憎いねカグヤヒメキクイゾウムシ
少し前、帰り道の道端にあった腐朽の進んだ篠竹を1本だけ割ってみると、中から細長いゾウムシが何匹も出てきた。
ここで集団越冬をしていたようだ。
この虫の事を調べてみると、どうやら
カグヤヒメキクイゾウムシという和名らしい。
他にもチビカグヤヒメキクイゾウムシ等の近似種がいるとの事で、自分はまだ正確な同定には至っていないため断言は避けたい。
本種は竹類及びタケノコを寄主として生きるゾウムシで、越冬場所も竹の中を選ぶ。
今回は和名の由来となった物語の如く、竹を割った際に本種に出会えたが、同じような出会い方をした虫屋も非常に多いのだと思う。
本種と同じようにメダケ等を寄主とするニホンホホビロコメツキモドキやハイイロヤハズカミキリ等を狙った採集で遭遇するケースがほとんどだろうか。
まさにかぐや姫そのものといった出会い方をした自分は、この虫の和名を知った際に『粋』を通り越して『憎らしい』ような感情が生まれた。
命名者のセンスがあまりにも『粋』すぎていて、それが半永久的に残る事に羨ましさと美しさを覚えたからだ。
「敵いっこない」「一本取られた」とも感じた気がする。
そしてその和名はこれから先、翁のように竹の中からこの虫を見出すであろう後世の虫屋達へ向けた置き土産にも思えた。
自分を含む虫屋の出会い方と感慨は命名者にそうして先読みされていたのではないだろうか。
少しだけ間を置いて、『粋』である様を「憎いね」と形容する日本古来よりの文化に、自分が無意識で追随していた事に気付く。
あまりにも粋な様を見た時、人は自然と憎らしさを感じてしまうものなのかもしれない。
かつても同じようにしてこの言葉が生まれたのだろう。
「粋である」「敵わない」「羨ましい」、これら全てが複雑に入り混じった好意的な称賛はある程度「憎い」という感情や言葉に集束してしまうように思える。
またもや自分の感性を先人に先読みされていたかのような感覚を覚え、それに対しても『粋』を感じて『憎らしさ』が生まれた。
今回はカグヤヒメキクイゾウムシを通じて研究文化の面白さ、日本語の面白さ。
それらの一端にそれぞれ同時に触れられた気がする。
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