催涙弾が着弾した日
3月1日(月)
皆さんこんにちは。
昨日、そしてこれまでミャンマーで犠牲になられた多数の方に哀悼の意を表します。
亡くなられた方々の想いを自分なりに受け止めて進んでいきたいと思っています。
もしかすると昨日の晩と今日の朝の定点動画が無くて変だなぁと思った人がいるかもなので、説明させていだきます。
2月1日から毎日朝の定点動画はTwitterに
夜の定点動画はYouTubeに出していました。
昨日2月28日午前11時頃。
この日はいつもと違い、シンガポール大使館へのデモ集会が私の家の下で行われていました。
治安部隊と称する警官の格好をした武装勢力はいつもの場所より更に前まで出て来ていたためです。
デモはいつも通り平和的に行われていました。
この動画を録画した50分程後に、突然銃声がしました。
これまで動画で観たことはありました。
現実に近くでも起こりうることだとは考えてはいたのですが、さすがに動揺しました。
十数発でしょうか、かなりの数撃ち込まれたようです。
危険だとはわかっていたのですが、ほぼ反射的に窓に向ってその様子を観てしまっていました。
時間にして一分も無かったと思います、さすがに向こうからもこちらが観える位置ではあるので、身を隠しました。
あまりの出来事にパニックになりかけたのですが、何とか冷静を取り戻そうとしていた時、さらに数発、銃声がしました。
次の瞬間、隣の部屋から窓ガラスの割れる音がし、まもなく「シュー」というゲームで聞いた事があるような音が聞こえます。
瞬間、催涙弾だと判断しました。
外に逃げる事は出来ません。
何故ならリビングの窓から撃ち込まれたその弾はまさに玄関の前に着弾してガスを出していたのです。
鍵を開けて外に避難するまでに相当のダメージを負ってしまう。
そもそも外は武装部隊が展開しているので危険。
私は反対側のキッチンに向って走りすぐにドアを閉めました。
急激に目鼻に痛みが走り、吐き気が襲ってきます。
一瞬キッチンの流しで吐くような形になりましたが、密閉度が低い作りなのでキッチンにまで煙が入ってきたのを感じて、更に奥の風呂場まで向かいそこのドアを閉めて座り込みました。
ここまで来ても完璧に煙の被害は免れません。
ですが、身を低くしていれば何とかダメージを抜く程度には呼吸は出来そうでした。
寝室で窓が割れる音を感じてここまで1分も無かったと思います。
家の周りでは銃声、人の怒号、人々が逃げ回る様子など、今正に信じられないような事が外で起こっているのが聞こえてきます。
私はパニックになりそうなのを何とか抑え込み、今置かれている状況、そして次にするべきことを考えました。
そもそもこの攻撃はたまたまなのか、私を狙ったのか?
私の家は5階。
この建物は8階建の集合住宅、窓から覗いていたのは私だけでは無かったでしょう。
武装勢力の一番の目的はデモ隊を散らす事のはず、実弾ではなく催涙弾であるのなら尚更家に、しかも5階に打ち込む必要性があるのか?
最悪なシナリオは私の家をピンポイントで狙ったという場合。
その場合は間違いなく突入してくることが考えられる。
今は何故そんなことを?と考えるのではなく、もしそうだとしたらという前提で次の行動をしなければいけないと思いました。
まだ眩暈はするし、顔と手が痺れています。
足の先にも若干痺れはあるが、呼吸は少しマシになっていました。
一度シャワーで顔を洗い、口をゆすいで私はもう一度寝室に向いました。
家の中でまともな恰好をしていなかったので、衣服とスマホを取りに行くためです。
まだ催涙弾のガスは出ているのか、リビングに入った瞬間気持ち悪くなります。
素早くズボンとスマホを取って再びキッチンに戻ります。
やはり強力な吐き気に襲われながら奥の風呂場に入り、ドアを閉めて身を低くしました。
外では散らされたデモ隊が再び集まり声を上げています。
さっきより声が強くなっているのが感じられました。
そこから遥かに離れた安全な場所で隠れている私がこんなに恐怖で押しつぶされそうな中、真正面から武装勢力と対峙している彼らが再び集まり声を上げている事に驚愕しました。
ただただ祈る時間でした。
時間にすれば数分でしょうか。
まだ息苦しさはありますが、ここからしかるべきところに連絡をしました。
特に大使館の方には医務官の方を始め、各担当の方から何度も連絡をいただき感謝しています。
極限状態の中落ち着いた職員の方の言葉は非常にありがたかったです。
今日あらためて連絡をいただき、今回、ミャンマーにおいて邦人宅に催涙弾が撃ち込まれた事は正式に本国に報告をしましたという事を聞きました。
こんな経験をしたので、少しでもこれが大きな動きに繋がればとは思いましたが、所詮私が受けたダメージなどなんの意味もないという事もわかっています。
自分の無力さに情けなくなりますが、それでもせめて何かがここから伝わればと思い、こうして文章に残しています。
今日もどこかでミャンマーの人々は戦っています。
無抵抗の人間に簡単に武器を向ける治安部隊の姿をした武装勢力との戦いです。
「何故こんな事が」と未だ、6年半ミャンマーに住んでいる私ですら全容は理解できていません。
ただ、この国のシステムにとんでもない悪が入り込んでいるのはもう疑いようがありません。
ミャンマーの憲法は、少なくとも日本の常識からすれば憲法ではありません。
私も今一度勉強しなおさないといけないと反省しています。
とはいえ憲法でしょ?
という考えは是非捨ててください。
あくまで軍がそう言っているだけの憲法で、その不正だらけの憲法ですら平気でひっくり返す行為がこの何十年、何度もも行われてきたことなのです。
ミャンマーという素晴らしい多様性を持った国がその器の広さからそれを成り立たせてしまった事が悲劇なのかもしれません。
その隙を最大限利用して成り上がったのが今軍なのです。
こんな知識のない私が言わなくとも、ミャンマーを研究している学者の方々が言ってたことでした。
私たちはそれをもっと心で感じるべきだと思っています。
ミャンマーという国に住み、6年半の月日をこの地の人々共に過ごしていた自負はあったのですが、所詮民政移管が決まった2011年以降の事でした。
その少し前には2007年の悲劇があり、私が10歳だった1988年にも信じられないような悲惨な出来事が軍により起こされていたのです。
ミャンマーの方が感情で、その激情で命をかけて戦う理由には充分だということを私はもっと早くに知るべきでした。
自戒と反省を込めてこの何日間はそれでも何かを伝えたいと僕なりの表現活動を続けています。
今後も1人のエンターテイナーとして、やれることは全てやっていきたいと思います。
どうかお付き合いください。
今日はクーデタ―から一ヶ月経った総括的にお話をさせていただきました。
日々状況は変わっていきます。
明日は今日より良い日になっている事を願っています。
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2021年8月20日(金)
2月1日、信じられないような出来事、ミャンマークーデターが起こってから200日が過ぎようとしています。
自宅に催涙弾が撃ち込まれるという衝撃的な事件からも半年が過ぎようとしています。
今でもこの記事は少しずつではありますが、ミャンマーに関心のある方々に読まれ続けているようです。
この節目の日に当時の事を改めて振り返り、今のミャンマーの事をより深く理解していただく為、以前書いたものに加筆する事にしました。
本題を有料記事にするのは多分にセンシティブな内容、表現が入るからです。
現在もミャンマーにいる私としては誰もが簡単に読めるということではリスクも高くなってしまうかもしれません。
その辺りを理解していただいた上覚悟を持って読んでいただけたらと思っています。
ある意味、ここまで読んでいただいた上で興味を持っていただけるのであればそれはどんな動機から来る興味でも構わないとは思います。
世界で起こっている紛争や、ミャンマーで起こっているもっと酷い事件は沢山あります、私の事件などはそれに比べたら本当に大した事はありません。
何より私はこうして今日も五体満足で生きている訳ですから。
そのような取るに足らない事件でもこれだけの衝撃が一人の人間にはあったという事が少しでも伝われば幸いだと思っています。
これまでミャンマーで起こった悲劇はここから書く内容の何倍も何十倍も凄惨で酷い出来事です。
安全な日本という国から来た一個人に起こった取るに足らない事件を身近に感じていただく事でその事を想像していただければと願っています。
ご支援いただいたものは私のミャンマーに関する様々な活動に使わせていただきます。
※有料記事の内容をいつまで出しておくかは未定です。
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