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掌編小説「よるべなき」

 きみは立ち止まる。まだ〈Close〉のプレートがかかっている、木の扉の前で。目の前に聳えているのは、二階建ての、モカ色の煉瓦でできた建物。白くつるつるした横長の看板には、深緑色の筆記体で書かれている文字を読み取れなくて、きみはいまだに店名を知らない。右端についている海色のかもめのイラストが、この店を判別するための目印だった。

 真鍮のドアノブをひねり、重心をかかとに移すようにして手前に引いたけれど、扉は動かなかった。こんどは体重をつま先へかけて奥へ押してみる、と、扉はあっけなくひらき、風が外から店内へとすべりこんでいくのを、きみは背中でわかった。今日は押して開けるドアだったらしい。以前は引いて開けるドアだったはずだ、と思ったけれど、それもいつのことだか、定かではなかった。

「こんにちはー」

 店内に足を踏み入れると、きみの全身は一気に柔らかく香ばしい匂いに包まれる。店舗の一階はパン屋さんだった。飴色に磨かれた床のせいか、店内に満ちる空気は、蜂蜜に浸したみたいな淡い黄色味を帯びているように見えた。

 小学校の教室ほどの広さの店内、三分の一が厨房になっていて、残りの三分の二には、開店と同時に売り物となるパンが並んでいる。焼き立てのパンのひとつひとつが、橙色の照明を受けててらてらしている。どれがなんという名前のパンなのかまだ覚えていないきみは、それを見てただ、パンだ、と思う。

 店の奥にはきみより背の高い振り子時計がひとつ立っている。鈍い金色の振り子は絶えず左右に揺れているが、文字盤上の針が動いているのを、きみは見たことがない。きみが見ていない隙に動いているのかもしれない。あの時計が狂っているのかもしれないし、あの時計以外のすべてが狂っているのかもしれない。

「こんにちは」

 店長さんが焼き立てのパンをのせたトレーを運んできた。真っ白いワイシャツの上からクリーム色のエプロンを身にまとったこのひとが店長だ。胸に、店長、と書かれた名札をつけているから、まちがえなくて済む。

 店長さんが運ぶトレーにのっているのは、みっちりと中身のつまったベーグルだった。ナッツが練り込まれた生地はほんのりよもぎ色で、まんなかにいびつな穴があいている。ベーグルのことはベーグルだと、きみにもすぐにわかった。

 この店のすべてのパンをひとりでつくっている店長さんがとくにこだわっているのはこのベーグルなのだけど、ここのお客さんは皆あまのじゃくなのか、おすすめとポップを立てている商品はかえって売れないらしい。だから、ベーグルがおすすめであることは店員のあいだだけの秘密となっている。おすすめを聞かれても、ぜったいにほんとうのことを答えてはいけない。

 その話を聞くと、なんだかきみもベーグルは食べなくていいような気持ちになってしまい、まだ一度も食べたことがない。ベーグルを見てもベーグルの味を思い出せないから、たしかそのはずだ。

 厨房の隣に、小さなロッカールームがある。ひとが三人も入ったらぎゅうぎゅうづめになってしまうくらいのせまさ。きみはその部屋の壁際に設置されているふたつのロッカーのうち、左側のひとつを開けた。自分の茶色いエプロンを取り出し、身に着ける。腰ひもを後ろ手で結んでから、肩ひもの位置にふたつのバッジを留める。黄色と緑の初心者マークのバッジと、かもめの絵がついたバッジ。バッジを見たきみは、自分がここでアルバイトをはじめてからまだ日が浅いことを思い出す。初心者マークのバッジはミスをしても許してもらうための口実で、かもめのバッジはここの店員である証明だ。海色のかもめが、この店のマスコットキャラクターだった。小さなくちばしと、両側に大きくひろげた羽。

 ロッカールームは、この店のなかでいちばん海に近い位置にある。扉を閉めて店内の音を遮断してしまうと、窓の奥からときおり、波の音の破片が聞こえてくることがある。けれど海そのものの姿は見えない。窓の向こうはいつも、一面の白い靄と森の木々に遮られている。

 きみはこの町に来てから、いちども海を見たことがなかった。このロッカールームで、波の音を耳にするだけだった。この波音の断片こそが、きみにとっての海だった。きみの海は、いつも音だけでできていた。

「こんにちはー」とロッカールームの扉がひらいて、入ってきたのは先輩アルバイトさんだった。

「こんにちは」

 先輩アルバイトさんは、小慣れた手つきで右側のロッカーを開け、エプロンを身にまとう。ふっくらした身体を、エプロンの布地がやわらかく包む。先輩アルバイトさんは先輩だから、もう、エプロンに新人バッジをつけていない。かもめバッジだけが、肩でめらりと光っている。

「先輩は、いつからここで働いているんですか」ときみは先輩アルバイトさんに尋ねた。前にも尋ねたことがあるような気も、いま初めて尋ねたような気も、した。先輩アルバイトさんは首を、五十度くらい傾けた。

「うーん、忘れちゃった」

「そういうものなんですね」

「そうだよ」と先輩アルバイトさんは言った。

「ここにいるといろいろなことを忘れていくの」

「そうですか」

「忘れてしまうほうがしあわせなんだよ、きっとね。なにもかも」

「へえー」ときみは言った。きみもすでになにかを忘れているような気がしたけれど、もう忘れたことなのでわからなかった。

 先輩アルバイトさんは一階のパン屋さんのレジ担当で、まだ食べものを扱うことを許されていない新人のきみは、二階の雑貨屋さんを任されている。

 高さのまばらな螺旋階段の段差を一段ずつ、ゆったりのぼって二階にたどり着き、レジに立つ。二階はフロア中に、寄木細工が施された雑貨が並んでいる。オルゴール、ペン立て、眼鏡ケース、写真立て、ストラップ、お盆。人工的な装色はなにも成されていない、天然のままの木の色合いが精巧に組み合わされ、幾何学模様を描いている。精密に繊細に並ぶまっすぐな模様に、きみはいつも、うっとりと見惚れてしまう。

 レジ台に置かれたキャッシュトレーも、寄木細工でできている。お客さんがいないあいだ、きみはそのトレーを、ひと差し指でずっと撫でている。指の腹をそっと滑らせると、小さな凹凸が指紋をくすぐりながら馴染む、小気味いい感触が皮膚にひろがっていく。いつまでもするすると触っていたかった。

 この店のどこかに寄木細工の職人がいるはずなのに、きみはその姿をいちども見たことがない。前日に売れた分だけ、次の日の朝には新しい製品が補充されて展示机に並んでいる。昨日いくつ売れたのか覚えていないきみは、今日どれだけ新しく増えたのかも、よくわからない。

 一階の振り子時計が鳴る。おおげさに、ぎんごんと重く鈍い音が鳴る。今日の開店時間を迎えたらしい。二階には時計がない。きみはいまが何時なのかわからない。このお店がいつも何時に開店しているのか、きみは知らない。

「こんにちは」

 と、一階から先輩アルバイトさんの声が聞こえる。先輩アルバイトさんの声はぱきっとしていて店中によく通る声なので、きみは羨ましく思っている。

 ぽくん、ぽくん、と音が聞こえた。これは、誰かが階段をのぼってくるときの足音だ。レジの前に立っていると、階段の様子がよく見えない。

 最後の段をのぼりきり、二階に姿をあらわしたのは、髪の毛のないおじいさんだった。もしかするとおばあさんかもしれない。瞼の下には大きなしわがぶらさがっている。茶色い絵の具をこぼしたようなシミもある。

「こんにちは」

 つるつるの頭部に天井の照明が反射して光っていて、焼き立てのパンの表面と同じくらいにきれいだった。じっと見つめていると、その下に並んでいる両目にぎっと睨みつけられているのに気づいて、きみは慌てて視線を逸らす。

 なぜ睨まれたのか、きみにはよくわからない。睨まれたくはないので、きみはもう二度とおじいさんの頭を見られなくなった。

 おじいさんはゆったりと寄木細工を見てまわり、至高のひと品を探しだそうとしているようだった。きみはおじいさんの邪魔をしないよう、じっと息をひそめてレジに立っている。薄く呼吸をしていると、きみの存在感も空気のように薄くなっていく感じがして、それも心地よかった。いっそ透明になって、消えてしまいたいような気がした。海色のかもめは、海に行けば海と同化して透明に見えるのだろうと思った。きみも寄木細工の色と模様と同じになったら、寄木細工の前で透明になれるのだろうと思った。思う。思った。きみは思った。きみが思った。

 おじいさんがレジに持ってきたのは寄木細工の写真立てだった。きみはただしい値段がわからないので、レジの数字を適当に押す。新人バッジをつけているから間違ってもだれにも怒られない。きみは、いつまでも新人でいたいな、と思う。

「ありがとうございました」

 おじいさんはまだ写真の入っていない写真立てを持って、階段を下りていく。降りるときは、こぽん、こぽん、と音がする。ひと仕事を終えて、きみはほっと息をついた。

 こんにちは、と、ありがとうございました、がちゃんと言えれば、このお仕事はきみにも務まった。きみはきっともう二度と、ここから出られない。

 つぎに階段をのぼってきたお客さんは、迷いなくフロアのいちばん奥へとまっすぐに進んでいった。そこは秘密箱のコーナーだった。ひとつひとつの箱を手に取り、くるりと眺めまわしている。

 適切な手順で箱の側面をずらしていかないと、ちょっとでも間違うと蓋は開かず、永遠に中身を取りだせない、それが秘密箱だ。秘密箱を探している彼には、なにか秘密があるのかもしれない、ときみは想像した。

「おねがいします」

 レジ台に、ひとつの秘密箱が置かれた。十回仕掛けの、コンパクトなサイズのものだった。この、手のひらからちょっとはみ出るくらいの大きさの秘密を、彼は持っているのだろうか。

「はい」

 きみが顔を上げると、彼と目が合う。彼はなんの疑いもなく口角の左右を持ち上げて、「ひさしぶり」と言った。

 きみは、彼の顔に覚えがなかった。垂れた目にも、小ぶりな鼻にも、薄い唇にも、見覚えがあるようにも、ないようにも、思えた。あまり特徴のない顔だから、以前にも似た顔のひとを見たことがあるだけかもしれない。誰だったか思い出せなかったけれど、確信めいた彼の表情を見つめているうちにきっと知り合いなのだろうと思うことにし、「ひさしぶり」と返した。

「元気だった?」

「うん、たぶん」

 つまらない会話でも話がつづくからひさしぶりというのはいいときみは思った。ほかになにを話したのかよく覚えていないけれど、それこそが意気投合したしるしだと、彼は言った。

 きみと彼はその日のうちになんとなく付き合うことになり、一週間後に子どもが生まれた。性別はよくわからなかったけれど、すくなくとも人間の形をしているらしいことがわかり、きみはほっとした。

 そのすべては、きみが、いま、たしかに経験していることのはずなのに、すべてが遠い日の走馬灯のようにあっさりと駆け抜けていった。きみは、きみの身体に起こったことをなにもはっきりとは覚えていられない。歪んだ時間軸に、足の指先までを包まれている感覚。

 いまはいつ。

 ひさしぶりにお店に顔を出したきみが、こんにちはー、と言う前に、店長さんが駆け寄ってきた。

「おめでとう」

 結婚と出産おめでとうと書かれた小さなメッセージカードをもらい、ありがとうございます、と両手で受け取る。きみを見つめる店長さんは、すべてが自分のことのようににこにことしている。ほんとうはまだ結婚していないのだと、きみは言いだせないでいる。そんなことより、きみは、子どもをちゃんと保育園に預けてきたのだったか自信がない。

 子どもの父親はどうしているのだか、もうわからない。彼が秘密箱のなかに仕舞ったかもしれない秘密は、きみにも秘密なままだった。秘密とは、秘密にしていることさえ、秘密でなければならないはずだった。

 きみは、まだきみの両親になにも報告していないことを思い出した。両親、という言葉は思い出せるけれど、それが具体的に誰のことだったのか。ぼんやりと影が浮かぶだけで、どうにもピントが合わない。子どもは日に日に大きくなってしまうから、一日でもはやく教えなければ、孫の成長を見逃したことでどんなに怒られるかわからない。はやく言わなければと思うのに、どうしてもとても億劫。

 ロッカールームの端の棚のうえに、立方体の木の箱が置いてあった。側面にそれぞれ、クリスマスリースのような円い模様がついている。そのすべてが木でできている。

 きみは、そのとき初めて、その立方体が、その場所にあることに気づいた。

「これも秘密箱だよ」

 あとから入ってきた先輩アルバイトさんが教えてくれた。先輩アルバイトさんは、きみの子どもの話には触れなかった。

「そうなんですか」

「千五百三十六回の手順が必要なんだって」

「へえー」

「でも開けられないんだって」

 ずいぶん昔にそれを手に入れた店長さん本人は、開けるための手順を忘れてしまい、先輩アルバイトさんもときどき挑戦しているものの、さっぱりわからないという。なかになにか大切なものを入れた気がする、と店長さんが言っていたとか。

「へえー」

 きみはその箱を見つめた。毎日のように寄木細工を目にしているきみも、こんなに大きい木箱を目にしたのは初めてだった。どこから手をつけていいのかさえさっぱりわからない。

「それやめたほうがいいよ」

 きみは秘密箱から視線を外し、先輩アルバイトさんを見て、首を傾ける。

「なんのことですか」

「その、へえーって相槌。口癖なのかもしれないけど、なんだか頭が悪そう」

「わかりました、やめます」

 先輩アルバイトさんは笑った。なにが面白かったのかはわからなかったけれど笑ってくれてうれしいときみは思った。いつから口癖なのかはやはりもうわからなかった。

「なにもかもを忘れてしまうんだよ」という先輩アルバイトさんの言葉もやがて忘れるのだろうときみは思った。忘れたくなかった気持ちさえ忘れていくのだろうときみは思った。忘れたことを忘れればそれは忘れたことにさえならない、とも思った。きみは思った。

 午前のお仕事が終わって、休憩時間にひとり、例の大きな秘密箱の側面を適当な手順でずらしていくのを繰り返して遊んでいると、ふと手ごたえがあり、あっさりと開いてしまった。店長さんも先輩アルバイトさんもあんなに苦戦していたのに、きみのようななにも知らない新入りが開けてしまってはいけない気がして、きみはあわてて工程を逆再生し、なにごともなかったかのように元に戻した。そういえば中身をちゃんと確認していないことに気づいて、店長さんが言っていた、なにか大切なもの、がどうしても気になって、もう一度適当に動かしていくと、やはり簡単に開いてしまう。

 なかは空っぽだった。内側の、秘密めいた酸味のある木の香りが閉じ込められていただけだった。

 だけど店長さんも先輩アルバイトさんも、なかにはきっとなにかすごくいいものが入っていると夢を抱いているみたいだったから、それを壊してしまわないよう、きみは誰にもなにも言わないことにした。きみこれ開けられる?と店長さんから渡されても、きみが触ればきっとまたすぐに開いてしまうから、わたしなんかが開けられるわけがありません、と指一本も触れない。中身は空っぽだけれど、代わりに、このなかにはみんなの夢が入っている、と、きみは思うことにした。

 ある日のまかないは、前日の余りもののパンと土色のゼリーのようなものだった。寄木細工のお盆にのったそれらを店長さんから受け取り、ロッカールームに持ちこんだ。席について、まずはゼリーのようなものに手を伸ばすと、通りがかった先輩アルバイトさんに止められた。

「それ食べないほうがいいよ」

 先輩アルバイトさんの目は真剣だった。きみはぴたりと手を止めて、膝の上に戻した。

「どうしてですか」

「それはね、店長のフェイクなの」

「フェイク?」

「それは、ほんとはかもめの餌で、人間が食べると、毒だから」

「うわあ」と声が出た。

 教えてもらってよかったときみは思った。ゼリーには手をつけず、あまりもののパンだけに手を伸ばし、かぶりついた。昨日の余りものだからか、パンは硬くなっていて、前歯で嚙みちぎるのに苦戦した。歯茎ごと力をこめて、引きちぎるように嚙みちぎる。あるいはもとから硬いパンなのかもしれない。きみはまかないでしかこのパンを食べたことがないから、本当の味がわからない。

 先輩アルバイトさんはきみの向かいのパイプ椅子に座り、土色のゼリーの縁を指でつまみ上げた。

「人間がこれを食べると、知性がリセットされちゃうの」

 きみは硬いパンを口にくわえたままうなずいた。

「インターネットは過去の閲覧履歴をもとに新しい記事を提供してくるでしょう。でも知性がリセットされた人間は、ついかもめの記事ばかり見てしまうの。だから検索履歴がかもめだらけ。表示されるページもかもめだらけ。リセットされたまっさらな知性にかもめの情報ばかりが入ってくるから、ついにはかもめ語をしゃべるようになってしまうの。だからぜったいに食べちゃだめだよ」

 そういうことなら食べてみてもよかった、と思ったけれど、土色のゼリーは先輩アルバイトさんの手によって、すでにゴミ箱のなかに放られてしまっていた。これがまかないとして出されたのは、店長さんのいたずらなのかミスなのかはわからない。

 午後のお仕事の時間になり、いつものようにレジに立っていると、階段がぽくんぽくんと鳴り、ひとりの女性があらわれた。髪がまっすぐに長く、まつげが上向きにつんと伸びていた。頬に散らばる、星座のようなほくろを見て、きみは気づいた。彼女は、中学時代にきみと同じ部活に所属していた同級生だった。それにしてもなんの部活だったか思い出せない。ただ、同じ部活だったということだけを、きみは確信していた。なぜなら大会前に彼女と肩を組んだ記憶が残っていたからだ。彼女の肩のあたたかさや、汗ばんだ湿りけや、すこし骨ばった感触を思い出せた。だから部活で一緒だったのだきっと。

「これをください」

 と彼女は寄木細工のオルゴールをひとつ、レジに置いた。

「はい」

 彼女がきみに気づいている気配はなかった。もしかすると、きみの勘違いなのかもしれない。中学時代、とは何年前のことをさすのか、きみは思い出せない。

 きみはオルゴールを手に取り、表面に施された模様に指を這わせながら、レジの数字をあべこべに押していく。財布を取りだした彼女の手元に視線をやると、彼女の左手の薬指には銀色の指輪がはまっている。

「結婚してるんですね」

 きみはつい、彼女に話しかけてしまった。

 彼女はきみの顔を見た。彼女がきみのことを思い出したのか、あるいはただ話し相手としてちょうどいいと思ったのか、彼女は口を開いた。そして、「末っ子はもう小学四年生なんです」と、本来なら何手か先に用意されるはずだったろう答えを口にした。

「じゃあ、最後の出産はもう十年前なんですね」ときみは彼女に合わせて返した。

 私はついこのあいだ子どもを産んだんですよ、でもちゃんと保育園に預けてきたのか自信がないんです、と言おうかと思ったけれど彼女がきみの目の前で顔を伏せてとつぜん泣き出したので、きみはなにも言えなくなってしまった。

 その訳について、彼女はきみになにも説明しなかったけれど、きみは、彼女が泣いた理由をはっきりと悟ることができた。もう十年前なんですね、というきみの台詞がよくなかったのだ。

 謝るのも白々しい気がして、またお越しください、とだけ言った。彼女は顔を上げてからうなずいた。ほくろの散らばる彼女の頬には、もう涙は残っていなかった。

 きみは彼女と一緒に木の螺旋階段を一段ずつ踏みしめるようにして降りた。それから、ベーグルをひとつ、トングでつかんで窓つきの紙袋に入れ、その紙袋を彼女の手に持たせた。サービスだ。かってにこんなことをしてしまって、だれかに怒られるかもしれなかったけれど、店長さんは厨房の奥にいるし、このフロアにはもうほかのお客さんも、だれもいなかった。ただ無言のパンが並んでいるだけだ。

 もういちど、またお越しください、と言って、扉から出ていく彼女の背中を見送ったけれど、きみは本当に彼女にまた会いたいのだか、あるいは優しいふりをしたいのだか、よくわからなかった。

 なぜきみの意識はこんなにもあいまいなのかきみはときどき考えようとしたけれど考えようとするとその瞬間から意識がほどけてしまい、難しいことをなにも考えられない。むかしはこんなふうじゃなかった気がする。むかし。むかしとはいつのことだろう。きみは、自分がいま何歳なのだか思い出せない。きみはこの店の外できみがどうやって暮らしているのだか、思い出せない。わからない。

 店長さんから呼ばれた。なんと呼ばれたのかよく聞き取れなかったけれど、きみは、きみが呼ばれているのだとわかった。ここにはきみしかいないのだから、そうにちがいないとわかった。きみは、きみの名前を思い出せないことを思い出した、けれどそれもまたすぐに忘れた。

 厨房から出てきた店長さんは、右手に持っていた秘密箱をきみに差し出した。複雑に組み合わされた綿密な模様。色の差異が、模様をつくりだす。

「きみにはきっと、寄木細工がとても似合うよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 店長さんから寄木細工を受け取る。でもきみは、ほんとうに自分がこれをもらってしまっていいのか、確信を持てない。きみより先にもらうべきひと、きみより先にここにいたひと。そんなひとはいなかっただろうか。

 気づけばきみはまた、店の前に立っている。〈Close〉のプレートがかかっている、木の扉の前で。二階建ての、モカ色の煉瓦でできた建物。扉の上には、白い看板が貼りついている。緑色の筆記体で書かれている文字を読み取れなくて、いまだに店名がよくわからない。右端についている海色のかもめのイラストが、かろうじてわかる目印だった。

 真鍮のドアノブをまわして、奥へと押すけれど開かない、手前に引いても開かない。横に引いても開かない。開かない。

 そもそも、きみはなぜここに来たのだったか。〈Close〉なのだからまだ開いていないに決まっているのに。ここはどこ。そんなこともわからなくなってしまった自分のことが、きみは。

 きみは、だれ。

 きみは自分のズボンのポケットに、違和感があるのに気づいた。ごつっとしていて、布越しの太ももが痛い。手をつっこむと、きみの指先は、触れ覚えのある感触にたどりついた。そのまま指先に力を入れ、ひっぱりだすと、それはポケットよりちょっと大きい、木の箱だった。なぜこんなものが入っていたのか、だけどそれももうどうでもいいと思った。きみは思った。

「きみ」

 と呼ばれるとききみは、きみ以外の人間とともに存在している。きみは、きみ以外の人間とともにしか存在しえない。中身も意思も記憶もない薄っぺらなきみを、きみたらしめているのは、きみをきみと呼ぶ、きみ以外の誰かだ。それは、

「私をきみと呼んでいるのはだれなのですか」

 きみが、首を上に向けた。きみと、目が合った。

「わたし?」

 と、わたしは答えた。

「そう、あなた」

「わたしは、わたし」

 きみがわたしを呼んでいる。わたしに呼びかけている。

 きみは、きみだけではきみになれない。きみという模様を描くには、きみをきみと呼ぶ人間が必要だった。

 わたしという存在は、きみがいなくてもきっと成り立つ。わたしがいれば、わたしはここにいる。わたしはただわたしである。だから呼びかけなくていい。きみはわたしに気づかなくていい。

 あたたかい。やわらかい感覚。するりとすべるような、胎内のようなぬくいまどろみ。背中から足音が聞こえる。

 きみは、きみをきみと呼ぶひとがいなければ、きみはきっと消えてしまう。

 もうだれも。わたしも。

「うん」

 とうなずいたのはきみだったのか、わたしだったのかもうわからなかった。

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