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「トランスを排除しないと女性スペースの安全は保てない」は主張として正当性を保てるか?その主張はフェミニズムか?

ツイッターではここ何年か、「フェミニスト」を名乗る人達からのトランスジェンダー(ほぼトランス女性)に対する差別がおこなわれています。
もっとも、その人達からすれば「これは差別ではない」というわけですが。

そのような「これは差別ではない」論法にはいくつか典型的な論法があります。今回ちょっと書いてみようと思ったのは、その中でもトイレに関する以下のような論法についてです。

この手の論法はおおむね以下のように構築されています(カッコ内数字は、後で反論している目次個所。相手の論理展開の都合で、若干前後しています)。

・トランス女性を女性だけのスペースに受け入れると、性犯罪者の侵入を止められなくなる。(D)
・なぜならばトランス女性は「性犯罪者」である男性と見分けがつかない。(AおよびB)
・また、男性の侵入を咎めた際に「自分はトランス女性だ」と主張されたら逮捕出来なくなる。(C)
・そのように、”女性”の安全を脅かすような"トランスの権利"は"女性"の権利をないがしろにしたミソジニーである。(Eおよび最後)

だいたいこんな感じです(太字は筆者強調)。時期に関わらずこの論法はほとんど似たりよったりで、はっきりいって答えも同じになってしまうため、本当に無限ループでしかありません。
今回はその無限ループにより省労力で対処できるようにするため、この主張を細かく腑分けし、いかにそれが犯罪対策として無意味であり、かつ反フェミニズム的な主張か、を指摘してみようと思います。

A:トランス女性は「性犯罪者」である男性と見分けがつかない?

この手の主張でほとんど一貫して登場する「排除の理由」です。
「トランス女性の女性スペース利用を認めた場合、性犯罪目的で進入する男性と見分けがつかないため排除できなくなる」というわけです。
最初にこの項目を検討してみます。

この主張、細かく見ていくとトランス性に対するバイアス、"女性らしさ"を前提とする極めてシスヘテロ中心主義が見え隠れする、結構"深い"代物です。まず、この主張が成り立つ前提条件を考え、一つずつ反論してみます。

A-1:「トランス女性は確実にシス女性と見分けがつく容姿をしているはずだ」というバイアス

この理屈が成り立つには、カッコ書き条件が成り立つ必要があります(そうでなければ排除する意味がありません)。

ここから見えてくるのは、トランス女性は一律に"女"として通用しない、ありていに言えば"本当の女"とは明らかに違う、言い換えれば"男らしい"見た目をしているはずであり、だから確実に見分けられるという、バイアスが存在している事です。

しかし、これは明らかにトランス女性の実態に即していません
トランス女性の容姿は多様です。いわゆる美人もいれば不美人もいます。痩せている人もいれば太っている人もいます。背も高い人がいれば低い人もいます(もっとも、シス女性の分布に比べれば背が高い人が多いのは事実です)。

よってこの理論は、トランス女性が全員、まるで漫画に描かれるような「ごつごつした体に青髭の、見るからに男が派手なメイクで露出の高い服を着ている」かのような存在である、というバイアス下でしか成り立たない理論だと言えます。
現実は当然そんな事にはなってないので、この方法ではトランス女性と男性を見分けることはできません

さらにここには、もうひとつ重要な点が隠れています、それは、シス女性もまた多様な容姿を持っている、という事の忘却です。

A-2:シス女性の多様性の忘却

この手の主張の裏に見えるもう一つの観点は、シス女性の容姿も多様であるということを、無視している点です。
これは、トランス女性はシス女性と確実に見分けがつくという、必須の前提条件を考えれば導き出せる当然の理屈です。

シス女性の容姿も、トランス女性と同じで多様であり、中には男性と見分けがつきにくい、あるいはまったくつかないシス女性も存在します。
この中には、"フェミニズム"でいわゆる脱コルと呼ばれる行為("女らしい"装飾を放棄する)をしている人、レズビアンの人の中でもダイクという呼称から想起される男性的な表象を選択している人、あるいはそういう選択を抜きにして、単に肩幅が平均より広かったり、背が高かったりで、単にぱっと見男っぽく見える人、様々です。
つまり、現実の世界においては、トランス女性と男性どころか、シス女性と男性でさえ確実には見分けられないのです。

トランス女性のスペース利用において問題となる"パス度"(女性に見えるか、見えないか)の尺度は、現実の世界ではシス女性にも降りかかっていることを、忘れてはいけません。

事実、こういった容姿を持っている女性が女性だけのスペースの利用に関してトラブルになっているケースは存在しており、実数的にもトランス女性がトラブルになるケースよりずっと多いと考えられます。
そして、こういった人達の中にはトラブルを避けるために外でのトイレ使用を避けている人が存在することも忘れてはなりません。

以上で見てきたように、トランス女性を排除すれば性犯罪は防げる、という考え方は、「女性は女性らしい見た目をしていて当然である」「トランス女性は結局は男なのだから女性に見えないはずだ」といった、極めてシス性中心主義かつ、ある種"女らしい"ことが当然であるという、全くフェミニズム的では無い前提があると見なさざるを得ません。

B:「女らしくない容姿を排除」すれば解決?

ならば、見分けがつかない存在を全て排除してしまえばどうか?つまり、女らしく無い見た目の女は、女性だけのスペースを利用する権利を制限してしまえ、という案です。
トランス女性とシス女性を見分けることが不可能で、シス女性と男性を見分けることも不可能である、ならば"男らしい"見た目を排除すればよいのか?という話になるのは当然です。

たしかにこれならば、方法論としての整合性は、一応取れていると言えるでしょう。
しかし、もはやこれはフェミニズムでも何でもありません。
社会が"女性らしさ"を規定し、その定規からはずれた女性にはペナルティがある社会が、どうしてフェミニズム的であると言えるのでしょうか?どうして女性の安全に寄与しているなどと言えるのでしょうか?

ここから言える事は、「見分けがつかないから排除」というのは、女性として求められる身体・容姿・振る舞い・装飾を規定した上でしか成り立たない、はっきり反フェミニズム的な理論であるという事です。

もしこれに「いやそれは違う。女らしく無い見た目の女を排除するような事は求めていない」と言うならば、異性装(トランス女性が女装しても異性装では無いのですが。念のため)に対するダブルスタンダードや、性別越境を許さないという性別二元論の絶対視をどうフェミニズムと整合させるのかに対して、説明を求められることになるでしょう。

C:トランス女性を排除できなくなれば犯罪目的の男性を排除できなくなる、は本当か?

この命題に関しては、すでに法的な説明は、多くの人からなされています。

裁判においては、地裁判決において「個人が自認する性別に即した社会生活を送ることは、重要な法的利益」であり、またトイレはその法的利益に含まれるという判断が示されています(現時点で控訴審が進んでいる段階)。

判決文に関してもウェブ上で全文が読めますが、裁判所がトップページ以外の直リンクをはじいているようなので、トップページから裁判例情報に飛んで、経済産業省+トイレで検索すれば出てきます(平27(行ウ)667号・平27(ワ)32189号となっているのがそれです)

法的に言えばトランス女性がトイレを使用しても、それは正当な理由であり、問題は無いと考えられます。

防犯・犯罪検挙という観点で言えば、たとえトランス女性が女子トイレを使用するようになったとしても、不審な人物や犯罪者が捕まえられなくなるなどということは、法的に考えてもあり得ません。
これは、たとえシス女性であっても、不審な行為を行っている人や、性犯罪に関わる行為を行っている人は、法的に検挙可能であるという事実からも、容易に類推される事です。
逮捕できるかできないかは、そのスペースの利用権を持っているか、持っていないか、では無く、不法行為を働いているかいないか、によるものだからです。

以上のように、このCの観点は前提条件からして間違っており、実態としては恐怖を煽りトランス女性にヘイトを向けさせるだけの差別的であり極めて不誠実な論法です。

D:男性さえ排除すれば女性だけのスペースは安全?

今回検討している論法において、そもそもなぜトランス女性を排除するのか?そうすれば、男性の侵入を防ぐことができ、そうすれば性犯罪も防げる、という考え方に基づいています(トランス女性の排除が、実際には実効性が全く無い空想的な論か、あるいは女性差別的な理論でしかないのは、すでに示した通りです)。
果たしてこれは本当に正しいのか?少し考えてみます。

この論理展開の裏側には「女性を加害するのは男性である」「女性は女性を加害しない」という暗黙の了解が存在しているのは間違いありません(このバイアスは、フェミニズムにおいて過去に繰り返し内部批判がされているものです)。
現状において、性犯罪で検挙される人に男性が多いのは事実です。また、被害者が女性に大きく偏っているのも事実です。
しかしながら、たとえばトイレや脱衣所で大きな問題となる盗撮事件では、実際には女性が盗撮の加害者であるケースも以前から言われています(商業的に女性に報酬を支払って盗撮させたり)。
また、女性による性加害も、統計上はっきりと存在しています。
ですので、女性だけのスペースにおける犯罪は、男性だけを排除しても完ぺきに防ぐのは不可能です。
さらにここには、性犯罪者=男性というバイアスを助長する可能性を考えなければなりません。

このバイアスは、実際に性犯罪被害者の男性を苦しめているものでもあり、また女性から性被害を受けた女性をも苦しめているのを忘れてはなりません。
このようなバイアスに基づいた排除理論は、性犯罪被害者に寄り添っているどころか、むしろ一部の性犯罪被害者をより苦しめるものであると、私は考えます。

D’:犯罪者は犯罪を起こすまでは犯罪者ではない

この手の議論をする際に忘れがちであり、かつ重要な点ですが、犯罪者は犯罪を起こすまでは犯罪者では無い(言い換えれば犯罪を起こした人が犯罪者である)という点です。
これは現代社会にとって基礎の基礎であるはずです。

しかし、以前ツイッター上である人がこの基礎の基礎を指摘した時、「性犯罪を放置するのか」といったようなバッシングが起きました。
では、特定の容姿や属性を持っているだけで、頻繁に警察に職務質問をされたり、あるいは犯罪者では無いのに通報されたり、場合によっては"強制排除"という名のリンチを受けたりする社会は、果たして全ての女性にとって公平な社会であり得るのでしょうか?
私はそうは思いません。

実態としても、多くの場合で"不審者"探しでは「犯罪を未然に防ぐ」ことはできません。
犯罪に及ぶ人間が不審な格好をするでしょうか?するはずがありません。不審に思われない振る舞いをするのが当然なのです(女子トイレなんかで「不審な行動をする」ことが目的な場合は別ですが。これは建造物侵入に当たります)。
まして、トランス女性をトイレから排除したところで、果たして犯罪を行おうとする人が侵入を思いとどまるでしょうか?私はそうは思いません。

むしろ、特定の属性を排除することで成り立つ一見した"安心"は、かえって犯罪を企図する人を見逃す傾向にあります(女性による女性への盗撮なんかは、特にそうです)。
特定の属性を、属性に基づいて一律に排除するという"防犯"は、差別的であるばかりでなく、効率面でも、決して良いものではないと考えます。

私は、重要なのは二方面であると考えます。
犯罪をそもそも起こせないような物理構造にすること、そして犯罪が起きた場合は正当に検挙できるような社会構造にすること、です。
繰り返しますが特定の属性を排除しても、トイレの安全は保障されません。その道の先に安全はありません。

無論、警察権の行使が、マイノリティにとって不利な形で行使されていないか、強く監視される必要があるのは、言うまでもありません(現状の警察権の行使は、疑いようもなくマイノリティに不利なものです)。

E:トランス女性の権利を擁護することは"ミソジニー"か?

これまで、トランス女性を排除することでは、全ての女性にとって安全なスペースを作り出すことはできない事、また法的に考えてもトランス女性の女性だけのスペース使用と逮捕権の行使は関連しない事を、述べて行きました。
では、より道義的、人権的、倫理的、社会学的な観点からはどう考えるか?

私はフェミニズムを支持する立場において、全ての女性がそのスペースを平和裏に使っているかぎりはどのような容姿・身体の女性であっても排除されるべきではない、と考えます。
トイレを正当な目的(第一には排泄ですが、一方でちょっとした身だしなみを整えるであったり、あるいはついでの短時間のスマホチェックであったりといった用途で使用する人も多いと思います)で使っているかぎりは、排除されるべきではありません。
それはトランス女性のみならず、男性っぽい表象を取る女性についても、同様です。

前述したように、実際にトイレでトラブルになるのは、元の性がばれるのを恐れてしっかり女性性を纏っているトランス女性よりも、そうでないシス女性のほうがずっと多いと考えられます。
そうした人達の中には、実際にトランス女性と同じ理由で、トイレの使用を控えている人達が存在します。
私は、いちトランス女性として、フェミニズムを支持する立場として、全ての彼女が安全に、排除されずにいつでもトイレが使えるようにならなければならないと考えます。
そしてそれはトランス女性を排除しても達成できません

私は、トランス女性が安全に、安心して女性だけのスペースを使えるようになることは、ひいては全ての女性が安全に、安心して女性だけのスペースを使えるようになることであると、考えます。
そのような主張がミソジニーであるとは決して考えません

終わりに:トランス女性の権利を守ることは全ての女性の権利を守ることに繋がる。

これまで、トランス女性を排除しても"女性"の安全は向上しないし、トランス女性を排除することははっきりとフェミニズムに反する行動であること、「トランスを排除しないと女性スペースの安全は保てない」は主張として正当性を保てないことを、少し長いですが述べてきました。

トランス女性を排除することで生みだされる見せかけの"安全"は、実際には安全ではありません。
それは、"パス度"に不安を抱えるトランス女性が自主的に女性だけのスペースの使用を諦めている現状においても、安全性が十全に確保されていないという事実からも明らかです。
それどころか、このような排除の言説は、規範からはずれたシス女性をもまとめて排除する、権利が守られない女性を生みだす明らかに反フェミニズム的な代物です。
ですので私は「トランスの権利を叫ぶ事は"女性"の権利をないがしろにしたミソジニー」であるという主張は、はっきりと間違いであると主張します。
そして、むしろこのような排除理論こそ、極めてミソジニーで家父長制的な「女性の統制」に基づいた差別的な代物である、と考えます。

私が繰り返しはっきり言っておきたい事は、トランス女性もシス女性も全ての女性が安全に使える女性だけのスペースは、間違いなく全ての女性の権利を守るものであるという事です。
そのような主張を、一体どう解釈したら女性の権利をないがしろにしているというのでしょうか?

長くなりましたが、今後もおそらく同じような言説は繰り返し出てくると思います。その時に反論の労力を少しでも少なくできることに、このnoteが役に立ったら幸いです。

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