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洗濯機

グォーーーーーーーン。洗濯機の音だけが支配する怠惰な1Kの僕の城。「その日」はThe dayではなくA day。どこにでもあるいつにでもあるただの日だった。アレクサに聞いても向こう1週間雨予報。それでも取るに足らない日常は送らないといけないし、今回している洗濯物はまた部屋干ししないといけなかった。

 

趣味はNetflix。何気ない日常から始まる日本映画よりも、序盤からデカいアクションで視聴者を惹きつける韓国映画の方が好きだった。僕にとって非日常だったし。日常といば、今日の昼ご飯はどん兵衛でした。きつねの。朝起きたらシャワーを浴びます。

 

タバコ臭いと思われるのが嫌いだったので朝2本吸ってからシャワーを浴びます。着たくもないスーツを着て、歩くのが早い僕でも10分はかかる最寄駅に向かいます。住んでいるのは蔵前です。都営大江戸線です。六本木に買い物行く時、日本一深い駅と聞いて気づきました。

 

確かに大江戸の冠を背負っている東京の線路にしては潜ることが多かったです。新宿駅もまぁまぁ地下深いです。そんな地下を漂わせる蔵前から徒歩15分の1Kに引っ越したのは大学入学の春、18の時でした。第一志望は早稲田法。結果は不合格。センター利用もダメでした。

 

法政大学法学部に進学が決まりました。市ヶ谷にキャンパスがあります。飯田橋で下車します。徒歩11分。浪人してMARCHは、人生の終着地といった感じで、それはそれは惨めなものだと思っていました。学歴コンプレックスという肩書きを持ったただの人間に、友達というものはできませんでした。

 

地元は大分県にあります。そうです、温泉の有名なあの盆地です。毎日が観光客との出会いで、学校の先生は勉強よりも「通学路にはいろんな人がいるけど元気に挨拶することが湯布院のブランドをあげることになります!」と教えるのに躍起になってました。

 

父親は毎朝別府まで車を走らせる銀行員でした。ソトマワリがどれくらい大変なのかを知ったのは最近です。毎日ソトマワリの大変さを母に話していました。母親は観光客向けに作った湯布院観光協会がお送りするハンドメイド展示会みたいなのに出品するため、毎日作業をしていました。

 

教育方針は特になく、僕も何も想像することなく、ただ目の前のテストに一所懸命で、それなりに人生を送ってました。唯一、高校の時にバスケ部で友達ができました。スラムダンクを読んでいるだけの、県大会ではよくて3回戦止まりでした。

ある日、この日のことはよく覚えていますが、母が作る作品という名の売り物が、地元のテレビで取り上げられました。観光客のSNSでの取り上げられ方がバズったらしいです。世界を変えた感染症予防のマスクにつけた可愛らしいワンポイント。

 

諦めの中の一筋の光、とのことでした。母は、それからとてつもなく忙しい日々が続きました。父親の酒の量は増えました。父親はそれまで何も言ってこなかった僕の生活に口を出す機会が増えました。自分にないものを、子に求めるのはいかがなものかと、今でも思います。

 

高校3年生になりました。父親は、どうしても東京の大学に息子を行かせたいと思っていました。僕はそれなりに勉強していたので、多分MARCHくらいには引っかかりそうでした。奨学金前提です。家に、母親の作る小さなハンドメイドに、僕を大都会で暮らしていけるようなお金があるとは思えませんでした。

 

東京の国公立。とても難しいことがわかったのは年始に行われる、福岡県の監獄予備校による模試の結果によるものでした。自分としても早稲田には行けるくらいには自信がありました。結果MARCHにも受かりませんでした。

 

浪人しました。監獄と呼ばれる予備校に入りました。全寮制でした。スマホも取り上げられました。時代錯誤の1年を経て、僕は早稲田に落ちました。法政大学に通っています。東京は未だマスクをつけないと冷ややかな目で見られます。

 

東京には、季節によって色が変わる由布岳みたいな山はなく、別府のように湯気が立つまちでもなく、高いビルだけがありました。大学では政治の勉強をしました。専門は比較政治学です。政治を学習するに、歴史と地理を学ぶことは第一。

 

比較することによる優位性をどの基準で考えるかなど、さまざまなことを体系的に学ぶことが必要でした。ゼミの討論の質疑応答で論理的に言い返せたことはありません。それなりの卒論を書いて、僕は晴れてフリーターになりました。

 

九州に帰る選択肢は僕の中でありませんでした。3年前、母は杵築市に小さな工場をつくりました。湯布院では景観を損ねるという理由で建てれなかった箱です。ハンドメイドよりも優先されるのは、効率でした。だって需要と供給を安定させなければなりませんもんね?

 

僕はメガバンクとはいえませんが、中堅の銀行員になりました。東新宿支店で働いています。都営新宿線で事足りるから、引越しはしませんでした。3年働きました。稟議書を作るのが上手くなりました。

 

親には自虐的に、「行員ってほんと年寄りから金もらう職業だね」と言っていました。盆と正月だけです。母は父親の銀行ではない銀行から工場を建てる融資を受けていました。あと15年で返せるらしいです。

 

僕の人生で特別なことが起きたのは母のハンドメイドが事業になった「その日」だけでした。両親が成し得なかった大学に通っても、待っていたのは上司の叱責と、取引先の総スカン。だから韓国のゾンビ映画が好きなのかもしれません。突然失われる日常。考えたことすらない事象の連続。

 

待っていたのは働いては家事をして、東京で生きるギリギリ振り込まれる給料と、到底自分の普通な人生では稼ぎ切ることができない年間ノルマ。グォーーーーーン。僕はただの洗濯物でした。自分の人生なのに洗濯機に回されている洗濯物です。誰が干してくれるのでしょうか。

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