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「『六十にして耳順(したが)ふ』―大丈夫か、俺」

 ついに60歳になってしまった。いつか来るとは知りつつも実際に「この日」が来てしまうと少々驚く。「老いの現実」に獏たる不安も感じる。老眼になった(これはもう15年ぐらい前から)、白髪が増えた(これは最近)、髪量は減った(あああ、これは20代から兆候アリ)。朝早く目が覚めてしまう(最近。呑むと一層この傾向が強まる。決まって午前4時50分過ぎ)。腰は痛いし、おしっこは近い。もう数えるときりがない。ああ、いやだ、いやだ。

 実は、もっと不安なことがある。年を取ったのは事実だが「年相応の生き方になっているか」それが心配になる。論語(孔子)には「六十にして耳順(したが)ふ」とある。人の言うことがなんでも素直に理解できるようになるのが「60歳」らしい。ならば、まだまだ僕は青春を生きていることになる。ああああ大丈夫か、俺。

 子どもの頃、いや最近まで「60歳」は「遥か未来」だった。「こんな僕でも60歳になれば落ち着く」と信じ、のんびり構えていたが気づけば60。孔子が言う「成熟した人間」には程遠い。やっぱり大丈夫か、俺。

 25歳で牧師になった。若さに任せて「なんでもやった」。思い立ったら即実行。あまり深く考えない。綿密な計画は立てない。目標もいい加減。ともかくはじめる、ダメだったらその時考える。何よりも、あまり熱心に反省しない。周囲の心配の声も聞かぬままに前進する。そんな落ち着きのない僕を間近で見ていた伴子(妻)は「奥田を外に出さない方がいい。いつも何か新しいことを考えて帰ってきてみんなが大変になる」と周囲にもらしていた。

 一方で、僕はこう見えて実は気が弱く、ちょっとしたことが気になって眠れない。伴子は、「この人は自分は病気だと勝手に思い込むから厄介」とも言っている。強気と弱気が日替わりメニューのように入れ替わる。いや、日替わりどころか時間単位で。ジェットコースターのように落ち着かない。

「伴子さん、さすが僕も大丈夫60歳になったら落ち着きますよ。もう少しの辛抱ですから」と言っているうちに60。あああ、ダメかも知れない、俺。

 「耳順ふ」どころではない。一聴けば十倍返しで喋りまくる。二聴けば三十倍にふくらまし「何かやろう」と動き出す。一方でちょっとの事ですぐに不安になる。伴子の心配は尽きない。あああ、大丈夫か、俺。

 でも、大丈夫だ、俺。子曰く、「われ十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑(まど)はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」。孔子はすごいなあ。でも、孔子は孔子。比べても仕方ない。僕は僕に過ぎない。天命も分からず50になり、人の話しもちゃんと聴けない60になった。残念もクソも、それが僕なのだ。

 孔子にはなれない。なる気もない。「それでも60歳ですか」と問われたら「はい、60歳です。こんな60歳がいてもいいんじゃないかな」答えるしかない。「みなさんにご迷惑をおかけしながら今日もバタバタと落ち着きなく生きています」と。たぶん70歳になっても変わらないだろうな。

 僕は僕でしかない。だらか、君は君を生きたらいい。そんな風にお互いを認める社会でありたいと思う。自分の正義を振りかざし「あなたはダメだ」というのは良くない。人はそれで死を選ぶこともある。そんな社会は嫌だと思う。互いの違いと限界を認めることから始めたい。違いこそが豊かさなのだ。

 僕は僕を生きるから、君は君を生きて欲しい。周りが何を言おうと気にしないでやっていこう。僕はあなたの生き方を尊重したい。

大丈夫。だから一緒に生きよう。

僕は僕として、君は君として。

大丈夫、俺。

そう、大丈夫、君。   

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奥田知志
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