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障害者の手応えがない才能

現在わたしは、占星術を勉強していて、時々、その人の才能について
セッションをするのですが
その人の天才的な能力を伝える時、反応が薄かったりして難しくあります。
何故かというと、その人にとっては「あたりまえ」の機能であり
努力して手に入れるってより、自然に発揮できてしまう能力なので、
本人にとって特別感はなく、他の人も自分と同じにようにできて当たり前のことだと思っていることが多いからです。
「あたりまえ(天才)」を「長けてる」と伝えるのは、その人にとって手応えがない、気づいてないことが殆どです。

障害者になって十数年。
障害を持ってから、自分を取り巻く社会が変わりました。
働いても続かず、肩書もなく「ただ居るだけ」という状況が多くなりました。

わたしは生きてる意味って、なんだろう。って絶望的に考え込む時期がありました。
他人に聞くと「そんなの誰にもわからない、わかったら苦労しない」なんて、言われたりしました。

みんなは、会社で働いてたりして、社会の役に立っているというのに
なにもしてない自分は生きてていいのか。と自分を責めたり。
誰かの役に立ちたいけど、そんな体力と気力はなかなか続かない。

障害者なんてなりたくてなったわけじゃないのに

「ただ居るだけ」のわたしになんの価値があるのだろうか

生きる為にはお金が必要で
働けないのに、なぜ死んではならないのか。
生きていけないのに死んではいけない矛盾がわたしを苦しめました。

そんなわたしに、家族は、すこしづつ
医師の説明を聞きながら、理解しようと優しくなってきてくれました。

発病前は大嫌いだった、ご飯の時間も
少し冗談交えながら笑って食べられるようになりました。

母はいつも眉間に縦シワが常にある人だったのですが、
ある日いつの間にか眉間のシワが取れていることに気づきました。

まるで、不仲な家庭が、わたしが発病したことによって協力をはじめました。
関わる機関や友人も優しくなってくれました。
わたしと同じような人が現れても多様性を認め合う社会が生まれようとしてました。
「このために病気になったんだね」と、どこかからか言われてるような感覚でした。

そこで、わたしは、平穏に変わりつつある環境に対して
「わたしは、みんなの為に病気になったんじゃない。悔しい」と思いました。

なぜ悔しいかというと、自分には直接なんのメリットが無いと感じたからです。
できれば、障害者という弱い立場の側面じゃなくて
社会人のように、働いてお金をもらうのが
わたしにとって人の役に立つの正解だったからです。

でも、わたしの不調がこの小さな規模の社会の多様性を生み出したように
わたしは自分の気づいてないところで大きな影響を与えてることに
わたしは全然気づいてないし、改めて言われて励まされても、よくわからなかったです。

「あたりまえ(天才)」を「長けてる」と伝えるのは、その人にとって手応えがない、気づいてないことが殆どです。

そこから、年月が経ち。

自分が人の星を読み解き、改めて才能を説明するときの「?」みたいな反応と、
わたしがずっと抱えていた。
「ただ居るだけで人に役に立っている」という説明をされた時の感覚が似ているように感じました。

あたりまえだから、わたしは大したことしてないから、手応えがないから

天才的(おこがましいですが)ってことに、気づいてないだけで
実は人の眉間シワを消したり考え方を改めさせたり。
無意識に働いていることに、自分が弱いという才能が強い役割ということに
なかなか、認めたくないでいたわたしが、占星術のセッションで、ふと気付かされました。

きっと、どこかで、わたしと同じように、なんにもしてない自分なのにと、
自分の病気を理不尽に感じたり、責めたりしてる方が居たら伝えたいな。と思い書きました。

わたしの書いてることは、伝わらないかもしれません。
でも、どこかの記憶に引っかかってもらえたら嬉しいです。

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