【~半人前の価値~】

私は居ても居なくても変わらない、普通の人をやっている。

そんな私が立派にしようと思ったら、実質、擦りきれるまで働いて動いて、心を壊して通院するの。

結局、何も成し得ずに。

三十路手前で気付いた。私は半人前でやっとなのだ。

人の半分しか頑張れないし、出来ることもないのだって。

受け入れてからは、私なりに努力した。

それが、私の、半人前としての価値。





初めて精神病を患い、寛解したあとの私は、

〝立派な社会人になる〞を目標として、邁進してきました。

それは、〝家庭人としての生き方(夢)〞を脇に寄せた、ある種、不完全な形をしていたのだけど。

社会人としての生き方は、家庭人としての生き方を包み込んで、社会で私に居場所を与えてくれました。

けれども、私は、とても危なっかしい、救急箱には置いてはおけない、劇薬ほどの強い信念を持っていました。

私はそれで、自分をギュウギュウに締め上げ、脅かしたのです。

恐らくは、この私の自制心も、破壊的な強さを持っていて。

過ぎた力は、形を残しておけませんでした。

本来、守ろうとしたモノを取り壊すほどの力を有していた。

私の、曲がったことが大嫌いな、真っ直ぐ過ぎる信念と、本当に素直な私を一瞬霞ませてしまうほど強力な自制心が、

私を再び病気へ誘いました。


2度目の病気。それは、誠、奇っ怪で。。。

寛解してからも、私は私を~従来のやる気を~取り戻すことができませんでした。

立派に。。。生きれるものかと。疑念を抱いてしまった。

私はそのまま再び、病気を再発させました。


3度目の発病。これは、一番、厄介だった。

元よりあった信念が暴走し、

警察のお世話になったこともあるし、

事件やニュースの、一歩手前まで辿ったこともある。

私は精神病棟へ強制的に入れられ、

そこで29歳の誕生日を迎えました。

絶望的だった。20代最後の誕生日でした。

私は、新しく移り変わった、その病院で、

〝生涯続く治療〞の宣告をされたのです。


統合失調症は、生命に、直接影響を及ぼすような病気ではありません。

けれど、〝私という人格〞が破壊され、一人の人間の意識が眠りにつく。

代わりに、その人間の形をした、不可解な人格が暴れまわる。

〝私の身体〞を生きながら、人々に〝私自身、その姿〞だと思わせながら。

生きているのは〝病気の症状、病魔〞です。

理解をされないことが、こんなに苦しいのかと、そう思ってしまうのは。

その〝病魔〞が必ず、〝悲しみ〞しか生み出さないから。

〝私の身体〞を被った〝病魔〞です。

けして、〝私の魂〞を見せてくれない。

余程極悪人でない限り、その魂が眠りについて、よかった、と思う人はいないでしょう。

私はこれが口惜しい。

死亡したわけではない。

でも、〝人格の死〞に匹敵する事態だと、病中をよく思い出せる今の私は、そう思う。

だから、このことが、どれだけ本人にとって、周り人間にとって、深刻なことか。

私は、そのことを〝人格の死〞である、という言葉を使って表現する。


いつまたこうなるか。。。

させられない、させたくない私は。

人一人、その半分の生き方、努力を重ねることを私の、平穏を続けていくための生き方であるとしたのです。

それが、タイトルにあげた〝半人前の価値〞。

簡単に言い表すなら〝細く長く〞が〝半人前〞。

少しでも長く、〝私という人格〞で生き続けていくため。そして、その末に結ばせられる、原因結果を実らせるため。

その力は半分でも、〝私自身〞であり、それこそ、〝私らしい〞生き方なのだと。


人にはそれぞれ、相応しい〝努力の仕方〞があるのだと、そう信じ込もうとしながら、無我夢中で歩いてきた。。。〝それなり〞〝それ相応〞の、〝成果〞で、いいのだからと。

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