2022、大学2年、夏。僕のルーツ

みなさんどうも、笠倉です。
そして笠倉は闇金の家系である。

今日も蝉が騒がしく私たちに夏を告げ、全うしてみろと挑発しているようだが暖簾に腕押し、僕には無意味だ。お前たちとは日陰で過ごしてきた年月が幾分違うのだ。(シェイクスピア風)

なんだかんだ人生に一度の20の夏、ついに迎えてしまいましたね

ところで、夏ってクリスマスソングが聴きたくなりません?
これ、冷房を聞かせた部屋で毛布に包まりスマホをいじる背徳感と同じ感じがして辞められません。おそらく人間はあえて生存に直結しない無駄を選んでしまう高度な生き物なのですね。

まあ本題に入ると笠倉は今年の夏、自由研究をすることが決まりました。

一人暮らしを3ヶ月で辞め、実家に帰ったと言うわけで自分のルーツを探します。

幼い頃からお前の祖先は江戸時代の日本橋で高利貸しをしていたのだ。
高利貸しとは簡単にいうと街のナチュラル闇金である。(その分野の専門の方と先祖様ごめんさい)
と言うことは聞いていたのだが二十歳になった今も詳しいことは知らない。事の発端は昨年秋、父方の潔癖症の祖母の妹が亡くなった。
しかし、事件はここで起きる。更年期障害という概念が存在しないぐらいピチピチの彼女が私に妹がいるなんて知らないと言い切る。
警察から貴方様の妹が亡くなりましたと連絡されるも人違いですと言い張ることしかできない。しかし完璧で完全な事実として祖母の妹が亡くなったのだ。
隠し子??僕の頭の中はまさにハテナで埋め尽くされたと共に
存在するはずのなかった妹というワードは自分の苗字について知りたいという衝動を起こすのに十分すぎるほどの動機付けであった。

祖母の母はとうの昔に亡くなり祖母の父は誰だかも分かっていない、そんなルーツを探すという意味では絶望的な状況である。
しかし、一枚の書類から事態は一転。父方の祖父の家から発掘された一枚の古い紙切れから「かき」と言うキーワードが。
おそらくこれは構えていた店舗の在処を示すものである。

まずはGoogleで 日本橋 かき と検索。もちろん食べログで美味しそうな牡蠣のお店しか出てくるはずもない。
次に 日本橋 かき に 江戸時代を追加。
するとなんとこの有様である

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????日本橋蛎殻町?????
???????????????
なんと「かき」という単語の入った町が存在したのだ。
この瞬間の脳内は極度の興奮状態である
某船橋のマスコットキャラクターと肩を並べるぐらいの梨汁、、脳汁の分泌である。(パチンコはしない)

wikipediaによると
「蛎殻町」との地名は江戸期から存在した。当時の蛎殻町の町域は、現在の日本橋蛎殻町の町域に加えて、現在の日本橋人形町の一部を含むものであった。日本橋区が設置された1878年(明治10年)においては、蛎殻町一丁目から三丁目までの丁目が設けられていた。蛎殻町は、旧:日本橋区の区役所所在地である。1947年(昭和22年)の日本橋区と京橋区の統合による中央区の設立に際し、「日本橋」が冠称とされ、「日本橋蛎殻町」が行政区画の名称となった。

確かに人形町と箱崎の間に江戸時代から蛎殻町という街が存在しているらしい。現在は合併ならなんやらが行われてしまったが江戸時代、そこには日本橋区蛎殻町が存在していたのだ。

しかし疑問は残る。祖先様は商人。なぜ牡蠣という海を連想される街にいたのか??そこで蛎殻町の歴史について深めてみる。
すると東京都印刷工業組合のページからこんな記事が見つかった

蛎殻町は中央区の北東部にあたり、日本橋から東約800メートルに位置します江戸開府のころは江戸湾(東京湾)に面した隅田川河口の右岸の海浜の地で、その後の埋立で陸地化し、浜町とよばれた地域でした。蛎穀町の地名は、江戸初期の『寛永江戸図』に、現在の中央区日本橋小網町2丁目の辺りに「かきがら」とあり、はじめは砂浜に面した俚俗地名であったと思われます。
江戸初期のころには後の蛎穀町1丁目の地は大名の伊東右京や酒井雅楽頭の蔵屋敷があり、大名の国許から船で、江戸に入る物品を収納する蔵屋敷地でした。同じくのちの蛎穀町2丁目の地も、青山大蔵や酒井讃岐守の蔵屋敷が広大な土地を占めていました。
その後、江戸中期にかけて浜辺の埋立が進み、箱崎川や浜町川の掘割の開削が進むと、のちの浜町3丁目・4丁目の地の区割りが行われ、大名屋敷として区割りされていきました。諸藩の中屋敷や下屋敷に下賜され、その間には大身の旗本の屋敷地としても下賜されました。江戸城下東部の武家屋敷地が形成されていったのです。(http://www.nihonbashi.gr.jp/story/kakigaracho.html

とあるように蛎殻町は砂浜に面した俚俗地から蔵屋敷を経て大名屋敷が広がる町へと変化していったようである。従って漁師でなく商人がいても自然だ。
江戸時代に公的な金融機関は存在しないとのことであるし、蛎殻町で武士を相手に金を貸していた、この説が濃厚ですね。
しかし当時の日本橋の武士達の経済状況はどうだったのだろうか?
「武士は食わぬど高楊枝」という言葉があるように、困窮していたというのは周知の事実であるが実態に迫ってみる。

まずは歴史的な背景。
江戸時代にはそれまでバラバラであった貨幣制度が統一される。天下統一を果たした徳川家康は、慶長6年(1601)に大きさや重さ、また品位(金銀の含有率)を揃えた大判、小判、一分金、丁銀(ちょうぎん)、豆板銀(まめいたぎん)の五種類の金銀貨を発行した。続いて寛永13年(1636)、三代将軍家光によって銅銭「寛永通寳(かんえいつうほう)」がつくられ、これら金・銀・銅(銭)による三貨制度が確立。こののち寛文10年(1670)には渡来銭の使用が禁止された。
江戸中期を過ぎると、経済の発達でお金がさらに必要になったことや幕府の財政難から、金銀の品位や重さを変える改鋳(かいちゅう)が度々行われました。このとき、二朱金(にしゅきん)、二分金(にぶきん)、一朱金(いっしゅきん)、五両判(ごりょうばん)といった金貨や、二朱銀など金貨の単位で表した銀貨もつくれたようだ。

このように江戸時代は完璧な貨幣経済社会へと過渡期であった。

次は武士のお財布事情。
当時武士の収入源であったのは家禄だ。家禄はその家に代々支給される給料である。高禄者は知行取(領地給与)、おそらく笠倉家の顧客であった蛎殻町付近の中・下級武士達は蔵米取(米穀支給)であった。
武士は戦での功績があってこそ、昇進や禄高増に結びつくものであったが、平穏な江戸時代に武士が昇給することはほとんどなかったのだ。
そのため250年ほど続く江戸幕府のもと、物価が上昇しても武士の家禄に変化は無かった。時代が幕末に近づくほど、武士の生活は困窮していった。
さらに江戸時代は米価安であった!これが明治維新につながったのではと思考を膨らませる笠倉。
米安価についての説明は非常に長くなる。詳しく知りたい人は大石慎三郎(1965)を参考にしてね
要するに江戸時代はインフレであったのに武士の収入源であった米の価格は下がり続けたのである。

ふとここまで久しぶりに歴史に触れると高校で日本史選択をしても良かったのではと考える数学選択者。そして生まれてしまった国数英の私文親不幸モンスター。

これで笠倉家が蛎殻町で高利貸しをしていたというのは
・蛎殻町は大名屋敷が広がる武士のベットタウンであった
・江戸時代はインフレ、米価格の低下により武士は困窮していた
との2点から納得がいく

今新宿のドトールにいるんだけど周りの人の会話全てと外歩いている人間が気になってしまって何にも集中できません。
飽きたので今回の自由研究はここまでにしておこう


次回 個人情報特定編へ続く





参考文献
大石慎三郎,1965,「享保改革の米価政策 (その1)」







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