見出し画像

居酒屋の人間負債解消論

居酒屋って場所で働いてると、お客さんとお話するのが毎日の日課のようになる。お酒を注ぐことや料理をお出しすることも、もちろん大切な仕事なのだけど、それと同等それ以上に大切なのがお客さんとの会話だ。

ご褒美に飲みたいお酒やそこそこ旨い料理なんて、スーパーやコンビニに行けば買うことができる。加えて言うならば、居酒屋よりも安く手に入れることができることの方が多いだろう。

それでも、居酒屋という場所に来てくれるのは「会話」を楽しみにしてくれるからだと僕は思ってる。

「孤独」には限界がある。

僕たちが生きているこの現代社会は「個人」と「他者(個人の外にいる人間)」との関係性によって、動いていると僕は思っている。

個人と他者との関係性は対面(リアル)やSNS(ネット)を触媒にし、お金や物の有形資産優しさや思いやり、信頼感といった無形資産の交換取引によって構築されている。

この交換取引は、日々行われ、この社会は動いている。いや、社会というよりも人間が構成した共同体というべきか。

この交換取引が行われ、蜘蛛の巣のように広がり、個人が共同体を動かし、社会というものに形成される。

ただ、ここの交換取引は「等価交換」ではない場合がある。
例えば、AとBの間で資産の取引(コミュニケーション)が行われた場合、どちらかに負担が残るケースがある。たぶん、これを読んでいるみなさんの中にも、「わりにあわねぇな」と思ったシーンが少なからずあるはずだ。このわりにあわないという感覚を便宜上、「負債」と呼ぶことにしよう。

取引によって生まれた負債は一旦、自分自身のなかに収納される。この収納先を僕は「孤独」という倉庫に入れていると思っている。自分が1人の時でも耐えられるものだ。

この負債は徐々に溜まっていくが、信頼感などの相手との関係性などから生まれる無形資産との交換取引によって、それは解消されていくのだが、この取引は消耗が激しく、無形資産の貯蓄は意外と早く消耗してしまう。双方向にこの負債と無形資産の取引が行われているのであれば、問題はないのだが、一方向的な取引が行われると消耗は激しい。いや、摩耗かな。

孤独という倉庫に負債は無形資産との交換取引ができなくなるため、どんどん溜まってしまい、孤独の中で処理できる許容量を超えてしまう。

負債が溢れ出してしまう。

そして、人は孤独の許容量を増やそうとするあまりに、さらに孤独を大きくしてしまう。

そうなると、共同体ではなく、個人だけによって形成されるぽつりとした世界ができあがってしまう。

暗闇にも近い、誰もいない世界が生まれしまう。

職場で大変なことがあった。
パートナー(恋人)とうまくいってない。
憎くてしょうがない奴がいる。
自分の力のなさに焦りを感じる。
自分は何者にもなれてない。

この孤独から溢れる負債を解消するお手伝いできる場所が「居酒屋」というだと思う。

ただ酒を飲むだけであれば、最初にも言ったようにコンビニやスーパーでも問題ないのだ。だが、コンビニやスーパーでは個人の孤独のオーバーフローを解決してくれることはない。むしろ、加速させるだろう。そこにはただお金とお酒という商品の有形資産の交換しかされていないのだから。負債に触れることはほぼほぼないのだ。(温もりをもった店員さんがいるなら話は違うが、マニュアル整備されてしまった店舗が増える中でそれは難しいだろう)

居酒屋には誰かがいる。そこでは負債を愚痴という形で発散することができ、孤独の許容量をもとに戻すことが可能だと僕は思っている。

この負債を解消することが僕たちの仕事だ。

愚痴ればいい、人間だもの

愚痴ればいい。
助けを求めればいい。
弱音を吐けるだけ、吐き出せばいい。

意外と吐き出せば、解消することも多々あるんだから。

孤独が溢れてるなと思ったら、近くの小さい居酒屋に行ってみればいい。

意外と、その孤独、受け取ってくれると思う。




記事を読んでいただきありがとうございます。ただいまお店は長期休業中のため、当店のレモンサワーを封印しております。店舗継続のため、もし記事を面白いと思っていただけましたら、サポートをしていただけると嬉しいです。