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社内SEとして

小さなシステム会社でSEとして仕事をしていたのは20年以上前。

小規模な案件ながらシステムを作る楽しさを感じ充実していた20代。

ある日、大手の一般企業に出向を命じられた。そこで担当するのは業務システム。業務に携わったことがない私は用語の理解に苦しみ、出向先の社風に苦しみ、出向先の上司に苦しんだ。

その上司は今で言うとパワハラで一発アウトの人。しょっちゅう怒鳴り散らし、怒られ、暴言を吐かれた。だが、うちに秘める情熱は凄かった。何しろシステムで「業務を変えるんだ!」と声高に叫んで自ら設計し、専用の部署まで作り、エンジニアを常駐させ内製化しようと20年前にしていたのだから。

出向期限が迫り、自社に戻って小規模な案件に戻るか、延長して規模の大きな教務システムに携わるのか。決断しなければならない。

楽な環境に流されたくて、苦しい職場から逃げ出したくて、自社に戻ろうと思った。後ろめたい気持ちがあった。仕事は楽しいが一番、そう考えていた。

出向先の上司に自社に戻ると話をしたところ、
「お前には才能がある。もどって小さな案件やるのではなく、ここででっかいシステム作ろうぜ!移籍の話はつけてやる!」

評価してもらったことが意外で、そして嬉しかった。苦しみの中に少し希望が見えてきていたので心揺らいだ。全く理解できなかった業務の流れも覚えてきた。システムを使っているユーザーが目の前にいる環境は怖くもあるが、手応えを感じることができる。

自社に戻って相談すると、その案件リスクがあるから戻ってこいとの事。

悩んで結論が出せず、3日くらい過ぎたある日。

出社したら社内の様子がおかしい。なにか事件が起こったようだった。

出社するや私は会議室に呼ばれ、出向先の上司が亡くなったことを告げられた。突然だった。あの豪快で図太く熱血の上司がもう居ないのだ。昨日まで話をしていたのに、まだ返事をしていないのに。

その日、何していたかよく覚えていない。ひっきりなしに電話がかかってきて対応しながらも、業務は行われ、当然のように業務システムも稼働している。そして不具合も起きる。しかし誰も指示が出せない。悲しみもそこそこに残された人でシステム対応をした。人は居なくともシステムは動かなくてはならない。辛いが現実だ。


結局、出向先に転職し、社内SEになった。亡くなった上司と作ろうとしていたシステム、周りの助けもあり、企画立案、要件定義、設計を行い、開発は外注して完成させることができた。10年かかった。だが当時二人で描いてた最終系のシステム像には少し足りない。自分の実力不足。次のチャンスのために色々な経験を積み、新たなシステム構想を練って10年待った。

時代も変わり、私も年を取り、会社から求められる役割も変わった。要するに次のシステム構築は次の世代に、との事らしい。

社会人人生、振り返ると社内SEは辛いことも多かった。自分で企画したシステムを構築できた事は私の財産。その時は考える余裕もなかったが、自分が作ったと言えるシステムが稼働した瞬間、天職だと感じたのかもしれない。

いや、私の作ったシステムが役目を果たして、次のシステムにバトンを渡そうとしている今、社内SEで過ごしてきた日々を思い返して天職だったと感じたのかもしれない。

#天職だと感じた瞬間

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