比較沼と自分軸
何かを比較し出すと、次第に自分をそういう目で見て、人をそういう目で見て、
何かをベースにした比較のフィルターで人や物事を見始めてしまう。
それを最近体験して、
だいぶ久々な感覚だなと思いつつも、
なんでそのフィルターの中に入っちゃったんだろう、と冷静に分析する自分もいた。
相手も自分も比較の目で見ていないっていうのを感じれている時は、そうなったりしない。
「自分らしさ」がお互いブレない。
でも相手が、そういうフィルターで自分を見た時に、
自分の無意識に眠ってる、でも根本的にはある、比較フィルターがにょにょっと顔を出して、その土俵に登ってしまうと、比較フィルターが発動する。
でも気づいたのは、その時の比較対象のものって、表面的なものが大きくて、
なんかもっとこう、思いやりだったり、優しさや愛情深さみたいなもの、好きとか大事なものとか、人格的なものとかに意識を向けてくと、なんかハッと目が覚める。
プラス、外に目がいってたんだな、って気付かされたら、
「今できることをやっていこう」って思い出して、ついでに今までの自分史を振り返ると、
「結局、私は私でしかなくて、私は私で一生懸命生きてきてるし、
今が一番、自分らしく生きてるから、良いじゃない」
と、みつをみたいな言葉と母親みたいな自分がひょこっと顔を出して、解決してくれる。
いつか比較と卒業したい、と思ってたら時があったけど、
もしかしたら、これって消えないものなのかもなぁとも思う。
それでも良いのかもなぁ。
「あ、今比較してるよ!ビクトルが外向いてまっせ!」
って自分で気づいて、
その人を見て感じる自分の心が、ざわついても、もやついても、
それは自分の欲してるものや、こう在りたいっていう、丸裸な感情や、
これはいやだ!っていう気持ちとかを見せてくれて、
自分の心の羅針盤がくるるーんと「自分軸」を方向指してくれる良い機会なのかもね。
ま、だいたいこう思えるまで、何度も頭でループしては思考の海に溺れるんですけど、それも進行形の私ということで。笑
全然関係ないけど、今年こそりまもんのフォトブックを作りたいなぁ🐕
こんな私だけど、これが私で、
そんな私をいつも支えてくれる人達がいることに感謝して。
さて、休憩終わったからやるかぁ。。💻
プログラミングも日々試練だけど、亀🐢の歩みも積み重ねてるものがあると実感できてる。
自分の妄想に負けずがんばろ。笑
#思うこと