誰かのために生きる--『むらさきのスカートの女』

 今村夏子の『むらさきのスカートの女』を読んだ。語り部の女性が近所に住むむらさきのスカートの女と友達になるため、ストーキングをし、自身の職場に来るように誘導する。

 仕事を始めては止め、しばらくは無職で過ごし、また働いてはやめる生活を繰り返すむらさきのスカートの女。見た目も不潔で、暗い雰囲気をまとっている。

 彼女が語り部の職場に入ると、先輩たちと交流をもち、仕事もテキパキとこなしていく。その姿は冒頭で語られたイメージと異なる。やがて、上司との不倫などと通して調子にのるむらさきのスカートの女を、それでもつけまわし、観察し続ける。

 やがて大きな事件(ぜひ本文を読んでいただきたい)が起こり、彼女と友だちになるチャンスが来る。彼女にそこから逃れるすべを与える。しかし、彼女はそれを無下にされる。

 この語り部は何をしたかったのだろうか。友達になるために長時間のストーキングをするのは常軌を逸している。それが本作の面白さだと言ってしまえばそこまでではあるが、そこには「誰かのために」というエゴが見え隠れする。

 この作品は育成ゲームやRPGに似ているように感じた。自分の能力をあげるのではなく、キャラクターの能力をあげる。それに満足感を覚える。育成していく際に、どのようにしていくかをプレイヤーが決めていく。そこには確実にこうなってもらいたいという想い=エゴが存在する。

 個人の楽しみであるゲームでは問題ないが、それを現実に行うと問題があるように感じる。親や教師が子どもに「かくあれかし」と洗脳する。声が大きな人たちだけではなく、二人きりの関係でも、一人の頭の中でもこのような育成状態が生まれる事がある。

 語り部のように極端でなくても、誰もが全くの無罪ではいられない。作品のおかしさを楽しむだけではなく、自身の行為を反省するのも面白いのではないだろうか。

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