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死ぬことに楽しみを感じるようになった

「死にたい」
「自分は生きる価値がない」
「生きることに疲れた」

なんらかの失敗や居場所がないことがきっかけでそう思う人はいるかもしれない。
”今が幸せ”という人もそう思ったことがあるかもしれない。


無論私も死にたいと思ったことがある一人。

特に大きな失敗をした訳ではない。
自分に価値がないと思ったことはほとんどない。

それでも死にたいと思ったきっかけはいくつかある。
・持病の癲癇が嫌になった中学生の時
・父親を高校生の時に亡くした時
・投資で失敗した時

今年はパートナーもできたけれども同時に投資でもうまくいかずに死にたいとも思った。パートナーがいたのに。心配してくれる友達や親もいる。

今年はなんというか、死ぬ怖さがない。
いざその時になったら怖気づいてしまうのかもしれない。
でも、なぜか「どんな死が一番楽しいかな」と考えるようになってる。

今が楽しいか、幸せかと自問自答しても否、全く楽しくない。
幸せなことだと思うこともあるけど足りない。
すぐに将来の不安でかき消されてしまう。

わかって欲しい、助けてほしいとも思わなくなった。

不思議な気分だ。
今これを読んでいる人は思考停止状態にあるのを自覚していて、やはりどこかで助けを求めているはず。

どんな生き方をするかよりも、どんな死に方が良いかと思う。
綺麗事をいえば、死後の輪廻転生が楽しみだといったところか。

”死ぬために活きている”と考えが変わっているのかもしれない。

死ぬことを前提に生きるとそれすらワクワクしてくる。
たった一度だけの経験なんだから。

お金に困っていなくても、良縁に恵まれていたとしても、考えは変わらないか決断が延びるだけだとすら思っている。

こんな住みにくい世界にいて何が楽しいか?
私が疑問に思っているのは社会が常識が国が制度が会社が…
そんなことではなく、人間として長生きする必要があるのか?
もし仏教に従うなら人間という肉体を与えられ、魂の修行鍛練として生を全うすること。そんな風にも考えることができる。

本当に魂の修行鍛練をするなら花のように儚い命を何度も経験すれば魂は効率よく成長するんじゃないかということだ。

一つの事に集中し極めるのもいいが、物質として、無機質として、生命体として、色々と体験できるのであれば数が多い方が良い。

恐らく人間である以上、自殺をすると言えば冗談半ば人は大抵阻止するであろう。

それは本当に正しいのか?

死ぬことは非人道的だと思う人が多いかもしれない。
いつかその時が来るとはいえど、そんなものを待っていたらそれこそ生き疲れてしまうと思う。

人が生きたことに満足していればそれは人生謳歌しているといってもいいのではないか。100年生きることは人生老化しにいくようなイメージだ。

人は良くも悪くも”欲”が存在するからこそ生き甲斐がある。
しかし、時代を遡ってもお金で解決できることが多すぎる。
むしろアダムとなんたらと最初の人間の時代から争いは絶えない。今風に言えばテロ・戦争・デモクラシー・人間関係や政治…とまあその辺は置いておいて、人生100年時代と言われはじめたこの平成・令和の時代。

”お金がすべてじゃない”という名言に疑問が浮かぶ。
確かにそうだと頷きたいが、ではなぜ人はお金に執着するのか。
お金の数で満足を可視化しやすいからではないだろうか。
絆だったり愛情・慕情・人情・友情、見えないもので満足を得ることが当たり前になってしまったのだろうか。欲深さとは実に奥深いものだ。

お金のために数十年も体力・精神力を費やしながら、人生100年のうちほんの一握りだけしか幸せは訪れない。

お金が主たるツールになってしまった以上、家族の為・自分の為・誰かの為…お金が無くても幸せになれるツールを持たなくなってしまっているのではないか。

無論私自身も以下のように思う。
「一緒に苦難を乗り越えれば必ず幸せになれる」
「応援や心配をしてくれていることは幸せだ」
「生まれてきてくれてよかった」
「生きているだけで幸せだ」

果たして本当にそうだろうか?
100年も生きなければ経験できないことがあるのか?
死んでしまえば今までの経験がなくなるのか?
生きるのに精一杯すぎるのではないだろうか?

自分には価値がないと思うのは勝手だが、
生きる価値があるのなら死ぬ価値があるはずだ。
父親を亡くしてなければ今とは違う道を歩んでいたはずだし、
もし生きていれば私はやりたいことなんて見つけられなかったとも感じる。
不謹慎だが、早すぎたけれども亡くして良かったとも思っている。


もし死と向き合うことがあるのなら、死ぬことで価値を見出せることを探してみるといい。
自分のためでなくてもいい。


生きていて価値が見いだせないのならば、新しい選択肢として考えてみてはいかがだろう。

ただし、死ぬ勇気のない人間は未練を遺すな。
死にたい理由は何でもいい。
自殺したっていい。
殺される前に考えてほしい。

人生に満足したらいつか私も自殺するかもしれない。

今に満足していないのは未来があるからだ。
期待できることがあるからだ。
叶えたい夢があるからだ。
幸せがあるからだ
欲があるからだ。

今を大事にすることができないならもっと先を読むんだ。
未来を託す側に立っているんだ。
今を生きる人間に何を言われようと、
自分自身が見つけた、そこに生きる意味があるなら死んででもやり遂げろ。


失敗してへこたれたら諦めればいい。
いつかまたチャレンジする時が見つかるから。
諦めることだって大事なんだ。
諦めなければ新しいことに目を向けられないことだってあるだろう?
失敗から学べばそれは失敗ではない。

最後に何が言いたいかまとめよう。
自殺の後押しが欲しくてこれを読んでいる人も多いと思う。
しかしこれを読んでいる時点でもう死んでいるのではないんじゃないかな…
生身を”物理的”と例えるならまだ生きている。しかし”精神的”には死んでいると思う。物理的に死ぬのは簡単だ。「だからゆっくり休んで自分を変えていこう」みたいなことは誰かが既に言っているはず。

いや、どんなに休んだって生活の面倒を誰かに少しでもみてくれる時点でうっくり休めているとは思えない。お金のことで頭がいっぱいになったりね。なにかしらの”後押し”がほしいよね。

私から後押しできるのは、物理的に死ぬ前に、精神的に生きることだけは失敗しても這い上がらなくちゃ。具体的には身内は勿論、他人忘れられない人になること。あるいは物理的に死んでからやりたいこと。

それこそ都市伝説のような話になってくるが、そういう考え方をもっていったら楽しくなりませんか?記憶のデータ化・意識だけの世界・霊的にできること…等々

生身の人間で幸せ、楽しみを作れないのなら前向きにそう考えてみたらどうだろう?夢の中で生きることでいつか現実になるから。

だけど、過去を忘れないことだよ…



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