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ぼくがいま、死について思うこと

旅先で見聞きした葬儀についての話が中心のエッセイ、椎名誠の「ぼくがいま、死について思うこと」を読んだ。

火葬、土葬、水葬、風葬、鳥葬。初めて知るものも多かった。
たとえばモンゴルの風葬は、ひとことで言えば野ざらし。野犬や狼で太陽や風によって遺体を大地に返していくのだという。
北極圏では火葬の風習はない。燃やす木が乏しいなど、自然環境が故のものか。
土地土地での理にかなった風習が葬儀に反映されている。

欧米先進国でも例えば、イギリスでは、葬儀は完全にプライベートなものとされているので本当に親しい人にしか案内しないらしいし、フランスでは逆に「福祉の一環」として考えられていて形式どおりの葬儀には大した費用がかからないらしい。

世界中の葬儀のどれもが、実は故人の成仏よりも、残された親族、親であり、子であり、妻、夫であったりとくに近しい人のその気持ちをある意味納得させる儀式なのではないか。

死後の世界が無いとは言い切れない。

僕は、死後の世界が無いとは言い切れない。あるような気がする。
何故か。
人と人が心を通じ合わせることができるのだから、肉体の終わりが魂の死と同時なはずがない、そんな考え方だ。

慣性の法則、エネルギーの法則をイメージすればいい。
肉体生命の灯が消える瞬間まで、聴覚が残っているとも信じている。
根拠はない。
だから臨終のベッドに付き添えた時はなるべく耳の近くで話しかけて愛を伝えることを実践している。

義母の友人のAさんを思い出す

一昨年前、義母が癌で亡くなった。
ケア病棟に連日面会に訪れてくれていた義母の友人のAさんを思い出す。

Aさんは以前近所に住んでいた。
余命間近と告げられた義母には近親者が入れ替わり面会に来るようになったが、遠くに住む親戚たちからはAさんは馴染みのない存在。
娘の夫である僕は、その距離感故にAさんの甲斐甲斐しさ、さりげなくも温かい接し方、深い友情にいつも感じ入っていた。

葬儀の時、家族親戚の輪の後ろのほうで参加していたAさんが気になっていた。通夜、告別式、出棺。そして焼いた骨を壺に閉じて終わるまで、Aさんはずっとそうだった。

葬儀を取り仕切った義父の挨拶が終わり、これで解散という時、僕はAさんの傍に行って「ありがとうございました」と言った。
急にこみ上げてきて、号泣してしまった。

「お義母さんは、ちゃんと見ていてくれているはずです」と、話したかったけど言葉にならなかった。 

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