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スタバでMac、オモシロイこと、クレメンス。


どうせなら。平日の昼間っからスタバでMac。
どうせなら。イケてる人たちと、オモシロイことして。
どうせなら。渾身のデザインを世の中に送り込んで。
どうせなら。わたしたちと。
かっこつけちゃって、生きてみませんか?




とあるオンラインデザインスクールが公式ホームページで提唱するキャッチコピー。
それがTwitter上で嘲笑の槍玉に挙げられていた。

個人的にはあまり好きな広告ではなかったように感じた。自分のような人間を対象にしていないのだから当然だろうが。


「平日の昼間っからスタバでMac」
「イケてる人たちと、オモシロイことして」
という部分がダサい、臭いと方々から言われているが、恐らくは広告側もそれは分かっているように思える。
どちらかと言えば『そういった漠然とした理想に憧れを抱きながら日々を悶々と生きている、何者にもなれていない層』を呼び込もうとした目的の広告に見える。
「自分の居場所はここじゃない」「もっと輝ける場所があるはずだ」と感じて生きる者に届けようとしているように見える。

「かっこつけちゃって、生きてみませんか?」
もダサいと言われがちだが、ここは顧客に向けてかなり正直に書いてあるように感じるので個人的には好感が持てる。


現在では意識高い系イメージの古典扱いにさえなっている「スタバでMac」を今更に全面に出している辺りで『本当の最新鋭』『本当の最先端』『本当のオシャレ』を狙っているとは考え難く、やはり悶々と生きる者達への『漠然とした理想』に訴えかけるものとしての側面が強く感じられる。それはむしろ古典の方がイメージしやすい。

「スタバでMac」を『本当のオシャレ』ではなく、古典的な意識高い系イメージさえも自身の憧れとして考えてしまう周回遅れな者達への擬似餌として全面に出しているイメージか。
だからこそ、今更感があるキャッチコピーの方がそれらの者に分かりやすく伝わるという面があるのだろうか。
古典ともなれば靴磨きの少年にも話が届く。


「イケてる人たちと、オモシロイことして」もそうで、『(個人で)面白い事ができる人』ではなく『面白くなりたい人』『何かのきっかけがあれば自分も面白い事ができて何者かになれると夢見る人』という典型的な悶々下層に訴えかけて引き込もうとしている、よくあるベンチャー的仕草だと感じる。


イケてる人たちと一緒にするオモシロイこと。
仮に本当にイケてる人たちが相手だったとして、それはイケてる人たちと一緒じゃなきゃできないというか、自分が生み出していない物に『一枚噛ませてもらっているだけ』なのではないかと感じてしまう。自分、いらなくないか。
仕事やアイデンティティというより、遠足のような思い出作りに近くないか。

「一枚噛ませてもらう」という言葉や状況は自分の仕事や能力に自信があれば絶対に出てこないものだ。その歯車は誰でもいい部品だから。
それ『オモシロイ』か?
ここに満足してしまうか否かで「面白い人」と「面白くなりたい人」の違いが出るのだと思う。


そもそも面白い事ができてアイデンティティを持つ者は、あまり「面白い事をしたい」と言わない。
現状が面白くないから「面白い事がしたい」と語っている事が多く、そこに具体性がある事は少ない。


『「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!』というジョジョ5部の言葉ではないが、本当に面白い事をしたい者はやりたい事の我慢ができず既に発信を始めてしまって、とっくに苦しみ抜いて、楽しみ抜いて、「面白い事をしたい」という思考の段階から抜けている者が多い。生存バイアスでもあるのだろうが。



根本的な話として、『スタバは何者かになるために』もしくは『何者かである事を証明するためにMacを持って居座る場所』ではなく、『好きな物を飲んで落ち着く場所』という数ある選択肢の1つだと思うが、もうこの時点で認識に違いがある。

目の前のスタバを、その味を、そのまま楽しんでほしい。
アイデンティティやアイデアや余裕が生まれるのは、そこからだと思う。

そしたらその後は、イッチのオススメの味を、ワイに教えてクレメンス。






















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