日本企業の意思決定について

私はコテコテの日本企業にいるんですが、昨今の経済情勢のお陰で研究チームにもしわ寄せが来ております笑

そのため研究内容にも多少のテコ入れが入るんですが、典型的な日本企業の意思決定のグズグズさを経験しています笑

こちらとしては研究中断しようが、ネタを変えようが問題ないんですが妙に研究続ける方針をだしつつも成果(=利益)を求めたりと中途半端な方針だなぁとは感じています。

というわけで日本企業の意思決定のいけてなさの根本を探って行きたいと思います。

一般的な議論

日本企業の意思決定の問題は様々なところで弊害となっていますので色々な考察がすでに存在します。

現状維持思考や社内政治などの原因が挙げられていまして確かにその一面もあります。

しかし話を聞いていると案外役員レベルになるとこのあたりの事情を課題と認識しているようで、管理職にはかなりの裁量を与えています。
そもそも役員はプロセスについてはさほど気にしませんしそんな余裕もない笑

にも関わらず未だに大企業病は治らないのはなぜか?

さらに「なぜなぜ分析」を進めていきましょう。なぜ現状維持志向なのか、なぜすり合わせがこんなにも必要なのか?

失敗の本質の「本質」

これらの日本企業の特質はそのまま日本帝国軍の特質であるという指摘はこの「失敗の本質」という書籍でされています。

失敗要因1.コミュニケーション不足による方針・戦略の不徹底

会社ではどこでもビジョンや方針みたいなものを掲げますが、事業部やチーム単位ではあまりビジョンや戦略を掲げません。大企業になるとその部署での役割や担当が異なってくるのでふわっとした目標しか建てられなかったりします。その代わりにKPIが非常に重視されます。

ビジョンや戦略がなくKPIだけが存在するのは結果を出せばいいだけなので、部下にとっては裁量があるように見えますがこれが裁量を失う大きな原因になります。

失敗要因2.強力な戦略原型の存在と既成概念への強力な固執

この戦略や方針を考えずに進めた場合、必ず「気合と運」による方針探索になります。その際にたまたまの成功体験が「方針」として固定されます。

これが前例踏襲、保守的な方針につながっていきます。その戦略がとられた理由が「たまたま」でしかないため、それ以外の方針への転換自体が存在しないからです。

これが「方針を変えること」や「イレギュラーへの対応」への強力なブレーキとなり、様々な弊害を及ぼします。

失敗要因3.自己革新が起こらないダイナミズムを欠く組織体質

一方でKPIだけが存在するので「なんらかの結果」を出さないといけない。となると新たな方針を開拓するのは効率が悪く、最も安全なのは問題が露呈していても「現状維持」することです。

「曖昧な指示」や「リスク管理」など様々な弊害が指摘されていますが、すべては「方向性やビジョンなどが存在しないにも関わらず、数値目標だけが存在している」というのが根本原因になっているのがわかります。

では次のなぜを考えましょう。「なぜ方向性やビジョンがないまま数値目標が決められるのか」です。

方向性の決め方

数値目標を立てるのは簡単です。「〇〇円の売上」、「〇〇件の案件獲得」などなど。また営利企業では重要なファクターであるのは変わりない。

一方で方向性、ビジョンはなんらかの目指したい方向性や達成目標が別次元にあるため一概には決まらない。自分の会社の仕事で「どういう世界にしたいのか」、「どうなってほしいのか」、「どういう働き方や技術にしたいのか」は個人や会社の価値観に依存するものです。ベンチャーであれば簡単で「こういう社会を実現したい」という価値観の元会社を立ち上げて、従業員もそのビジョンに賛同して出資したり参入したりします。

本来であれば「その人や集団が事業を通して提示する価値観」の過程や結果としての金銭であって数値目標です。消費者も「その製品や事業から得られる’価値’」の対価としてお金を払うというのが経済学的にも正しい見方です。
投資家や上層部はそのビジョンの達成コストとビジョンの価値を比べることで評価します。決して「金を稼ぐ」だけの評価軸ではない(達成コストを増やすような停滞や非効率な運営はビジョン達成の確率を下げますので重要なのはいうまでもありません)。

一方で多くの大企業の職員は「その会社の製品がすき」とか「その事業について働くことに誇りをもっている」人はそこまで多くない。大企業で働く多くの人は収入や体裁が働くモチベーションです。また大企業では事業が多角化しているので一概に「これがしたい」統一のビジョンが形成できないし、希望する部署に入れるわけでもない。

つまり、大企業では「社会貢献」や「製品や事業を通した自己実現」といった意思決定に大きくかかわるビジョンやモチベーションを多くの人の場合持ち合わせていない。これが、「KPIはあるけれどビジョンがない」というスタイルになる大きな要因です。

例えばトヨタやホンダに入る人は大企業に入るというモチベーションもありますが「車が好きで、こういう車が欲しい」や「車を作る仕事にかかわれている」というモチベーションがある人も数多くいると思います。

こういう人が多いところは比較的意思決定がスムーズになるはずです。なぜなら「作りたい車」のビジョンがあり、それに賛同してそのビジョンに対して「実現方法」としての部品なり制御なりを開発するので評価軸がはっきりしています。

わがチームは「弊社の製品を使ったこともないし興味もない」という人しかいない笑。話を聞くとただ「大企業であること」、「AIができること」という二点が入社動機だったりしています笑。ですので「弊社への貢献」も「AIを通して達成したいビジョン」もピントがずれてくる。

一方で戦略の教科書としても評価軸としても何らかの形でゴールを決めないといけない。するとわかりやすく評価もしやすいので「数値目標」だけが先行していく。

つまり、「ビジョンがない」原因は働くモチベーションに「社会貢献」や「製品や事業を通した自己実現」ではなくただただ、「体裁、プライド、見栄、給料」などののみであるからといえます。

では最後のなぜなぜ分析です。なぜ働くモチベーションに「社会貢献」や「製品や事業を通した自己実現」がないのか?

表徴の帝国、記号の国

このタイトルはロラン・バルトの著作でもあり、日本人論の一つでもあります。日本は「意味」を求めることを拒否し「記号的=イメージ」によって精神世界が満たされているという内容です。

記号の力が強い世界では「自己の精神世界のイメージに依存して実体を把握する」ようになります。つまり「ありのままで」の実体を捉えないので「社長」という肩書きが「自己のイメージの大小」によってその人の実体以上の印象になる。

日本の社会にはいまだ多くの「表徴」があります。「象徴天皇制」が代表的ですし、「名ばかり管理職」、「雇われ店長」などなど「名前と実態が一致しない」職業は腐るほどあります笑。「名前の効力」も様々なところで現れていて「担当レベルでは動かない案件が部長の名前で動く」だったり、「コンサルの意見は従う」みたいな中身よりも肩書が重要視されるシーンも腐るほどあります。

多かれ少なかれ人間の認識では「世界モデル=精神世界」を介するのですが、日本にいると特に「精神世界」が強固になるようです。

あらゆる事象に対してこの「精神世界」を強固に守ろうとすると日本人的な行動が現れます。

指示が曖昧になる(自己の精神世界内では明確なため)
失敗が嫌い(世界とのギャップの自覚=自己の精神世界の崩壊なため)
固まりがち(精神世界が類似している方が意思疎通がし易い)
人の言う事聞きがち(未知の事象によって自身の精神世界の危機を防ぐため)

話が通じなかったり、言ったのに「聞いてない」と怒ったり、都合の悪いことを無視するのも、相手によって態度を変えるのも全て自己の「精神世界」では「そうなっている」からです。

つまり、日本の特性として「世界」を「自分の精神世界」に投影するのではなく、自分の「精神世界」を「現実世界」に投影する認識の仕方が強固になってしまっていることで日本企業の意思決定にまで絡んでいる。というのが個人的な結論です。

「自分の精神世界」の作られ方にもよるのですが、一般的な日本の管理職は「何者であるか」が「何をなしたか」よりも重点が置かれる「精神世界」に生きています。つまり「肩書き」のみが重要視される世界に生きている。

そして、「何者かである」人間を目指して大企業に入り、その中で「自分の精神世界の人物像」を作り上げていきます。その際の「自分の人物像」や「周辺世界の認識」についての更新がうまくいかなった結果、こういった認知バイアスを生み出していきます。

何者であるか」についての自己肯定感があるうちはそれなりにまともに動けるのでしょうが、その自己肯定感に危機が迫ると「日本人的認識」の弊害が頭を擡げてきます。

これが日本企業のいけてなさの正体であり、これらの体制を批判している人も多くいるのですがそういう人たちも結局のところ多かれ少なかれ同様の性質を持っています笑

ウォーキズムと日本社会

ウォーキズムとは今アメリカを中心に吹き荒れている「社会正義の実現」を志向する若者たちの思想です。ざっくりとLGBTやSDGs、カーボンニュートラルやコオロギ食など強硬に推進する人々のことで、その思想的な背景を解説したこの本が少し前に大炎上しました。

この本によるとフーコーやデリダの思想的実践の結果なのですが、すごく大雑把にまとめると「権力によって言語や概念が規定されている」状態から「言語や概念によって権力が規定されるべし」というのがウォーキズムです。

さらに言い換えると要は「’正しく’考えられたものは実現されるべき」という思想になります。要はマルクスの唯物史観みたいなもんです。

問題は’正しく’なんですが、唯物史観の場合はマルクスの理論という基準があったのに対して、ウォーキズムにはそれがなく、いわば「自分の思ったこと」が’正しい’とされる。すると日本人らしさの根源であった「精神世界を世界に投影する」認識と非常に似通ってきます。

つまりは、ウォーキズムが浸透した世界はきっと日本企業のような雰囲気になっていくのでしょう。

日本の従業員はこの「くそみたいな」世界での生き方を何とか生きていて、なんとか脱却しようともがいています。その意味でこの社会からの脱却はひいては来る世界への道しるべになるのかもしれませんし、日本復活も近いのかもしれません。

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