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イタリア留学時代の話①―前日譚

絶賛夏季休暇中だ。先週の4連休とつなげて、計11連休という社会人にしてはなかなかの長い夏休みを錬成した。家でひたすら映画を観たり、本や漫画を読んだり、ゲームをしたり、のんびりすごしている。本当ならイタリアのサルデーニャにでも行って優雅にバカンスを過ごすはずだったのに、世界的に新型コロナウイルスが蔓延しているこの状況だと、海外はおろか都外に出ることすらできない…。そんなわけで気分だけでも海外に行きたいと思い、学生時代に1年弱留学していたイタリア・トリノでの生活を書き留めておこうと思い立った。もう7年ほど前のことなので記憶があやふやなこともあるけど、写真だけは大量に残っているので、それらを見ながら振り返ろうと思う。1回目は留学に至るまでの前日譚を。

歴史に惹かれてイタリア語を志望

留学の話を始める前に、なぜイタリア語なのか、なぜ留学したのかということから話そうと思う。このnoteの存在を知っているのは大学生時代の友人知人が大半なので改めて言うことでもないが、僕の母校は東京外国語大学で、専攻語はイタリア語だった。

「なんで○○語にしたの?」――。外大生だったら幾度となく聞かれる質問だ。当時の外大は外国語学部のみ(今は学部が3つに分かれている)で、専攻語が28もある(入学時はベンガル語を除いた27言語だった)。そんな数多くの言語から1つを選ぶのはそれなりの理由があるのではと思われがちだけど、たいていはとくに大それた理由があるわけではない。東南アジア系の言語だと、「本当は欧米の言語がよかったけど、センターがうまくいかなかったから」という人も多かった(補足しておくが、全体的に欧米言語の方が入学時の偏差値は高い。だけど偏差値の高さで専攻語の価値が決まるわけではもちろんないし、明確に目的をもってそれらの言語を選んだ人も当然いる。それに第1志望ではない言語を選んだ人でも、たいていの場合は学んでいくうちに結果的にその言語を好きになっている)。

外大受験を意識し始めたのは高校2年の終わりごろだったと思う。世界史の授業が楽しくて、漠然と海外のことを勉強したいと思い始めたのがきっかけだった。修学旅行で人生初の海外(イギリス)に行ったのも影響したのかもしれない。

もともとは何の考えもなしに英語科をめざそうと思っていたが、当時の担任に「外大に行くのに英語科はもったいない」と言われた。確かに、英語はどこでも学べるし、と思ったのでほかの言語を考えたところ、ちょうどその時世界史でやっていたイタリア統一(リソルジメント)にすごく引き付けられたのでイタリア語にすることにした。世界史は全般的に好きだったけど、たまたまそのタイミングで取り扱っていたイタリア統一の流れにすごく惹かれたのを覚えている。ガリバルディやカヴール、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世など、その当時の歴史の登場人物にすごくワクワクしたのだった。

留学先にトリノを選んだ理由

その後は1浪の末に無事に外大イタリア語専攻に入学。入学時はまだ留学するかどうかは決めていなかった。なにより家庭の金銭的な余裕のなさからそもそも留学自体無理なのではないかとも思っていた。だけど、学年の半分以上が留学すると言われている大学だ。友達も留学するという人が多く、すでに留学を終えた先輩方の話を聞くにつけ、次第にやっぱり留学に行きたいという思いは強くなっていった。

外大の人なら当たり前に知っていることだけど、外大には「派遣留学」という制度がある。要はほかの大学でいう「交換留学」のことで、お互いの学生を交換し合い、大学間の交流を活発化させるものだ。外大の場合、留学しても留学先の大学ではなく、外大に学費を納める。なので海外の大学の高い学費を払う必要がなく、国立大学の学費(と現地での生活費)だけで留学することができるのだ。これが一番お金を安く抑えられると思った僕は、派遣留学をめざすことにした(ちなみに、イタリアの場合は私費留学でもあまりトータルの金額は変わらないということを後で知った。だけど私費留学は外大を休学しなければならず、休学中は日本の奨学金を受給できないので、休学にならない派遣留学を選んで結果オーライだったのだけど)。

派遣留学できる協定校の数は専攻語によって異なる。当時のイタリア語専攻の場合、ローマ、ヴェネツィア、トリノ、ナポリの4校(今はボローニャにも協定校があるらしい)。それぞれの定員は、ローマが3人、ほかの3校は2人ずつだった。僕は迷うことなくトリノを選んだ。理由は①前述したようにイタリア語を学ぶきっかけになったリソルジメントの中心がサルデーニャ王国で、その中核都市がトリノだったから、②ほかの都市に比べると観光地ではないため日本人が少なく、強制的にイタリア語を使わざるを得ない環境に身を置けると思ったから。この2つのほかに、打算的な理由として、成績下位の僕が派遣留学の枠を勝ち取るためには、ローマやヴェネツィアのような人気都市では勝ち目がないからということもあったし、ナポリは治安面で不安があった(基本的に派遣留学は希望者が多い場合、成績上位の人が選ばれる)。目論見は的中し、トリノを希望したのは自分を含めぴったり2人。派遣留学でトリノに行けることが無事に決まった。2年生の秋のことだった。

留学直前は準備でかなり忙しい

留学の準備が本格化するのは3年生の6月頃からだった。もう7年前のことなので詳細はほとんど覚えていないが、ビザの手続きがめちゃくちゃ面倒だった気がする。外務省に2回くらい行ってアポスティーユを取得したり、警視庁で無犯罪証明書を取得したり、かなり手間のかかるものだった…。とくに警視庁は別に悪いことをしたわけではないのに入るのに変に緊張してしまった。ほかにも日本での成績の翻訳や、150万以上の預金が入った通帳のコピーやらが必要で、かなり難儀だった記憶がある。しかもビザが下りるのがギリギリで、本当にもらえるのか最後まで不安だった。

ビザの手続きと並行して、借りていたアパートの解約や、家具を置いておくトランクルームの手続き(福岡の実家に大量の荷物を送るよりトランクルームを1年借りる方が安かった)、航空券や保険の手配などをしつつ、留学直前まで資金を稼ごうと塾のバイトの夏期講習を入れまくっていたので相当忙しかった。

そんなこんなで無事にビザを取得し、3年時の9月末にようやく日本を出発。約1年間の留学生活が始まった。家は僕の前に留学していた先輩が住まわせてもらっていたところにホームステイすることになった。ホームステイ先の家族の話は次回以降の以降で詳しく書きます。留学生活の話をしようと思っていたのに、その前の話で1記事書いてしまったけど、次回はようやくトリノでの生活の話に入る予定。

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