【~半人前の価値~】
私は居ても居なくても変わらない、普通の人をやっている。
そんな私が立派にしようと思ったら、実質、擦りきれるまで働いて動いて、心を壊して通院するの。
結局、何も成し得ずに。
三十路手前で気付いた。私は半人前でやっとなのだ。
人の半分しか頑張れないし、出来ることもないのだって。
受け入れてからは、私なりに努力した。
それが、私の、半人前としての価値。
*
初めて精神病を患い、寛解したあとの私は、
〝立派な社会人になる〞を目標として、邁進してきました。
それは、〝家庭人としての生き方(夢)〞を脇に寄せた、ある種、不完全な形をしていたのだけど。
社会人としての生き方は、家庭人としての生き方を包み込んで、社会で私に居場所を与えてくれました。
けれども、私は、とても危なっかしい、救急箱には置いてはおけない、劇薬ほどの強い信念を持っていました。
私はそれで、自分をギュウギュウに締め上げ、脅かしたのです。
恐らくは、この私の自制心も、破壊的な強さを持っていて。
過ぎた力は、形を残しておけませんでした。
本来、守ろうとしたモノを取り壊すほどの力を有していた。
私の、曲がったことが大嫌いな、真っ直ぐ過ぎる信念と、本当に素直な私を一瞬霞ませてしまうほど強力な自制心が、
私を再び病気へ誘いました。
2度目の病気。それは、誠、奇っ怪で。。。
寛解してからも、私は私を~従来のやる気を~取り戻すことができませんでした。
立派に。。。生きれるものかと。疑念を抱いてしまった。
私はそのまま再び、病気を再発させました。
3度目の発病。これは、一番、厄介だった。
元よりあった信念が暴走し、
警察のお世話になったこともあるし、
事件やニュースの、一歩手前まで辿ったこともある。
私は精神病棟へ強制的に入れられ、
そこで29歳の誕生日を迎えました。
絶望的だった。20代最後の誕生日でした。
私は、新しく移り変わった、その病院で、
〝生涯続く治療〞の宣告をされたのです。
統合失調症は、生命に、直接影響を及ぼすような病気ではありません。
けれど、〝私という人格〞が破壊され、一人の人間の意識が眠りにつく。
代わりに、その人間の形をした、不可解な人格が暴れまわる。
〝私の身体〞を生きながら、人々に〝私自身、その姿〞だと思わせながら。
生きているのは〝病気の症状、病魔〞です。
理解をされないことが、こんなに苦しいのかと、そう思ってしまうのは。
その〝病魔〞が必ず、〝悲しみ〞しか生み出さないから。
〝私の身体〞を被った〝病魔〞です。
けして、〝私の魂〞を見せてくれない。
余程極悪人でない限り、その魂が眠りについて、よかった、と思う人はいないでしょう。
私はこれが口惜しい。
死亡したわけではない。
でも、〝人格の死〞に匹敵する事態だと、病中をよく思い出せる今の私は、そう思う。
だから、このことが、どれだけ本人にとって、周り人間にとって、深刻なことか。
私は、そのことを〝人格の死〞である、という言葉を使って表現する。
いつまたこうなるか。。。
させられない、させたくない私は。
人一人、その半分の生き方、努力を重ねることを私の、平穏を続けていくための生き方であるとしたのです。
それが、タイトルにあげた〝半人前の価値〞。
簡単に言い表すなら〝細く長く〞が〝半人前〞。
少しでも長く、〝私という人格〞で生き続けていくため。そして、その末に結ばせられる、原因結果を実らせるため。
その力は半分でも、〝私自身〞であり、それこそ、〝私らしい〞生き方なのだと。
人にはそれぞれ、相応しい〝努力の仕方〞があるのだと、そう信じ込もうとしながら、無我夢中で歩いてきた。。。〝それなり〞〝それ相応〞の、〝成果〞で、いいのだからと。
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