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無機質

「彼に日本の未来を託してください」
外がうるさいと思ったらまた選挙が始まったのか。
6畳一間クーラーもつけず、怠惰な夏の音と一緒におそらく助手席に座ってる人の機械音が入ってきている。
選挙したって俺らの生活は何も変わらないのに一体なんのための選挙なんだろうか。


現実に絶望しているわけではない、選挙は毎回投票する。
選挙に行かないことは、とてつもなく悪いことのようが気がして、その罪悪感から逃げるように投票へ向かう。
考えてみればネガティブな感情から起こす行動の連続が僕の人生だった。

まだ小さかった頃、いじめから逃げるように中学受験をして住んでた地域とはほど遠い中学校に入学した。

何か部活に入らないといけない決まりだったので、廃部寸前のため「何もしなくていいから!」の人集めしていた将棋部に籍だけおいた。将棋の駒は一つも覚えずに三年間将棋部にいたことになっている。継続は力なり(笑)


中学校の頃はテキトーに勉強してテキトーにしていれば、成績は平均よりちょっとうえくらいにいたので、特に怒られることも褒められることもなく生活していた。うん、あれは何物でもない生活だった。ハリも何もない、怠惰な生活。

趣味という趣味を持ってはいなかったが、帰宅してからはずっと2chを見ていたらすぐ夜になった。本当に何がしたい頃だったんだろうか。ROMってるだけで一年間が終わっていた。

家には19時くらいに父が帰ってくるので、それまでに食卓に母がつくった料理が並ぶ。
兄は幼稚園から続けているサッカーの部活があるので、帰ってくるのは20時くらいだ。
3人で囲む食卓の中でも何の会話もない。両親も僕のことに触れないし、むしろ何も期待してくれなくて結構って感じだった。

そんな無味無臭な3年間が終わり、そのままエスカレーター式に高校は進んだ。

進路について聞かれたりする機会が多くなって本当に息苦しくなって吐き出したくなって「担任が進路についてしつこいんだけどどうにかしてくれ」というスレッドを2chに初めて立てた。
ついたコメントは2個。「しらねぇ」「勝手にしろ」。


中学生のころ入り浸った空間は、ただの虚無だった。何も言わず許容してくれていると感じていたコミュニティーから首ねっこ掴んでひきづり下ろされた感覚に陥った。
さすがに応えたので、パソコンを本当の意味でソッ閉じした。


それからも人生は続く。進路指導の時間が本当に億劫だった。


何かになりたい。何かをしたい。という体の内側から出てくるような欲求みたいなものが何もなかった。無機質な人生をこれまで送ってきて、これからもずっとそれが続くものだと信じて疑わなかった。

3年生になった。周りは続々と推薦入試の準備をしている。

校外学習が一番近い国立大学だった。「大学生」という得体の知れない人間たちを見て、1歳しか歳は変わらないのに、何か変な気持ち悪さを感じた。その時自分は大学生にはなれないなと思ったが、あの感情は何だったんだろうか。

夏休みになった。兄がU-19の日本代表選考に残った。

何かを継続できる人はすごいと思ったけど、本当にありがたかった。両親をはじめとした家族は俺のことを家具かなんかだと思ってるくらい無関心だった。気を遣われず、月日が経つにつれて徐々に空気になっていく気分は、むしろありがたかった。

選考キャンプから帰ってきた兄は勝ち誇った顔をしながら、日本代表になれたことを宣言して、家族はわいていた。両親は俺が大学試験の年なことを覚えてすらないだろう。

サッカーは全く興味がなかったが、家族全員で東京へ兄のベンチ姿を見に行った。
結果初戦は出場の機会がなかった。「ベンチでもすごいことよ」と強制納得させようと母は呪文のように唱えていた。

冬になった。また兄の代表試合を見に家族総出で行った。

またベンチ姿だけ見に。。と思ったが、まぁ誇らしい兄だとまでは思わなかったが、ちょっと気分はよかった。
後半残り10分。兄は足を捻った選手と交代して、試合に出た。ボールに触った回数は5,6回くらいだったと記憶している。

試合後、家族が会える時間を作ってもらえた。兄は家族を見るやいなや頭を下げて「育ててきてくれてありがとう」なんて言っちゃって両親を泣かせていた。

俺はずっと傍観者だった。
傍観者というより、何もない、無機質な物体。
傍観者にすらなれていなかったとも思えてきた。

高校を卒業し、無職になった。

子供の頃は簡単だった。

なんの努力もせずに、「中学生」「高校生」でいられた。でも無機質な人生を送っているのが無職になるのは当たり前で、でもちょっと皮肉もあって面白かった。

両親は東京のサッカー球団にスカウトされ入った兄のことで頭がいっぱいだった。スタメンではないけどそれなりに活躍してるらしい。家の中に赤い兄のグッズが増え続けている。

それから3年が経った。俺は今東京にいる。

地元で20歳を迎え、国が決めた制度の中で俺は大人になった。

大人になったからどうこうとか全く考えていなかったけど、大人になったという外界からのプレッシャーを自分で作ってしまい怖くなって、働かなきゃと思った。

両親の関心はずっと兄にしか向いていない。

東京で働くと伝えた時も、元気でねと色々な初期費用をちょっと多めにくれた。見ようによっては手切金のような、でも本当に手切金みたいに感じていたかもしれない。

最初に住んだのは西日暮里と北千住の間にある町屋という駅を選んだ。すぐそこの川を渡れば足立区だった。片田舎民が持っているイメージとして、安そうだったから。俺らしいと思った。

働き口はすぐに決まった。

北千住マルイのフードコートのアルバイトだ。
正社員のように働ける気がしなかった。だからと言って高卒の俺が大卒だらけの派遣社員をつとめれるとも思わなかった。


アルバイトにもなれるかわからなかったけど、受けたら一発で受かった。
中学受験以来、久しぶりに認められた気がした。自転車通勤ができるようにドンキで自転車を買った。

自宅は6畳一間、トイレと風呂は別がいいという思いだけ叶えてくれた初めての自分の城だった。アルバイト代から全部引いて、毎月1万円くらい貯金しながら生活した。ほとんど外で遊ばず、自転車で荒川を走るのが気持ちよくて好きだった。

そんな無機質な生活が2年くらい続いてたある日、久しぶりに携帯がなった。

兄だった。

家族から電話が来たのは久しぶりすぎて、ぎこちなく喋ると、オフの日にお酒でも飲みに行こうという誘いだった。意外だったが、アルバイトとはいえ働いている俺を見てもらいたいという気持ちもちょっとだけあって、「行く」と返事した。

選ばれたのは上野の大衆居酒屋だった。

兄は神泉に住んでいるらしく、基本タクシー移動だからどこでも良いと言われ、まぁ町屋から行きやすいところにしてくれた。

何の話をするのか全く考えてなかったけど、兄は運ばれてきたビールを見て一言だけ、「仕事、楽しい?」と聞いてきた。

楽しいという感覚は全くなく、ただ働く作業をしている感覚だった。ビールの泡が少なくなった。俺は何もいえず、兄も気まずそうにしてたので、「まぁ」とボソッと言った。

「ならよかった、乾杯」


久しぶりに飲んだお酒をあまり覚えていないが、兄のファンが居酒屋にいて、女の子5,6人からサインとかを頼まれている様子だけはかなり鮮明に覚えている。
兄は特に自分のことを喋らず、これまでの俺のことばっか聞いてきた。

何がしたかったのかわからなかったが、終電ギリギリの帰り道、兄がふと「俺、結婚するから、式にはきてくれよな、また連絡する」とタクシーに乗ってそそくさと帰って行った。


自転車を押しながら帰る道で、ずっと考えていた。
兄は何が伝えたかったんだろうか。

小さい頃から特に親密でも仲が悪いわけでもなかった。
もっと自分が今輝かしいステージの上にいることをすこしでも伝えてくるのかと思っていたが違ったな。結婚するのか、多分めでたいんだろう。

仕事が楽しいか楽しくないかなんてこの世に存在することも初めて知った。
仕事を通して自己実現も考えたことがなかった。


兄はサッカーが楽しいんだろうな、だから人にもそう聞けるんだろう。


また昔大学生を見て気持ち悪い感覚に近いものを感じてしまった。

ふと、ある種の通過儀礼を通っているのかと理解した。


大学生は受験でメンタルを痛めたのだろうか。色々な不合格や志望校変更とかを経験しているんだろう。

兄だってサッカーを継続して突き詰めて、色々な辛いことを乗り越えてきたはずだ。見たことないけど。


そうだ、俺は何かにぶち当たらないように、危険を察知して、ネガティブなものから逃げてきた。
唐突に枯れた笑いが出た。上野から歩いてまだ三河島くらいだった。

あれからどうやって帰ったか覚えていない。


翌朝、蝉に起こされた。雑に着たタンクトップを見て、帰宅した後シャワーを浴びていたことはわかる。

怠惰な休日が始まった。

選挙カーの機械音が聞こえる。


昨日の感情を思い出すまでちょっと時間がかかった。


昔使っていたPCを引っ張り出した。


俺にはなんの能力もないけど何がしたいか考えてみようかな。

 


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