BLEACHを誰が見てもダサくする事は可能か
前回
久保帯人やBLEACHのポエムというフォーマットの中で何らかの文章が載っていたらそれは『良いもの』(または逆張りして『悪いもの』)であり、キャラクター性やメッセージ性が何層にも重ねてある詩と感じて評価してしまう部分は大いにある。
いわゆる『オサレ』と呼ばれるものか。
この単語はかつてBLEACH連載中に久保帯人のポエムや作風、演出を「お洒落とは違う」と冷笑的に揶揄する言葉として使われていたものであるが、今では唯一無二たる久保帯人イズムを称賛する意味を持つ言葉となっている。
BLEACHのコミックス巻頭に
「一生一緒にいてくれや」
とだけ書かれていても、豪快さのあるキャラクターが愛する者に伝える想いなんだなと感じるだろう。
「レゲエ、砂浜、big wave」
とだけ書かれていても感心してしまうと思う。
恐らくは表紙に描かれたチャラ男のキャラクター性が端的に、焦げ付くまで煮詰められた詩だと感じるだろう。
仮に『こんなBLEACHのポエムは嫌だ』という大喜利があったとして、果たしてそれは成立するのだろうか。
そこで各々が考えるダサさを極限まで表に出したとしても、それをBLEACHのポエムというフォーマットに落とし込んでしまうと、『普段はダサいけど決める時は決める三枚目キャラ』を強調するかのような文章に留まってしまい、本当のダサさやスベリ具合を表現することはかなり難しいと思う。
以前に身内で『オリジナルの斬魄刀の解号をどれだけダサく作れるか』というのを試した事がある。
原作では
「舞え、袖白雪」だとか
「吼ろ、蛇尾丸」だとか
「面を上げろ、侘助」だとか
カッコよく作られたものが多すぎる。
我々が考えたダサ解号は
「盛り上がれ、蚰蜒蚰蜒」
「盛り上がれ」はカッコよくならないだろう、「げじげじ」はカッコよくならないだろう、これが一番ダサいだろう。という事でその時は話が終わったが、後から考えてみればこれをノリノリのパリピキャラが言ったらと考えると「盛り上がれ」の部分がダサさではなくオサレに塗り替えられてしまい、蚰蜒蚰蜒というワードや文字列の悍ましさがパリピキャラにギャップを産んで魅力に変換されてしまうのではないかと感じた。
最終的に
「盛り上がれ、邪々丸」
ならダサいと言う話になったが、これも久保帯人先生はオサレに料理してしまいかねない気もする。
無理なんじゃないか、BLEACHをダサくする事って。
原作の
「お早う、土鯰」も
「打っ潰せ、五形頭」も
三枚目キャラの美学みたいなものがあって、なんならカッコいいから。
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