障がいは壁か贈り物か

人と関わり、育てる仕事をしていると障がいやグレーの子について考えることはとても多いです。今回は私が思う障がいについての考え方について話していきたいと思います。




ここ数年は割と障がいやグレーの子についての理解や支援が充実してきていますが、現場で働いていると本当の意味ではまだまだ全然だなと感じることは多々あります。

その理由は大人が子どもに障がいについての説明や上手な付き合い方のアドバイスを上手にできないことが多いのと、子どもも自分と違う子を能動的に簡単に「空気が読めない」「ノリが悪い」「キモイ」と排斥するところを見るからです。

先生ですらクラスの支援が必要な子についての説明をクラスメイトにすることを避け「ハレモノ扱い」していると言われても仕方がない状況です。



しかし私が見ていて辛いのは、親が子どもの特性を認めることができず、子どもに合わない環境に置いている状況です。この言い方はとても難しいのですが、明らかに環境に不適応を起こしていたりトラブルになっていても「うちの子は障がいではない」「あなたの努力不足」「なるべく普通の子と同じ経験をさせたい」とその子と向き合っていないケースがよくあります。
なぜこういうケースが多いのかは「障がいではなく環境がそうさせる」「もともと持っている性格や気質」など色々ありますが、やはりまだ障がいに対する考え方や正しい関わり方が浸透していないからと考えます。


学校の先生やスクールカウンセラー、養護教諭もその疑いがある子の親に「障がいがあるかも」はおろか「検査を受けてみた方がいい」とアドバイスすることすらできません。
その子がより安心して生活を送れるためならと優しさから言った言葉も「うちの子が障がい児だっていうんですか!?」と問題になるのを避けるためです。


よほど信頼関係があっても親から「検査受けた方がいいですか」と相談されないとこちらから言えない、明らかに支援が必要な位苦しんでるのに検査も受けないから支援のための人員を増やすことができない。配慮してあげられないからみんなに説明もできないという話をよくききます。
良い所も悪い所もあるのが人間、子どもの言動を信じることと味方でいることは別です。
一度「うちの子は家では良い子です。」と言われてしまうと課題があっても学校ではそれを伝えることも、課題に取り組ませることも難しくなります。

学校などで自分の子どものことを話す時は一方的にならないよう気を付けたいですね。


学校のやり方に疑問を感じたり、自分の子どもがトラブルを起こしたと聞いて信じられない時は、いきなり学校に怒鳴り込むのでなく、一回冷静に同じクラスの保護者(できるだけ中立の立場をクラスで取れる子どもの親がいい)に自分の子の普段の様子など敢えて「何かしらやったはず」という前提で確認してみるとよいですよ。(子どもの前ではその様な態度は控えますが)


よく関係者とは「手間はすごいかかるけどせめて小学校と中学に上がる時に体力測定や健康診断みたいに検査を義務付ければ、検査受ける受けないで揉めることはないのにね」と話します。





幸い今は障がいとは何ぞや、と子どもたちに説明できる恵まれた環境にいるので、折を見てよく話を子どもたちにします。まだ世界が狭い子どもたちは「なんであの子はうるさくしても注意しないの」「なんで大人がいつもそばにいるの」と善悪関係なく素朴な疑問として聞いてきます。

そんな時に「あの子は障がいがあってできないから良いの。あなたはできるんだからちゃんとしなさい」とだけ説明してしまうと、理解は進まないところか「なんであの子ばかり」と考えるようになってしまいます。




私は
まず障がいという言葉は好きじゃないんだよね。障がいは本人や周りがそう感じたらそうであるだけで、本人が自分の足りないとこを補ったり、周りがその人の得意なことや苦手なもの理解して、上手な付き合い方ができれば障がい(壁)はなくなると思わない?
そもそも誰だって苦手とかできないことってあるでしょ?

何度言われてもうるさくしちゃったり授業中寝ちゃう・相手を傷つけることを言ったりしたり・嘘をついたり・人のものを盗ったり・速く走れなかったり・背が小さかったり、挙げればきりがないけど

それって障がい?
私はそうは思わない。

誰にでもしたくてもできない「その時点での能力の限界」がある。これを知ることが大事。

○○はできないけど○○はとても得意
○○はダメだけど○○といういいところがある

人間ってみんなそんなもんだと思うからさ、だから足りないところはフォローし合って許し合っていい所が伸びていくように関われたらお互い最高だと思わない?


障がいがあると言われる子だって同じ人間なんだから、嫌なことを言われたりされたらイライラしたり悲しくなるし、好きなことをしたりいいこと言われたら嬉しい気持ちになる。

ただ苦手なことを克服したり、生活で必要なことを覚えるのが他の人より時間がかかるから、周りの人の理解やフォローがあった方がみんなとうまくやれるってだけ。

邪魔だと排除したり無視するのは簡単だけど、どうしたらうまくやっていけるか、お互いの良さが育つか未来志向で考えて色々試していった方がお互い人間的にも成長できると思わない?

どうしても納得できないことや我慢できないことは聞くし大人がフォローするから前向きに考えていこうね。


と話します。




と、ここまではそれぞれがお互いに心地よく生活するために大人が子どもにできる声掛けですが、私が目指すのはその先の「それぞれの能力の開発と伸長」です。




障がいをもつ人や集団生活に馴染めない人は集団生活を問題なく送るための各種能力(脳機能)を削る代わりに、その分他の感覚が優れている場合があります。

これは足りない部分をほかの機能が補おうとする脳の補助機能です。(たとえば目が見えない代わりに聴覚が優れる)

特にコミュニケーションは相手の仕草や表情、声色、相手と自分の立場など多くの情報をリアルタイムで処理しながらしていく高度な能力なので、これ(コミュ力)を失ってる代わりにその分余った能力を全て他の能力に振り分けているとしたらその能力がずば抜けるのは当然といえますね。


強すぎる能力はコントロールできないとストレスになるので、脳がストレスにならないようにある程度バランスよく振り分けてあえて抑えているのです。
なので逆に集団生活に必要な言葉やコミュ力を身に付けさせることで、ずば抜けていた能力が平均値まで下がることもあるようです。


ずば抜けた能力を取るか、コミュニケーションを取るかは支えている周りの環境に拠るのでどちらがいいとは一概には言えませんが、私は基本的最低限の善悪だけは叩き込んであとは能力をガンガン伸ばしてほしいなと思っています。


これらずば抜けた能力は「サヴァン症候群」というのが有名ですが最近は「ギフテッド」といういい方もされています。発達障害を伴って才能を開花したものをサヴァン、発達障害を伴わないで才能を開花させたものをギフテッドというのですが、先に話したように高すぎる能力は環境に不適応を起こす確率が高いので、よく発達障害やアスペルガーと間違えられやすいです。


以下ギフテッドの人に多い特徴です。



(1)記憶力が非常に高い

(2)すぐに物事を学び判断できる

(3)年齢のわりに語彙が多く、複雑な文章構造を話せる

(4)数字やパズルなどの問題を楽しむ

(5)感情の起伏が激しく、神経質

(6)社会や政治、不正に対して関心がある

(7)想像力があり、空想に夢中になる

(8)好奇心が強い

(9)集中力が高い

(10)並外れたユーモアのセンスがある





いくつ当てはまりましたか?
アメリカやイギリスではギフテッド教育は盛んですが、日本では残念ながらほとんど公的には行われていません。
しかしこれに注目している大学や団体はあり、東京大学は才能発掘プロジェクト「ろけっと」というのを行っていたり、オルタナティブスクール、モンテッソーリ教育など探せばそれなりにあるようです。

今の日本の公立の教育現場の多くはあらゆる才能に対応するだけの余裕や柔軟性は残念ながらないので、周りの目を気にして無理に通わせ中途半端にバランスよく育てようとせず、思い切ってフリースクールやオルタナティブスクールなどに通わせたり、積極的にそういういうイベントに参加させ、得意な能力をずば抜けさせることもよいのではないかと思います。


でも勘違いしてはいけないのはそういう教育現場にしてしまったのは教師の能力が下がったのではなく、無駄な研修や慣習、私たち外部の人間が自身の躾をおざなりにしたのを棚に上げクレームなどで教師が指導力を発揮できない環境にしてしまったからです。

また他国と比べると、政治的にも育児や教育にあまりお金をかけていないので、これは今後の日本の大きな課題です。



世界の秩序を維持するには常識のある人たちが絶対必要ですが、世界を変えるのは「変わり者・非常識」です。
どちらにも役割があるので、お互い手を取り合って足りないところを補い合って面白い世の中を生み出していけたら
いいですね。




さて、最後になりましたが
成功者、偉人、有名人・芸能人なども発達障害(らしき)人はたくさんいます。有名なところを何人か載せます。本人に直接聞いたわけではないので「へーそういわれているんだ」、程度に見てください。

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