見出し画像

新型コロナウイルス騒動から見るマクロとミクロ その115 ~「住んでいる」と「暮らしている」の違い~

うちの会社は3月半ば以降に、在宅勤務となった。

それ以来、家で基本平日仕事をしている。これまで睡眠時間がこれまで長かったが、在宅勤務をすることで色々と不便が見えてくる。モニタがあった方がいいとか、そういった必要になるものが具体的に見えてくる。これまで購入を迷っていたものも、在宅勤務が長くなることを見通すと必要かなと思ってしまったものだ。

その中で、ふと感じた。

この住居(1Kのマンション)に住んではいるものの、暮らしていなかったのだと。確かにプライベートなものはある。

「暮らす」という感覚は、「住む」ことの先にあるような感覚である。「住む」ことは1人称なイメージである。「暮らす」ことは1人であっても、何かと共に過ごすことになる感覚である。新型コロナウイルスが猛威を振るわなければ、この「暮らす」感覚を失っていただろう。

よくも悪くも2020年の1月に従兄弟が亡くなり、その関係でモニターを頂いたものが在宅勤務で活躍中である。彼には申し訳ないが、壊れるまでは使い続けさせて頂くことにする。

3月末には、マンションのすぐそばにある蕎麦屋が店じまいをした。新型コロナウイルスは関係なく、年末の年越しの時にそう宣言されていた。いくつか食器類を含めて頂いた、その中に、1輪ざしの花瓶があり、華と暮らす生活が始まった。

確かに生きるためだけに暮らすには、風呂、トイレ、ベッドなどくらいでも可能かもしれないが、決して文化的な生活が出来るわけではない。私の部屋はどちらかというとギーク的なところもあるので、食器などにあまりこだわりを持てていない。ただ狭いのでそこにこだわりを持つよりかは部屋の中をもう少しでも豊かに出来るようにしたい。

何をしたいのだろうか。

豊かにするのは精神に対するアプローチでもある。自分が好きなアートなどを飾ることでもいいと思っている。こう書いていくと少しでも大きな部屋に移りたい気持ちは出てくるものの、色々なしがらみが今住んでいるところにあり、引っ越しとはならない。

引っ越しをしなくても変えていけるものはあるはずなので、変えれるものを変えていければいい。

新型コロナウイルス以前はほとんど家で料理をしなかったが、久々に自炊を始めると楽しくてしょうがない。スーパーで半額のお肉を見ると大量に購入してしまいそうになることもある。これも新型コロナウイルスによる影響ではある。

さてそろそろスーパーにでも行ってみるかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?