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持論。世界は消滅するまで、分裂を繰り返すんだ。宗教観。

持論。


過去に私が、いったいどんな動画を見て、後で記事にしようと好奇心に戦慄いたかと言えば。。。

それは全く学術的な内容で、正しく理解出来なかった、ではないかと。今は思う。

今改めて記事にしようとして探したけれど、見つけられなかったし。

かえって辿った情報が、私を愚か者と責め上げる(笑)。


残念ながら。。。

知識も学識もない私は、ただ単純に、思うことしか出来ない、〝世界の姿〞を思考してみる。

動画では確か。。。

素粒子と呼ばれるものの、運動や変異は、正しく観測出来ないと流していたのか。私はそれを。

素粒子は不規則に運動していると流している情報と読んだ。誤認した。

とどのつまりは〝わからない(観測仕様がない)〞であろうそれを。私は次のように考える。

素粒子の運動性が不規則に表れるとすればそれは、〝この世が有〞だからである。

素粒子を切り離して?遠く離して観測する。

間にあるのは、〝無〞ではない。〝変動的に存在している世界の物質〞である。言わばこれが、立場を変えた、〝隠れた変数〞。実の用語の意味ではない。

これが、影響を与えないとは、言い切れないし、言ってもいないだろう。

空に放ったコインは、様々な、有の世界の事象を通過し、その結果としての表と裏を出す。決まっていた原因結果だ。

正しく観測、予測するならば、全く〝無〞である状態を作り出さねばならないし。それはまずもって無理だ。

人間が〝有〞であり、〝有にしか存在出来ないモノ〞だからである。

素粒子も、その一つ一つが、互いに作用し合って、全て異なる運動を見せているが、実は、そのどれもが、規則正しい運動性をぶつけ合って、変則的であるように見せているだけに過ぎない。

元を正せば、この世はすっかり全て、規則法則に沿って運行している。

でもそれは、有である限り、互いに影響し合って、唯一無二に存在している。

その、宇宙、天体から、素粒子に及ぶ、大きいものから、まこと小さな世界まで、運動性がこのようにぶつかったらこう、と、そりゃ、、、

存在したものの数だけある、膨大過ぎる結果を紐解くことは。。。

スーパーコンピューターにだって、出来やしないのに。

人間の知能に及ぶべくか。

私は、この世が観測できない理由と、今の人間の限界点を知っている。

何もするなと言うのではない。

私は以前記事にした。

知り得ない、の定義から始まる方程式。

読み解けないことが何であるか明白ならば、反対に、読み解ける内容も明示されるだろう。

何でもかんでも人は、無作為に手を伸ばし過ぎだ。

その手にナニモノも掴まないで空を切ることが、どれほどあるものか。

世界は、そこに到達したものにしか、実態を触れさせない。

今、自分達がどこにいて、何がどのように知れるものか、まずはそこから。足元から観察して、読み解いて行かないと。

人は、藁にも縋れなくて、見えない世界に溺れることになる。


この。。。

素粒子の話が面白かった。

改めて情報をさらうとそれは、

ひも理論で言うヒモと環と。2つあるそれは、まるで、男性と女性のようで。

量子もつれで言う測定可能かどうかは、最初に話した通りだが。

アインシュタインは間違っていない。

局所性でいう〝実験結果は変わらない〞とは、〝非局所性〞のことなのだから。

ここで言う〝非局所性〞とは、〝離れた物質が作用し合っている〞という意味でない。〝同時に変化すると、最初から決まっている〞という意味だ。

〝離れた物質同士が、たちどころに伝達することはない〞とするのが〝局所性〞ならば。〝伝達したのではない。最初からそのように組み込まれ、規則的に運動している〞、〝局所性の絶対的不動の立場〞、それだけだ。

物事は、変容するのではない。受動し、順応する決まりなのだ。物事には必ず理由が存在する。変化とは錯視錯覚だ。

この、量子もつれの反作用、作用の話しも面白い。

世界に、バラバラ、散り散りに散らばった人間達は、

その個人は、実は最初は球であって。対であって。

生まれてくるとき、まるでヒモと環のように分かれて、離れて。

世界に散らばった片割れ同士が、それぞれ、着の身着のまま、赴くように生きていて。

時にすれ違い、相対して。ぶつかり合って、離れてくっついて。

まるで世界は、ミクロの世界まで整然と仕切られ、規則的に回っているのだなと、興味深く思いながら、情報を読んだ。夢想した(笑)。

何だっていい。

私には知恵がないのだから。妄想を語るしかないのだから。

これが時折、口惜しく思いながら。

世界がバラバラ散り散りになって、

消滅していく様を思い浮かべる。

死後、生き物はどうなってしまうのだろう?

私は、〝神様が居ればいいな。。。〞 そう思いながら。

死後の世界なんて、人間が考え出した、夢物語だと。その根拠を探して空を切る。

その、謎の小箱の中には、何も実態がない。

人間が、大事そうに抱えて、心許ない心理の支えとした、その、宝箱の中には、夢しか詰まっていないのだから。

生き物は、生まれて生きて、死ぬまで生きて、消滅する。

最悪、神様は居たとして、生き物に続きはない。

生きた証、データを持って、伝書鳩のように神様へそのメッセージを届けて。。。神様へ届くのは、〝存在したという事実〞であり、実態はない。

基本的に、神様と生き物の境界線、カテゴリーは、別次元過ぎる。

神様は、有も無も同時に扱い、何ならば、その姿は無で。無かもしれなくて。

膨張している宇宙は、神様の懐を借りて、膨らみ続けて居る。

考えてもみよう。

宇宙が広がっているならば。広がった分、その領域は無でるか、別のナニモノかが宇宙に取って変わったのだ。

ならば、いつか、この宇宙も消滅するさ。

形あるもの〝有〞には必ず、限界があり。

いずれ、死、消滅するか、ナニモノに取って変わるだけ。

神様も、死後の世界、魂も。

そんなに愉快な存在じゃない。

無と、夢と、幻と。

規則正しい、それは法則。


タイトルに上げました宗教観。

やっと、ここまで辿り着いた。私には、難しかった、この題材は(笑)。

それ、その宗教観は、けして、人を不幸にさせるものでなく。

正しくその足元に広がる知見。考察。

新たな扉。新たな方向性。新たな道のり。

〝リアル〞って言うの。私は本当、リアリスト。多分ね(笑)。

神様は、今までの人が考えたような存在じゃないし。

死後の世界もないし。正確には、わからないし。

魂も。。。正確には、確認出来ないし。

だけどこの、〝わからない〞、〝出来ない〞を決めていくことが、本当は、重要なのであって。

今人は、無闇に、〝わかろう〞、〝出来よう〞とし過ぎなんだ。

生きる人が何を見据えて、どのように生きるべきか。

それが、けして、今までのようなまやかしの世界にないことを。私は、よく、理解している。

正直、わからないことだらけ。

人間はまだ、世界の核の、遠く離れた、光のほとんど当たらない暗い場所を進んでいる。

自惚れ過ぎだと思う。。。現代人は。わからないことばかりなのに。

まだまだ、進み始めたばかりなのに。

突然に?道が崩壊するかもしれないのに。


世界が当たり前に存在して。存続して。

神様を信仰し。

何ならば、その信仰している信者しか天国に呼ばれないと思っているのが、その学者なら。

まるで、気に留めるべくもない、つまらない学識だと。一気に興味は失せてしまう。

ね?神様を信仰している人間の世界は、まだまだ、始まったばかりでしょ?


〝身の程を知るべし〞。

〝足元を確かめるべし〞。

〝自分だけじゃない世界全てを見通す〞の。

それが、巨大パズルのピースに夢中になって、

その、全体像(画)を知らない現代人への忠告。

見てみたい。

みんなで同じ、一つの世界(画)を。

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