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連続ドラマ『パーセント』と映画『サマーフィルムにのって』に感じる熱量

普段は連続ドラマを視る意欲があまり湧かない質なのだが、伊藤万理華が主演であるということから興味を持ち、50分×4話なので、先日このドラマを録画で一気見した。

伊藤主演の2021年公開の映画『サマーフィルムにのって』が素晴らしい作品で、そちらでは伊藤は「高校の部活での自主映画の監督」だったのだが、こちらでは「テレビ局の新米ドラマ・プロデューサー」であった。そうした役柄の類似性もあり、その点でも興味が増した。

伊藤万理華について

『パーセント』の感想としては、やはり伊藤の演技が見事だった。彼女の「不器用な熱量」を体現する動きは、なかなか他の俳優では演じられない稀有なもののように思う。

『サマーフィルムにのって』(以下『サマーフィルム』と略)については、僕がこれを観たのは今年の3月で、それまで伊藤万理華という俳優を知らなかった。伊藤がアイドルグループ出身であることを知ったのも、この映画をDVDで観た後である。

『サマーフィルム』においても、伊藤の演技には非常に鮮烈な印象を覚えた。彼女の演技が印象的なショットはいくつも上げることが出来るが、例えば、下の「走る姿」はその中の一つだ。

(少なくても僕にとっては)伊藤の、ここでの走り方や、別のシーンでの歩き方や座り方を中心とした身体性は、ハダシという名の登場人物を感受する際の極めて大きな要素となった。

DVD『サマーフィルムにのって』

伊藤は、このシーンについて、DVD収録のオーディオコメンタリーにおいて監督の松本の問いに答える形で、「ハダシ(役名)になっちゃったら、自然とこの走り方になっちゃってました」と語っている。

【オーディオコメンタリー】0°16'02"
伊藤「でも、走り方が、リュックにちょっと、なんか背中がもってかれてる感じでした。」
松本「それは、敢えてやってる?」
伊藤「なんか、敢えてじゃないんで。この時は、こうなっちゃう、ハダシになっちゃったら、自然とこの走り方になっちゃってました。」

DVD『サマーフィルムにのって』

僕は、俳優の演技そのものや演技論について語る言葉を持っていない(端的に言えば知識も経験も無い)が、この発言は、伊藤の演技を語るに際して、とても重要な発言のように思える。

たまたま手元にあった『俳優の演技術』という本を開いてみたところ、「俳優が役を身体に染み込ませる方法」として以下の記載があった(小見出しのみ抜き出し)。

役を身体に染み込ませる4つの方法
1.役の人物が経験した感情を体験する・想像する
2.自分の経験を使って、感情を想像し体験する
3.人物の内面をモノローグ化する
4.エチュード(即興劇)する

『俳優の演技術』富樫森(フィルムアート社)P.96-108

伊藤がどのようなアプローチをとっているかは知る由もないが、身体全体、その隅々までを使って役柄を表現する演技は、有り体に言えば、「役を演じている」のではなく「役を生きている」と評される類いのものであり、「自然とそうなってしまう(その役のように動いてしまう)」という演技ができること自体、俳優としての優れた資質であり特徴だろう。

『パーセント』においては、第1話において、伊藤の演じる吉澤未来(役名)が、和合由依の演じる宮島ハル(役名)に、ドラマへの出演を懇願するシーンがあるが、ここで伊藤は、下の写真の「体育座り」から、車椅子に乗る和合に対して、這いずるような形で近づいていき、下からやや上を見上げる形(物理的な意味での「下から目線」)で、自らの感情を和合にぶつけていく。

https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=3047
https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=3047

這いつくばいでの移動の動きなどは、普通の俳優が演じれば、だいぶ不自然な動きに見えるかもしれないが、伊藤の身体性は、ここに不自然さを感じさせない。「この人物なら、こういう動きをしても不思議ではない」と、見る者を納得させてしまう力がある。
これは、伊藤が(ここでは正確に言えば、伊藤の演じる吉澤未来が)抱える「熱量」の発現として自然だからであろう。この記事の冒頭で、伊藤の稀有な資質の一つとしての「不器用な熱量を体現する動き」と書いたが、『パーセント』においては、それはこのシーンに顕著に現れていた。

また、上で述べた「会話の際の目線の位置(高低)」は、(特に健常者と車椅子に座っている障がい者との会話のシーンにおいて)とても丁寧に描かれていたように思う。

https://steranet.jp/articles/-/3172
https://steranet.jp/articles/-/3172

(なお、『サマーフィルム』については、僕はこの作品を「視線の映画」と見立て、伊藤の演技についても、その「視線」の見事さについて、以下の記事に記している。ご興味あれば参照いただきたい。)

DVD『サマーフィルムにのって』

シナリオについて

『パーセント』と『サマーフィルム』の共通点の一つとして、いずれも、シナリオを「演劇畑」の作家が手掛けていることがある。前者は大池容子(うさぎストライプ主宰)、後者は三浦直之(ロロ主宰)とクレジットされている(後者は監督の松本壮史との共同)。

付け加えれば、前者は「ドラマ制作を描いたドラマ(メタドラマ)」であり、後者は「映画制作を描いた映画(メタシネマ)」だといったところも共通している。

『パーセント』については、そのシナリオは、主役の伊藤(役名:吉澤未来)を中心に、劇中ドラマの主役である和合(役名:宮島ハル)、それにテレビ局の直属上司や編成局長、自主映画作家でもある吉澤の恋人といった多数の人物と、それぞれのキャラクターを(良い意味で)分かりやすく立たせつつ、スマートに構成していた。
『サマーフィルム』は高校生の部活を描いた映画であり、「大人」が全く登場しない物語だったが、『パーセント』は「大人」、つまりは組織における上長や意思決定者が多数登場し、その中での伊藤(吉澤)の葛藤がドラマタイズされており、その点でもよいシナリオになっていたと思う。

加えて、ラストの「劇中ドラマ」のクライマックスが、本作自体のエンディングと重なる構造も、『サマーフィルム』を(文化祭の舞台という設定や、演劇的なギミックの使用も含めて)彷彿とさせた。

https://eigachannel.jp/photo/%EF%BC%85/2/

また、『パーセント』において、伊藤が和合に「わたしと一緒にドラマを作ってください」と懇願したように、『サマーフィルム』にも、伊藤の演じるハダシ(役名)が、相手役である金子大地の演じる凛太郎(役名)に、「わたしの映画に出てください」と懇願するシーンがあった。

DVD『サマーフィルムにのって』

ひょっとすると、『パーセント』の作り手側の意識には『サマーフィルム』へのオマージュもあったのかもしれない(作劇上の必然による単なる偶然かもしれないが)。

付け加えるならば、『パーセント』においては、助演の和合由依もドラマ初出演と思えぬ存在感を示していたが、劇中での演劇の稽古シーン、特に『ロミオとジュリエット』の「男女逆転版」を、障がいのある二人の俳優が行うことの、作り手側の意図と、そこで表象された二人の芝居の在り方にも唸らされた。

少し説明を足すならば、障がい者による劇団の稽古シーンで、シェークスピア劇の中でも最も良く知られているであろう、あのバルコニーのシーンを、和合と相手役(成木冬威)が、男女を逆転して演じる(本読みする)シーンである。

https://eigachannel.jp/photo/%EF%BC%85/4/
https://www.youtube.com/watch?v=iNXLQGSGIC4

作家が「演劇畑」であるゆえの着眼とも言えるが、多様性やジェンダーといった社会課題をモチーフ(制作の動機)とするドラマ作品で、「ロミジュリの男女逆転版」の1シーンを二人の障がい者が演じる(といっても稽古の一場面としてだが)シーンは、非常に印象に残った。

このシーンは、女性側(和合)が「ロミオを演じたい」と主張することによって現出するのだが、マイノリティ側に居させられる人物の抱えた葛藤、「社会において、ある役割をあてがわれること」への不満や怒り、そこから解き放たれることのカタルシスを、視聴者に強く共感させることに成功していたように思う。

連続ドラマと映画のフォーマットの違い

この2作品は、ここまで述べたように似ている要素が多かったこともあり、比べてみることで「連続ドラマ」と「映画」というフォーマットの違いにも、改めて気づかされた。

『パーセント』は、「50分×4話=200分」の作品であり、映画で言えばざっくり2本分といったところだが、連続ドラマは1話ごとに山場や次回への「引き」を作る必要があるわけで、そのフォーマットの違いが興味深かったということである。

奇妙な言い方になるのだが、本作が仮に「200分の映画」だったら、少し違うシナリオ(要素のバランス)になったのだろうなと想像する。

「50分×4話」のドラマの中では、僕は第2話が最も魅力的だと感じたが、もしも「200分の映画」として作るならば、第2話のパートを少し削っても、後半の「第3話・4話」にあたるパートを丁寧に描く方が、作品全体としてより魅力的になったようにも思える。
これは、別の言い方をすれば、第4話は多少急ぎ過ぎた感が残念でもあったということでもある。

「分かりたいから、ぶつかる」という、劇中で「キャッチコピー」として提示された言葉は、本作の作り手が、「多様性」の重要性が喧伝される社会に「突きつけ」ようとした言葉だろう。
正直に言えば、唐突に「キャッチコピー」として言語化されたことで、急に付け足されたように感じられてしまい、もう少しじっくりと物語の中で語ってほしかったように感じられた(念のためだが、台詞として俳優に語ってほしかったという意味ではない)。

https://eigachannel.jp/photo/%EF%BC%85/8/

「劇中ドラマのキャッチコピー」として、こうしたテーマそのものを提示することは(「分かりやすさ」を優先せざるを得ないテレビドラマにおいて)一つのアイデアではあったとは思う。
そこに至るまでに多くの「衝突」が描かれていたこと、そもそも、実際に放映されている『パーセント』の番宣用キャッチコピーが「わからない。でも。あきらめない。」であることからも、それが「取って付けた」ものでないことは自明ではあるのだが、分かりやすい「キャッチコピー」として現出させてしまったことで、やや陳腐に聞こえてしまった感は否めない。

とはいえこれも、「50分×4話」というフォーマットの中で、作家として考え抜いた上での作劇だったのだろうし、そこに大きな不満足があるわけではない。

ただ、この『パーセント』を、例えば「120分の映画」として同じキャストでリメイク(短縮版や再編集ではなく)したならば、どのような作品になるのだろうとは、考えてしまう。「願わくばそんな作品も観てみたい」と思う程に、優れた連続ドラマだったということだ。

(了)

(なお、この記事はFilmarksに投稿したレビューを大幅に加筆修正したものとなっている。noteでは本名による投稿だがFilmarksではハンドルネームでの投稿となる。
 https://filmarks.com/dramas/14893/20246/reviews/14413141 )

*6/6 追記
本作プロデューサー南野彩子氏によると、主人公の吉澤未来(伊藤)が第1話で訪れた喫茶店店主を演じられた福角宣弘さんが、放送の少し前に亡くなられたとのことです。謹んでご冥福をお祈りします。

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