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親子や家族のドラマを、いつから親目線で受けとめるようになってしまったのだろうか。

リオ五輪は、過去記憶にあるオリンピックのなかでも、いい試合いいドラマが溢れているように感じている。いったいどうしたのだろうか?
目を引くのが選手たちの試合後のコメント。率直で、自己分析もできているし、一言とはいえ濃厚な言葉が多い。4年後に目を向けている者、周囲への感謝を言う者、これが実力ですという言葉にも実直さと重みが伝わってくる。いったい、20代半ばの彼らがどうして?  
メダリストだからといって今後の順風満帆が約束されているわけではないのだが、自分の言葉を話す姿は、誰も頼もしい。

主人公の麻生人生(じんせい)は、高校時代から引きこもりを続ける24歳の青年。母親と二人暮らしのアパートの一室で、携帯電話とパソコン、母親が買ってくるコンビニおにぎりとカップ麺とコーラ、それだけがあれば良いという生活を続けていた。
一通の年賀状がきっかけで、長野の農村に住む祖母と暮らし始めて変わっていく人生。

インターネットで繋がっているものって何だったのだろう?
子供は皆おばあちゃん、おじいちゃんが大好きだ。そしてその、ほんのひとときの少年の頃の記憶の刷り込みが、いつまでも大切なものとして、壮年期、中年期を過ぎても心の引き出しにしまってある。祖父母と父母との関係性の暗部を知り、介護という現実に直面したとしてもそれは変わらない。

親子や家族のドラマを、いつから親目線で受けとめるようになってしまったのだろうか。
ほんの少し前、40歳代でもまだ少年の心に共感して読めたはずなのに。寂しい想いもあるが、これも悪くない、という想いもある。

いつの時代も、分かり合えない時期の大人と若者の関係がある。家族でも他人でも、だ。そういった関係そのものが時代を創ってきたのかもしれない。

明日理解しあえるか、理解しあえるのは数年後か、神のみぞ知る。


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