反証可能性の間違え方
反証可能性は定義でなく帰結である
最近こちらの本を読みました。
行動経済学の反証可能性をみて「行動経済学は科学」であるが、反証されたかというとそうではない。という主張をして、遠回しに「経済学は科学的であって検証性も今後改善されていく」というニュアンスな帰結でした。
しかしその反証可能性の使い方に違和感しかなく、案外色々なところで反証可能性が間違って使われているような気がしてきました。
というわけで正しい反証可能性の使い方についてです。
反証可能性の論理
ポパーはまずイントロで次のように言います。
科学=帰納法による普遍言明の体系、つまりは「全ての〇〇について〇〇であるという言明を操作する経験を元にした論理体系」です。
そもそも、反証可能性はヒュームの経験論批判がベースにあります。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0
要は帰納法から導き出せるのはただの「慣習」だけであると。言うわけです。
ここからカントは「アプリオリな総合判断」を提唱しましたが、ポパーも基本的にはカント派に属します。ハンソンの「観察の理論負荷性」を持ち出すまでもなくカント派は科学について「人間側が理解可能なように落とし込まれた物」と理解します。
では「理論が正しい」ことをどう経験から導き出すか?
経験からなんとかしようとすると「ヒュームの呪い」が常に顔を出してきます。これは心理学系の研究でよくある「いつ実験をやめるか問題=p値問題」にも関係しています。
この問題は「理論が正しいと言うためにどれだけ観察すれば十分に一般的と言えるか?」なんですが、ヒューム的には「全て観察する必要がある」です。心理学実験の様に「有限個の事象」をもって「普遍言明」を検証しようものならば「なんらかの仮定」を付け加えないといけません。例えば大数仮説や連続性みたいな。
つまり帰納論単体では有限個の観察から普遍言明の検証はできないし、大数仮説のような余分な仮定も正当化できない。
一方で普遍言明を否定するのは簡単です。一つでも反例が見つかればその言明は偽になります。
つまり「反例」をベースにすれば「有限個の観察」によって理論が正しいことは検証できないが「まちがっている」のは検証できる。これが反証可能性です。
再現性も仮説検証も反証性の特徴ではない
そのため反証可能性と一般的な科学的手法の主張、例えば再現性は厳密には一致しません。
再現性は「普遍言明の示す同一集合からなる小集合はその命題が真である限り真である」ことですので、その小集合に「反証事例」が含まれる可能性があります。
また、普遍言明が真なら再現性は真ですが、再現性が真だからといっめ普遍言明であるは偽です。
理論というのはある意味で「反証事例を含まない様に普遍言明の集合を規定する」ように理論を構築している。例えば「〇〇条件を課すと〇〇現象が説明できる」みたいな。すると「〇〇条件を満たす全ての事象に置いて〇〇が成り立つ」を限りなく「真に近い」命題にできる。
逆にこのように言うことも出来ます。上記の様に「理論が正しくなる様にアドホックな条件を付加するほど理論の有効性が制限される」ようになってしまう。
それ故にポパーは「より広い範囲をカバーできる理論が良い理論である」という価値判断を加えます。
科学とはさらに全称命題の経験科学でありさらには「より広い範囲=普遍に適応出来る理論体系を構築する営み」です。ある意味で「裾野を広げる行為」こそが科学の重要な特徴です。
また、仮説検証も科学の特徴ではありません。仮説(理論)を立てる→実験観察→仮説検証という流れ自体は正しいのですが、仮説には前述のように「普遍言明」である必要があります。
「特称言明」としての仮説、例えばプロスペクト理論のように「ある〇〇は〇〇が成り立つ」という仮説が検証されたとしても「普遍言明」にはならない。
特称言明をどれだけ集めたとしてもそれが普遍言明にならない(何故なら帰納論は成り立たないから)。つまり「反証性」をもつのは「普遍言明による仮説」のみです。
そもそも反証可能性の対象にならないもの
つまりはポパーにとって「普遍言明の経験科学」というのが「定義」ですので「そもそも普遍言明でない問題」、「経験科学でない問題」は科学にならないし反証可能性もクソもありません。
つまり経験によらない論証、例えば経験に基づかない(実証されていない)仮説を数学や論理学のみで論証するようなものは科学と言えません(プロスペクト理論における効用関数も然りです)。
一応「観察、実験によって検証する」というのはよく槍玉に上がる精神分析でもそうですので一応経済学も「経験に基づいた理論」を構築しようとしているとしましょう。
一方で「普遍言明でない問題」は案外多い。
例えばワクチン。ワクチンはその性質上「全ての人間に効果がある」とまではいきませんので「ワクチンは全ての人間に効果がある」は偽です。医学はこの意味において「普遍言明」を扱わないので、ポパーにとっては科学ではない。
最初の行動経済学の例では「全ての〇〇について効用関数が以下のように書ける」という命題であれば科学ですが、「〇〇の場合には〇〇の効用関数が書ける」では反証のしようがない。
要は「経験論の問題」ですらないわけで、これを反証しようにも「何を示したいのか?」から間違ってるわけです。
また、医療やその他の分野では「一定度の割合」で検証出来たら「真と見なす」という定義で検証を行います。そのため「反例」が見つかったとしても真の定義の中に「一定度合の反例」がそもそも存在しているため、反証されようがないのです。
つまり医学では「真偽を判定できない」というよりは「真偽を判定するとほとんどの場合偽にしかならない」のです。
では医療において「真偽」とは?となるとプラグマティズム的な真理論に近い。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/269526/1/ronso_49_S019.pdf
医学は論理の問題ではなくてその目的からして「健康の増進につながる」のであれば全部真と見なしてもよい。
その場合は反証も無くていいし合理的でも再現性がなくても論理的でなくても科学的事実に基づかなくても構わない。
つまり「プラグマティズム的真偽」と「論理的真偽」は似て非なるものであって「プラグマティズム的真偽」については反証可能性を使えない。
「プラグマティズム的真偽」についての「経験科学」が科学なのかと言われるとちょっとなんとも言えませんが笑、「論理的真偽」を問う問題とは質的にも異なるということだけ言っておきましょう。
プラグマティズム的科学は論理的な境界問題を設定できるか?
「プラグマティズム的真偽」についての方法論的境界問題を調べると多分哲学での博士論文が書けそうですが笑、概略だけ考えてみましょう。ここではプラグマティズム的科学と呼んでみます。
ここでは純粋な「科学」の問題として限定します。例えば抗がん剤治療と手かざし治療で「抗がん剤治療」を科学、「手かざし治療」を非科学と分けたい。
先に述べたようにこれはプラグマティズムの問題ですし、その前提からしてポパーの反証性は使えません(使うと両方とも科学でなくなります)。
双方とも一定度の論理体系を備えているので「論理的な正しさ」での判別は尽きませんし、仮説検証は手かざし治療でも真にすることが出来ます。
さて、プラグマティズムでは「便利さ」は人によって変わるのでプリミティブには相対主義的になります。ワクチンを例に出すと「ワクチンはすべての人間に効果がある」という命題については患者、経営者、政治家、科学者、医者から見て様々な”利害関係”によってどれだけでも真偽を変えられます。
「抗がん剤治療」を科学、「手かざし治療」を非科学と分けたい時には「利益の大小」でしか比較ができない。しかもそれは人によって変わってくる。「抗がん剤の方が科学的根拠に基づいている」と言えどもそれもアクターネットワーク理論がいうような「連関の強度」の問題になっていきます。
つまりなんらかの「程度の問題」であり「価値判断」の問題である。価値判断は相対的であるとしてしまうと、すなわち科学構築主義的な見解が正しくなるのですが、それは認めたくないとするとなんらかの「アドホックな仮説」が必要です。
科学さの政治
やはり科学のニュアンスとしては「普遍言明の経験科学」というのが最もしっくりきます。この意味で「普遍言明でない学問」は科学でない。
たとえノーベル賞を取ろうが人口知能は「普遍言明の経験科学」でないし、医学もデータサイエンスもプラグマティズム的な真理判断ですので科学ではないと言いたい。
しかし、それは「プラグマティズム的科学」の人々も同様です。前々から指摘していますがみんな科学を名乗りたいのです笑。そもそも真理についての根本的な違いを同等に扱おうすることで不都合が生じている。これが科学の定義が曖昧になる所以です。
ぶっちゃけ過去の境界問題を見ていると「自分が思う科学が入らないから正しくない」と言っているように思ってしまいます笑
これが所以で科学哲学では「境界問題」を諦めた笑
つまり科学の氾濫は科学者側及び「科学をやっているのかよくわからない人たち」によるものとも言えます。
そしてそれは「よほど痛い目(ルイセンコ事件のような)」に合わない限り、反省しないでしょう。