカ、何だか歓迎されたような温かい気持ちになった。

その後もオーロラが舞うダルトンハイウェイを僕らは車で夜通し走り続けた。

この時の経験は、生涯忘れることはできないだろう。

地球に生きているのだと思えた素晴らしい時間だった。

この時の自分にとって、人間社会の立ち位置や年齢、これまで大切だと思えていたことほぼ全てがどうでもよくなった。

ありきたりな話だが、本当に今まで悩んでいたこと全てが小さく思えた。

そして僕はこの時に誓ったのだ。

「この先どんなことがあっても、僕は自分の生きたい道を行く」

墓場に持っていけるのは、財産でも名声でもない。

自分が精一杯生きたという誇りだけだ。

そして遺すのは財産でも名声でもない。

あの人は精一杯生きたという生き様だけだ。

そう心から思ったのだ。

アラスカでは本当にたくさんの動物や自然を見ることができた。

道夫さんの本に登場してきたデナリ国立公園、マッキンレー、ブルックス山脈、フェアバンクスの街。。。

自分にとって全てが夢のような時間だった。

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ここで見た全てのものが自分にとって刺激的で、自らの生がストレートに感じられた。

この地に来ると、肩書きや社会のシステムがまるで役に立たない。

「生きる」ということの輪郭が剥き出しなのだ。

これまで社会的なシステムに組み込まれて育ち、社会的な成功を望み、社会的な幸福を追い求めていた自分にとって、あまりに大きな衝撃だった。

現代では、ただ生きているだけで価値がある、という風には誰も思わない。

それは「死」に対する距離感があまりに離れすぎてしまったからだと思う。

生きていることは当然で死なないことが当たり前になってしまったからこそ、人は何か社会の中で自分の役割を見つけなければならなかった。

けど、本来は生きているだけで良いのだ。

何かを肉付けして生きることでなく、今ある鎧を脱ぎ捨てて生きるために生きることが最も人間としての魅力に溢れる気がしている。

アラスカでは、当たり前に生き物が死んでいく。それもただ無駄な死ではない。

きちんと命の循環の中で死んでいき、生きている。

道夫さんの本の中にも繰り返し訴えられてきたことが、なんとなくその気配を感じることはできた気がした。

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僕は自然や野生動物だけでなく、登山家やクライマーの人たちの映像や写真を見ることも大好きなのだけれど、その全てに共通しているのは「死が身近にある」ということなのだ。

死を意識している「生」は強烈に輝いて見えるのだ。

野生動物が美しいのは、言い方を変えれば「明日死ぬかもしれない覚悟を背負って生きている」からなのだ。

僕はその生と死のギリギリのラインで生きる姿に心打たれる。

本来の生きることとはそういうことなのかもしれない。

死が身近にあるからこそ、生きているだけで本来なら素晴らしいのだ。

アラスカ

話は逸れるが死ぬことのように、終わりを意識するということは全てにおいて重要だと思っていて、終わりがきてしまうから頑張れることってたくさんあると思う。

数年前、関東でも積雪があった日の夜、僕の周りの犬友達がこぞってインスタのストーリーに雪遊びをする様子を載せていた。

中には深夜仕事終わりにも関わらず散歩に行っている人も多くいた。

それはきっと雪が消えてしまうからだ。

もう明日の朝には残っていない。そう確信があったからこそみんなは行動した。

僕はそれを見て、終わりを意識することの大切さを改めて感じたのだ。

それと全く同じで、いつか死ぬということを体感的に知っている、ということはとても大切なことだ。

だから野生動物たちの生は希少性を帯びていると感じる。

彼らは本能的に、自らの命が永遠ではないことを知っているように思える。

僕が犬たち含め動物や自然が好きなのは、根源的には死を意識していたいと自分自身の想いが込められているのかもしれない。

誤解ないように書いておくが決して死にたいと思っているわけはない。

むしろ逆で、死を意識できるからこそちゃんと生きようと思っている。

星野さんも著書やインタビューで度々、動物や自然を見て不思議に感じるのはそれ自身の行動が面白いからではなくて、彼らの命を通して無意識のうちに自分の命を見つめているからだといった内容のことを残している。

でもきっとそれは、僕たちの日常の中にもきっとあるのだと思う。

道行く木々の移ろいや花、鳥たちを見ても感じることはできる。

でもそれは人間社会というものにあまりに埋もれすぎてしまっていて、あるのに見えなくなってしまっているように感じる。

それがアラスカでははっきりと見ることができるのだと思う。

大きな自然に赴くと自分が生きているのではなく、自分が自然や周りの環境に生かされているのだということがよくわかる。

自然や動物に対し謙虚でいる他ないのだ。

話を戻そう。

アラスカ。たった1度だけ、それも2週間ほどしかいなかったがこの土地の持つ気配を感じられたことは自分の中で大きかったように思う。

もちろん、まだまだ感じられていないことの方が圧倒的に多い。

僕が今回した旅は、確認作業のようなものであり、決して新しい発見や知見を深めたとは思っていない。旅行者に毛が生えたくらいの感覚だ。

だけれど、この土地のもつ壮大なスケールを感じることができただけで僕にとっては大満足だった。

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その後、日本に戻ってからも道夫さんと親交のあった方達と繋がれたり、道夫さんが好きだという共通点から仲良くなった友人たちがたくさんいる。

彼らと話をすればするほど、多くの人の中にそれぞれが道夫さんのメッセージを受け取り、お守りのように大事にしているのを知った。

改めて、本当にすごい人だと思う。

亡くなってしまったことは本当に残念で、もし生きておられたら何が何でも会いに行っていただろう。

道夫さんに出会ったこと、そしてアラスカへ赴いたことは僕の中で本当に大きなことだ。

もう2年も前のことだが、ここにしっかりと記録として残しておこうと思う。

道夫さんのおかげで次のステップももう決まっている。

忙しい日々で流れていく時の中でも、この時感じた自分の心の奥底にある大切なものを確認する時間だけは必ず持っていたいと思う。

個人的な趣向丸出しのこの記事を最後まで見てくださってありがとうございます。

そんなあなたが大好きです。

道夫さんが好きな人と1人でも多く繋がれたら嬉しいな。

そしていつか皆んなでアラスカに行って真夜中にオーロラを見上げたい。

星野道夫さんを想いながら。

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