理系が精神分析を勉強してみる①

ドゥルーズへの道

私個人的にずっとドゥルーズを理解したいんですよね。で何度もアンチ・オイディプス読もうとしては挫折をしている笑

そして近頃フロイト、ラカンのセミネールが岩波文庫から出ましたので、これを期に精神分析とドゥルーズまで理解したいというモチベーションです。

精神分析の取り扱い

私は大学一回生ころに当然フロイトは読んだことがあります。なんか精神分析のぱんきょーもとってました。

フロイトは厨二病、大二病にかかっている方々にとっては非常に「キャッチー」です笑。様々なサブカルで引用されていますし、無意識や深層心理といったそれっぽい言葉も興味を引きます。

そして何より「よくわからないけどサドとかマゾとか変態なことを大真面目に語る」という思春期の青年にとっては興味しか引かない「ネタ」でもあるところに興味を惹かれる。

昨今では精神医学における精神分析は否定的です。今はある程度の薬理的に精神疾患の症状を緩和できるため、対話を通じた治療は心療内科意外はあまり使われない様です。

ですので、現在の感覚において精神分析は「無意味」でサブカル知識として消化されるような「信ぴょう性のない変態チックな学問」を大真面目にやる「シュールな笑い」を提供する学問であるように感じます。

私もそのような印象をもちましたし、表層的な「性的な解釈」のみを面白おかしく理解し楽しんでました。

しかし、思想的、科学的な分別がつくようになってから改めて読んでみるといろいろな発見があります。
その後のフランス現代思想の「基礎」になるわけでして、他の古典を読むのと同様にある程度「割り引いた」形で理解するのが重要です。

日本の精神分析の無意味さ

身も蓋もない話ですが実は日本で「正当な」精神分析を学ぶことは実質不可能です笑
日本語訳も出ているわけでなので勉強も研究もされている。しかしながら、それが「精神分析」を学んでいるとは言えない。

というのも実は精神分析は「免許」がある笑。しかも「フロイト派の免許」だったり「ラカン派の免許」だったりといろいろあるようですが、、、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%88%86%E6%9E%90%E5%8D%94%E4%BC%9A

日本では日本精神分析協会が正式な団体らしいですが、メンバーは40人しかいない笑

日本では精神分析は「ドゥルーズやフーコーを理解する」といった「思想=哲学」として取り扱われている面があるのですが、思われている以上にフロイト派でもラカン派でも「臨床」を重視している。

その意味で実は精神分析は「思想」というよりは「実践におけるノウハウの体系」に近いといえます。ラカンは哲学に詳しいのでそっちの方に「寄せて」議論をしているに過ぎません。

映画「インセプション」や「ディパーテッド」等で「心理カウンセラー」が登場するように対話によるカウンセリングは今でも一定数のニーズがあるようです。また、アメリカやカナダでは「メディテーション=瞑想」が一部の人間でブームになって早10年という感じですが、日本人が全く理解できない行動でして笑、このあたりも日本人と欧米の人で「精神や深層心理」というものに対する理解がかなり異なっているのもわかります。

その意味において日本で精神分析を肌で感じることはなかなか難しいのだろうと思います。

精神分析における「科学」の意味

フロイトもラカンも精神分析を「科学」として構築する意志をもち、そのように主張しました。

多くの科学者や評論家はポパーを持ち出して批判するんですが、ポパーをもちだすといまの人工知能も経済学も心理学もすべて「科学」でなくなります笑。なので精神分析の批判だけに都合よくポパーを持ってくるのはアンフェアです。

科学と言ってもフロイトの時代(1900年頃)の科学というとちょうどプランク分布が1900年ですので量子力学の誕生と同じくらい。生物学ではメンデルの法則の再発見のあたりです。ちなみにマーシャルの一般均衡理論が1890年ですので、経済学の「科学化」とほぼ同時期であるのもわかります。

経済学が自らを「科学」と名乗って久しいですが、経済学が「科学」という主張する意味と同様の意味の「科学」を目指しているのが、精神分析のいう科学と言えるでしょう。

経済学の言う科学はポパーのいう反証可能性ではなく「仮説検証」に基づく論理実証主義とそれを「数学の言葉」で表現する点にあります。いわゆる「科学的手法」を定義それを実践することで科学と言っている。

精神分析は先に述べたたように案外「臨床」を非常に重視しています。よくよく調べていると、フロイトの理論はすべて臨床による経験から理論構築をしている。その意味において「仮説検証」に基づく実践を行っているという意味では「科学的手法」によって精神分析を構築している。

また、経済学が力学をオマージュとして均衡理論を構築したように(これが経済の基礎となっているのが物理屋さんからしたらいまだに意味が分からないですが)、精神分析における「欲動」や「リビドー」等の理論もかなり物理を意識しています。

その意味において「フロイト自身」はそれなりに「科学」をしていたといってもよい。そのほかの精神分析家については知りません笑

ラカンがよくわからない「数学用語」を使うのは「科学は数学で表せる、表せないといけない」という意味において使用していたとも言えます(それはある意味でコンプレックスとも言えますが)。

ですので、頭ごなしに非科学的だと否定するほどではなく、フロイトの著作から読み取る限りにおいて、それなりに「筋は通っている」ように感じます。

人工知能との類似性

なぜ「信ぴょう性のない変態チックな学問」が一世を風靡したのでしょう?この印象は何も現在の我々以上に性的に保守的であった当時の方が「怪しい」説感はあったと思います。

ここは推測にすぎませんが、一つは「実は著名人や名家に精神疾患が多かった」こと。フロイトによると神経症の原因は「抑圧」ですので、(性的にも社会的にも)上流階級ほど抑圧が多く、それだけ神経症も多かった。そして、なんだかんだでフロイトの治療がある程度効果があったのだと思います。

もう一つは「無意識」の理解は「全ての人間の営みの基礎」という「野望」や「喧伝」があった。「ありとあらゆるものを単一の枠組みで説明できる」というのはいつの時代でも魅力的です。素粒子における統一理論やミクロ経済におけるゲーム理論もそうですし、昨今のデータサイエンス、人工知能も同様です。

経済学は「人間の社会活動の基礎理論」を目指してしているように、精神分析も「人間の文化的行動の基礎理論」を目指しました。「無意識の運動があらゆる文化的行動=文化、美学、政治などを基礎付ける」と。

1900年代において先に述べたようにメンデルの法則が発見されたレベルなので、我々が知るような生物学的な知識はおそらくほとんどない。
その意味において「人間を説明できる理論」として精神分析による無意識の理論はその当時の知識水準として「promissing」な理論であるといえます。

こう見ていくと現在のAIによる「やがてすべての仕事はAIに置き換わる」論とかなり類似しています。現在の社会では実質的にAIが「万物の理論」として喧伝されているわけですよね。
いろいろと「資格」を付与することで「箔」をつけようとしているのもどことなく現在のAIにも似てます笑。AIやIT系のよくわからない資格沢山ありますし笑

つまりは「1900年代におけるデータサイエンスや脳科学」が精神分析といっても良いでしょう笑。

データサイエンスや脳科学は人間の諸行動の「現象」的を再現するような形で理解に徹するのに対して、精神分析の方は「本質」の理論の構築を目指したという違いはあれど「どちらも人間に対する万能理論」の構築を目指している。
その意味において精神分析とデータサイエンスは「同じ意識の研究活動のポジとネガ」でもあります。

科学として冷静に見てみる

とはいえ、精神分析を現在の目から「科学」というには少々思うところがなくはない笑

では、ポパーを介さずに精神分析を「科学でない」と主張するにはどうすればよいか?どの程度AIの研究と同じでどの程度AIの研究と異なるのか?

もう少し精神分析をざっと眺めてみたいと思います。

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