連続テレビ小説「瞳」総括感想その2

ここではその1に続き、連続テレビ小説「瞳」を見て気づいた点、考えた点について書き残しておきます。
その1(ストーリー面について)はこちら↓


①「今」を描く

本作は全体構成や設定等あらゆる方面から、「瞳」が放送された2008年
当時を描くことにこだわっていたことが伺えます。

まずはヒロイン・瞳について。
瞳は物語の開始時点(2007年2月)で20才。百子と長瀬の馴れ初め話から分かる通り、両親はバブル期に若くして子供を作ったことになります。母親と祖父が決裂した結果祖父と長年会えなくなったことや両親が離婚した背景にはバブル崩壊という時代背景があるため、特殊な家庭事情ながらもリアリティがある。本作のヒロインを通して「日本経済の絶頂とその終焉に翻弄された家庭で育った若者」という当時の若者像の一つをピンポイントに描こうとしていたことがわかります。

このようなヒロインを登場させたことからは、子供や家族を取り巻く環境が時代により変化し、親子3世代といっても明るいホームドラマだけでは通用しなくなっているという意識が伺えます。バブル崩壊(に伴う不況)を「子供や家族を取り巻く環境が時代により変化」したきっかけの一つとして取り上げ、両親の離婚がバックボーンにあり、物語開始時点で成人しているヒロインに反映させたのだと思います。そんなヒロインが里子達の気持ちを受け止め子供たちの居場所を作りたいと言い、里親になる動機が生まれるのは自然なことでしょう。

徹底して「今」を描く姿勢は、過去の家族の確執を含めて過去回想の形で
物語の開始地点より前の出来事を殆ど見せない
ことにも表れています。代わりに本作では勝太郎や瞳が家族写真を眺めるシーンが何度か挟み込まれ、家族への気持ちが表現されています。

過去回想があったとしても実の父から捨てられた幼い明や、店の商品の値札にいたずらした子供を叱る若き勝太郎、恵子が一本木家を出る日に「乾杯」を弾き語りする勇蔵ぐらいです。変化球として、恵子の初恋を勇蔵に邪魔された話がもんじゃ焼き屋を営む兄弟による紙芝居で語られていました。
一本木家の過去の確執の話に至ってはシーンとして描写されておらず、台詞以外では百子と長瀬の駆け落ちの話が同じく紙芝居で語られていたぐらいです。

一本木家の過去の確執の話を過去回想で表現することがなかったのは、心のどこかで家族がやり直せることを登場人物が期待していると視聴者が誤解するのを防ぐためだったのではないかと思います。
視聴者が後にヒロインの家族の確執が和解する物語の運びになることを知っていても、その当事者である百子や勝太郎は「何故家族の仲がこじれてしまったのか」とは思っても「いつか家族が仲良くなれる日が来る」という想像はしていない(特に序盤)。一本木家の家族再生の物語が事実上物語の軸になっていたとしても、ドラマを鑑賞する中でそう悟られれないようにするためだったのではないかと筆者は推察します。

②食べ物描写

本作は月島名物・もんじゃ焼きを始め様々な食べ物が登場しました。

一本木家の朝ごはんのレギュラー・納豆、「長屋の花見」で用意される重箱、ダンススクールの講師の元ユニット仲間・KENが築地で何度も食べたサバ味噌定食、ウメさんが夏祭りに振る舞う稲荷ずし、作品の重要場面で何度か登場したマリさんお手製ホールケーキ、瞳がオーディションに参加する時に勇蔵から手渡された鰹節、百子が手土産に買ってきたケーキ、恵子と勇蔵、勝太郎をもてなした百子のパエリア、瞳が長瀬のデザイン事務所を訪れたときに一緒に食べたカッププリン等々…

今作は築地も舞台でありその関連なのか、食を手に持つ人物が多くいたのが印象的でした。そこから伝わってきたのは「食べる人を思いやって作る/購入する」「食べ物は人を繋げる」等、食がもたらす豊かさ。最終回では(まず嫌いな人がいないであろう)カレーライスを、長屋の住人を含めた瞳の家族全員で食べました。

「同じ釜の飯を食う」という言葉がある通り、家族や仲間とは共に食をすること、つまり集まること。最終回にはそんなメッセージも込められていたのではないかと思います。

③大人世代の家族・仲間への後悔と再出発

ヒロインを中心とした本作の若い世代が家族・仲間を作っていく物語を進めていたのに対し、ヒロインの親世代やダンスの師にあたる人物達は、大切な家族・仲間を傷つけてしまった後悔と再出発の物語になっています。

これはゲストキャラを含めた複数の大人が該当しますが、その筆頭は勝太郎、KEN、長瀬の3人です。勝太郎とKENは里親パート、ダンスパートのヒロインの師匠枠(KENは瞳のダンス学校のクラスのコーチ・RAYのかつてのユニット仲間ですが、事実上師匠としておきます)の人物にあたり、最終盤に瞳の父・長瀬が入ってきます。変則的ながらも、ヒロインの父と師匠枠の人物がキーマンなのは構成上からも明らかです。

ここですごいのは、勝太郎、KEN、長瀬と物語に登場する順で
過去ー現在(作中期間)ー未来
この時間軸の流れができている所です。

勝太郎は実の娘と向き合えなってなかった後悔から里親を始め、作中の期間も里子を育てています。KENはかつてのダンスユニット仲間・EIJIの死を自分のせいと思い、一線から遠のいていた所からの再出発が作中の期間にあたります。再出発の時期が作中で描かれた期間内か否かで過去・現在の区別になっていることがわかります。
これらに対し、長瀬はKENと違って作中期間の最後の最後、つまり「現在」と「未来」のちょうど境目近くで再出発します。KENは3年半ぶりに公の場(渋谷のクラブ)で踊ったのが事実上の再出発になりますが、長瀬は勝太郎に謝罪して神輿を担ぐ姿を見せた所が再出発にあたります。
神輿を担いで和解して物語が閉じたため、勝太郎やKENで描かれたような「再出発した後でぶつかる/ぶつかった苦労」は作中になく、長瀬は作中の先(=未来)が問われています。もしドラマのスピンオフや続編が当時作られていたら、瞳のダンススタジオの話と共に長瀬に焦点が当たっていたと思います。

取返しのつかない失敗をしてしまったり過去の出来事に後悔することがあっても、人との繋がりがそこから立ち上がる力になるというメッセージを担っていたのが、本作の大人達だったと思います。

補足
KENが大人枠に入るのは、クラブで瞳と会った時に年を聞かれて答えたらオヤジ呼びされたシーンで明らかです。つまり、「瞳」はヒロインと勝太郎=じいちゃん、KEN=オヤジ、長瀬=ダメおやじ、この3人のおじさんの物語だったとも言えるのである…!

④養育家庭制度の取り上げ方

本作は養育家庭を「あらゆる家族に必要な要素を象徴的にやっている」との見解で取り上げられています。
瞳という作品が里親制度を取り上げているのは事実ですが、里親と里子について深く突き詰めるのではなく里親家庭をはじめとする家族関係、仲間関係が描かれています。里親家庭は「対立や葛藤を経て家族や仲間になる」というメッセージを発する土台の一部で、ドラマが進むと里親家庭に限らない家族関係のあり方が提示されます。

中盤以降、将太のエピソードを除き里子家庭に密着した描写に欠けるのは、今作がこうした構成を取ることで「放っておいても家族はできず、家族は作っていくもの」というメッセージを伝えるためです。養育家庭を取り上げたのは、結局ヒロインの家族の確執解消を描くための舞台装置に終始したと感じざるを得ないのは自然だと思います。

ちなみに、劇中では既に補助者として子供たちと接している瞳のようなケースは珍しいというナレーションが入り、里親を希望する理由として社会に役立つことがしたい、子育てを終えてもうひとり子育てしたい、子供がいないからなどが挙げられています。普通に里親・里子を描くのなら里親家庭の背景をここまで込み入ったものにはせず、里親として登場するのも瞳のような若者は稀だというのは容易に想像できることではないでしょうか。

制作発表の段階で養育家庭を取り上げると言いつつ”真っ向からとらえた”物語構成ではないのは肩透かしに思えるかもしれません。ここは、連続テレビ小説というドラマジャンルに養育家庭制度を持ってきている(=殆どの作品で子育て未経験、もしくは劇中で経験するような若者が主人公になるドラマ枠で養育家庭を扱う)ことへの暗黙の了解が必要だったと思います。

⑤登場人物と地域描写の地続き感

このドラマはダンス学校関係を除くと全編に渡って月島や築地で物語が進行していきます。大人・子供を問わずあらゆる登場人物が誰かと繋がっていき、それがそのまま月島や築地という本作の舞台を描くことになっています。中には「だからと言ってこの場でこんな話していいのか…?」と思う時もありますが、このドラマの根底にある「人は繋がって助け合っていって生活していく生き物」という価値観を伝えるのに相応しいのが月島・築地エリアであり、その地域の人々だったのだと思います。

瞳のダンス学校関係者が瞳のアルバイト先である築地の食堂に来て地元の人たちと交流し、互いに影響し合う。勝太郎が入院することになった時は、瞳がアルバイトやダンス学校を休むのではなく近所の人の手を借りて乗り越える。百子や瞳のダンススクールの仲間など、瞳がいなければ月島に来なかったであろう人達が一本木家を訪れ、里子達と交流する。
皆が何等かのきっかけで誰かと繋がっていくという描写の繰り返しによって、月島という街やそこに暮らす人々の風景を視聴者に落とし込んでいきます。

養育家庭制度の元で育つ子供たちや一本木家の確執等、家族に関する重いテーマを受け止める月島や築地の日々のサイクルに没入し、一本木家がご近所さんの月島の住人になったような感触を得る。
『瞳』はそうした視聴態度で見るのが一番相応しいドラマだと思います。

⑥タイトルバックの効果

最後は今作のタイトルバックについて。
佃・月島の開発をアニメーションで見せた後、ある路地に定点カメラを置いてそこを歩く人々が時代と共に変化する様子を描いています。ちなみに路地を歩いている人は一本木家の人をイメージしているようで(出典は当時のHP)、若い頃の勝太郎や百子を彷彿させるような人物が登場します。子供に手を差し伸べ一緒に歩く女性が瞳のイメージなのは容易にわかるでしょう。

今作を「今」に焦点を絞って描いた作品とした場合、アバンなしで流れる
タイトルバックで「過去」を描いてドラマ本編に繋げたのは効果的であったと感じます。逆に言えば、本編でシーンとして描かれない過去を想像する余地を与えているのがこのタイトルバックでしょう。

江戸から明治にかけて開発された佃・月島。
そこに生活の基盤を置いている現代の家族の物語が、今作『瞳』です。

まとめ

親子、兄弟、夫婦、友達、仲間、恋人、師弟等様々な人間関係が見える
ドラマでした。作品通してみた時に、里親・ストリートダンス・月島の下町情緒と一見ごった煮の所に「対立や葛藤の先で家族や仲間になる」「単なる自己実現から社会性を伴っていくダンス」「親子三代、祭り(=人と人が
触れ合うイベント)好き」
という軸が通っています。

メッセージは伝わりますし、展開もそう悪くない分ディテールの不備で中途半端になっているのが勿体ないと感じました。細部がもう少し整って入れば評価は上がっていたであろう作品でした。

記事を書いた2024年現在、NHKオンデマンドでの配信はありませんが、各種宅配レンタルから視聴できます。物好きな方はどうぞ。

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