宝塚大劇場と阪急電車

宝塚の歴史と小林一三の信念②

小林一三の文学についてお話しします。小林一三の小説「練絲痕」は一三が学生時代に山梨日日新聞に連載したものです。もともと実際に起きた殺人事件を題材に小説を書いたのですが、その事件が未解決でして、この小説を書く人は犯人を知っているのではないか、内部事情に詳しいのではないかと警察の捜査まで受けてしまいます。それで嫌になってしまい、途中で連載を打ち切ってしまいます。

ペンネームは靄渓学人(あいけいがくじん)ですが、これは本名のイニシャルI.K.に漢字をあてたものです。この「練絲痕」を宮武外骨という人が昭和9年に、こんなおもしろい本がある、今阪急で有名な小林一三が、学生時代にこんな小説を書いていた、と小冊子にして世に広めました。一三は就職してから上毛新聞の懸賞小説に当選しています。また1915年に『曽根崎艶話』という本をペンネームで出しています。これは大阪の歓楽地、曽根崎の噂話を書いた本ですが、本人が言うには発禁になり罰金処分を受けたと言っています。裏はとっていませんが、たぶん、本当にそんなこともあったのかなと思います。戦後まもなく復刊して、全集にも載っています。これを読みますと、さすが小林一三だと思うのですが、人間観察が非常に良く描かれています。ですから、あまりにリアリティがありすぎて関係者が怒ったのではないかと思います。それほど面白いし読んでいて飽きない小説です。これも本気で書いたのではなく、遊びで書いた小説だと思いますが、これだけの作品が出来るということは、一三は普通の文学者以上の才能があったのではないかと思います。

そして、初期の宝塚の脚本もいくつか手がけています。今回調べたのですが、実物が手に入らなかったので読んでいません。脚本家がいない大正時代にいくつかの作品を一三の脚本で上演しました。俳句や短歌、小唄や漢詩もあるのですが、これはまた最後にお話ししたいと思います。

それでは本題の「宝塚の歴史と一三の信念」というお話に移りましょう。一三の略年譜を兼ねて、宝塚の歴史をレジュメとして用意しておきました。全部は追いきれないのですが、見ていきたいと思います。電力の鬼と言われた松永安左エ門と一三は親しかったと話が出ていましたが、その繋がりのもとは慶應義塾にあります。小泉信三がエッセイで小林一三のことを書いています。 「小林一三は合理主義ですが、その反面、義理人情に欠けていて冷たいと言う人がいるが、慶應義塾で寄付が必要な時に小林一三のところに行き、いくらいくらお願いしたいと言うと、一回もまけろといったことがない。『そんな金額で言いのか』と言って寄付をしてくれる」とあります。慶應義塾そのものの経理にはタッチしていないが愛校精神はあったということです。松永安左エ門と一緒になり自由主義経済的発想で、いろいろな企画をしていましたが、それは慶應の伝統だろうと思います。

小林一三は三井銀行に入行し、その後退社して阪神で鉄道事業を始めました。この辺の話は省略します。鉄道の経営をするにあたりレジャー施設を作ろう。家族で行ける施設がいい。一人で行くより家族で行く方がたくさん電車に乗ると。それで阪急沿線のひなびた温泉町だった宝塚に目をつけ、先程お話しした宝塚ファミリーランド、当時は宝塚新温泉を作ります。プールを作りますがうまくいかず、プールに蓋をして舞台に仕立て、宝塚少女歌劇を始めました。これが1914年(大正3午)です。すぐに機関誌を創刊し、専用の劇場も作るのですが、これは大正時代です。一三は実質的に阪急の経営者だったのですが、正式に社長に就任するのは昭和の時代になってからです。宝塚歌劇は順調に発展し昭和9年には、東京に宝塚劇場を作ります。海外公演も昭和13年にヨーロッパ、翌年にアメリカに行きます。海外でも宝塚が通用すると実証してきたのです。戦争があり劇場が閉鎖されますが、その間に一三は商工大臣になり、その後公職追放となり大臣は辞職しました。東京宝塚劇場は接収されまして、ア一二イ・パイル劇場と名前を変え、アメリカ軍の専用劇場になっていました。この時期に一三はエッセイに、ア一二イ・パイルの前に立っての感慨を書いています。そこで印象的だったのは、アーニイ・パイル劇場の前は塵一つ
なくきれいだった。いつでも掃除をしている。ところが少し離れて日劇の前にいくとうす汚れている。だからだめなんだと書いています。ア一二イ・パイルが返還され手に入ったら、家族で行ける劇場にすると決意しています。しかし、なかなか劇場が帰ってこず、国を相手に訴訟を起こし、昭和30年になりやっと戻ってきます。その間は日劇や帝劇などで宝塚の公演を行っています。戦後、東宝の労働争議が起こります。大変な争議で何千人という労働組合員が立てこもり、 GHQを動員して鎮めました。その時に、来ないのは軍艦だけと言われたほど、大変な争議でした。

一三は公職追放が解除され、ア一二イ・パイルが返還されて、これからという時に亡くなってしまいます。昭和30年というとテレビも世の中に普及してきて、一三はテレビについて考えていたようです。だた具体的にならずに亡くなってしまいました。もしあと数年生きていれば、テレビ界に小林一三関係の資本が入っていたのではないかと思います。

その前に宝塚新芸座というものを作っています。宝塚歌劇団のメンバーも一部一緒に活動していきます。一三は宝塚歌劇だけでは満足していなくて、新しい国民劇を作りたいと松竹に対抗するような形でいろいろ試み、戦後はこの薪芸座に懸けています。しかし、結局うまくいかず、一三の死後無くなってしまいます。宝塚歌劇は1974年に『ベルサイユのばら』が大ヒットして見直され、新たなブームになります。私は1957年生まれですので、ベルばら以前の宝塚を良く知りません。このベルばらは宝塚にとって非常に大きかったのではないか、それ以前は演劇界でそんなに一つの地位を占めるほど大きく
なかったのではないかと思います。平成になって新宝塚劇場がオープンし、東京にも新東京宝塚劇場がオープンし発展してきました。

宝塚の歴史と小林一三の信念③に続く

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