パラレルエッグ+で「ぜろになった」話

 ──あ、ペンライト。

 ライブハウス内のあちこちでピカピカと切り替わる色が、三年前と比べてファン層が拡張されたことを象徴しているようでした。
 2023年、ピノキオピーワンマンライブ『パラレルエッグ+ in LIQUIDROOM』。そう、有観客のピノキオピーワンマンライブを観に行くのは2019年『五臓六腑』以来実に三年以上ぶり。この日の主役であるピノキオピーさんは、そのコロナ禍中にリスナーを多く増やしたアーティストの一人です。

 開演前。目の前の人も両手にペンライトを握っています。氏がテーマソング『愛されなくても君がいる』を書き下ろしたマジカルミライ2020の、初音ミクが描かれたペンライト。これは以前のライブでは見られなかった光景です。
 というのもこのピノキオピーというアーティスト、一般的には人気ボカロPと呼ばれる肩書きでありながら、"ボカロに対して強い熱量を持っている層"と"ピノキオピーに対して強い熱量を持っている層"があまり一致していないという稀有な存在だったのです。2019年までは。
 ピノキオピーさんのルーツは電気グルーヴや筋肉少女帯だと聞きます。ライブハウスでライブをするボカロPというのも、彼がライブ活動を開始した2014,5年あたりではかなり異質でした。もちろんそこには初音ミクが持つアイドル的文脈としてのペンライトは無く(マジカルミライにも行っていた人ももちろん中には居ただろうし、私自身ボカロが大好きでしたが)、「このライブはそっちじゃないぞ」という、誰が言ったわけでもない共通認識のようなものがある空間。そんなちょっとズレた人々が集まる空間、こういう人たちがピノさんの歌詞にハマるんだよなあと、謎の一体感と意味不明な誇りを感じていた。それがこれまでの私でした。

 さて2023年の私。開演前、目の前にペンライトを持つ人。前置きの懐古とは反面、特段悪い気はしません。本人がどう思っているかは知る由もありませんが、ピノキオピーさんやそのファンって元々「ごちゃまぜを楽しもう」みたいなスタンスだと思うので。それと普通に綺麗ですし。
 しかしながら心の奥でじわじわと、不安めいた感情がひとつ。私はピノキオピーさんの歌が大好きで、きっとこのペンライトの人もそうなのでしょう。しかし──

 ──この人が感じ取っている"好き"と、私が感じ取っている"好き"には何か大きな乖離があるのではないか?

 分かってはいるのです。そんなことは当たり前で、それは今までのライブで一緒だった人たちもそうであると。

 これは私が持っている根源的な不安の話。実はクオリアというものは人それぞれで、本当は見えている色も聞こえている音も違うかもしれないのに、同じものを「良かったね」と笑う瞬間。そんな錯覚が私には時々どうしようもなく怖いものに思えてしまうことがあるのです。
 決定的に自身と違う文化を持つ人々が同じ空間を愛している状況を、ペンライトが媒介して目に映って。いつのまにか辺りは別の感情で満たされていて、本当は自分の言葉が誰にも通じなくなっている可能性。誰かの感情にあてられて、自分の感情の核がわからなくなってしまう可能性。そんな誇大な妄想がこの不安の正体であるなあなどと、一時間ほど何もせず一人で立っているとそんな思考も浮かんだり消えたりといったところでした。

 まあしかしライブが始まるとそんなモヤはかき消えてしまうものでして。ライブとは、音楽とはそんな魔法でもあります。
 『セカイはまだ始まってすらいない』で幕を開ける意味を噛み締めたり、『頓珍漢の宴』が流れた瞬間の会場の沸き立ちにニヤニヤしたり、『ヨヅリナ』の演出に浸ったり、『おばけのウケねらい』のフリはやっぱり楽しかったり、なぜか『じゅごん』でもピノさんがおばけのフリを引きずってて笑ったり、声出しNGな他のアーティストのライブにはそれなりに行っていてもこんなに発声できないことがもどかしいものはなかったと未来に夢を見たり。書ききれない魅力の詰まったライブでした。
 そして、ライブ後半『ぜろ』演奏時。私の目の前で両手を、いや全身のエネルギーを使いペンライトを掲げていたその人の片手が止まったことに気がつきました。タオルで顔を押さえ、後ろからでも分かるほどにぼろぼろに泣き崩れていたのです。

 いつかのライブでの私と同じように。

 泣ける曲、として一般的なものは冠婚葬祭に関わる歌や頑張る人への応援歌、物語仕立ての曲、それか壮大なバラードではないでしょうか。ピノキオピー楽曲で言うなら『eight hundred』『きみも悪い人でよかった』など。これらもストレートではありませんが。
 『ぜろ』はそのどれにも当てはまらない楽曲で、ざっくり言うと「"○○な人"というあらゆる分類・レッテルを取り去って"個"と"個"として君と向きあいたい」という歌。
 この人に聞こえている『ぜろ』は私とは違うのかもしれない。それでも、万人に通じるわけではない音楽に、かつて私が救われた音楽に、この人はきっと同じように救われている。
 もちろん、「泣く=>救われる」「救われる=>泣く」はどちらも真ではありません。しかし深いことを考える以前に私の目に映ったその光景は、あまりにも、あまりにも美しかったのです。それはもう、先ほどの不安が今後一生吹き飛んでしまいそうと思えるほどに。

 そんな"ペンライトの人"というなんとも雑な分類で勝手に怯えていた私が、「ぜろになった」瞬間の話でした。

 ピノキオピーさん、素敵な楽曲とライブをありがとうございます。次のライブが楽しみです。

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