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ろう児の手話表現「かまわない」について

聾世紀 No.056の中で米内山さんが、デフファミリーのろう児が手話を発語し始める時の話をしている。

2:47(聾世紀 No.056)
子どもが「かまわない」の手話をこぶしをアゴにぶつける表現がよく見られる。
本当は小指をあごにチョンチョンと付ける表現なのだが、こどもは見えている親の手話を、自分の手にまだ正確に投影できていない段階がある。というお話。

この話を見てふと思ったんだが「もしかして子どもの視線では、親の小指は本当に見えていないんじゃないか」と。
斜め下から見上げている角度からすると、ちょうど大人の小指は隠れていて、
ただただ子どもは、見たままを正確に表現しているだけなのではないかと。
そのうち親からしっかり修正されたその時に、子どもは自分が見えていなかったことに気づくのではないか。

私は幼い頃「自転車」を「ジレンシャ」と言っていた。すでに文字が読めておしゃべりも達者だった。本には「じてんしゃ」と書いてあることも知っていた。
だが仲間のガキ軍団は皆はっきり「ジレンシャ」と言っていた。大人もそう言っているように聞こえた。
今思うとあれは一種のリエゾンだったのかなぁ。
小学校に入る頃に、はたと文字との整合性がないことに気づき「ジテンシャ」と言い変えることにしたが、今だに「体育」「雰囲気」は漢字がどうであれ、私には「タイク、フインキ」と聞こえる。

追記:もちろん米内山さんに意義申し立てしているわけでは毛頭なくて、手話を見ながらふと思いついた。というお話です。


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