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憧れの街!博多に住む!~起業~

自分の人生で、まさか九州に住むことになるとは思わなかった。
 父親と母親が出会い、結婚をした地ではあるが、転勤族であった父親は私が生まれたときは、兵庫県の西宮市だった。小学校1年生で三重県に移り住み、高校を卒業ころには関東へ移住した。私も高校の頃は遊びまくっていたので、試験勉強は全くせず、塾だけの勉強で挑み、当然だったかのように大学受験に失敗し、一浪して家族と共に関東へ行った。関東と書いているのは…茨城県だったから。

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|人生が変わった瞬間

地元を出て、関東への引越。
一番きつかったのは、友達が全くいない状況。一浪とはいえ、数学一本の受験だったので、一日6時間も勉強をすれば余裕で受かるような大学だった。ちなみに関西の大学だ。
 当時、親元から出ることなど想像もしていなかったが、大学は地元の友達が多い大阪に行く予定だった。でも、当時は情報は自分で調べる時代。自分で調べるとは、インターネットがまだ普及していないので、地元の高校や図書館などに行って、調べるしかなかった。情弱だった私は、一年我慢すれば、また友達に囲まれる学生生活が出来るものだと信じて、家族に着いていって、関東(茨城県)に行った。

それが人生を変えた瞬間だった

 ”人生が変わった”といっているが、決して大袈裟にいっているわけではありません。高校の時は、友達に囲まれて生きていた。永遠にその時間が続くと思っていた。今思えば情弱にもほどがあるが、本当に思っていた。

 今もある意味そう思っているところがある。

友達とは、駆け引き無しの平等な関係だから。
だけど、現実はそんなに甘くもなければ逆に厳しいものだった。
 たった一年我慢すれば、大阪に帰れると思ってたけど、ひと月である意味のホームシックになったのだ。しかも地元に帰る家もない。毎日々寂しくてしようがない。友達に電話しても、通話料が高いので毎日長電話は出来ない(当時は携帯電話の通話料金は高かった)。そして、友達もまた新しい生活があることを知った。それでも関西=大阪に帰りたかった。一年間一日6時間、塾に通いながら勉強をした。それが、まさかの

一年後、同じ大学を受験しようと思ったが、
試験内容が変わっていた

えっ!?
そんなことあるの?一年間数学。それも数Ⅰの範囲しか勉強していないのに、受験内容が英語と国語になっていた。誰もなにも教えてくれなかった…数Ⅰの範囲で受験できる大学は沖縄の大学一高だけ…今、思っても「そんなことあんの?」としか言いようがない。信じられないようだが、それだけ情弱だったのです。
 高校の先生なんてなんにも相談に乗ってくれないし(高校時代好き勝手やってたので相手に相手にされていなかった)、願書をとった瞬間に試験内容変更なんて…

本当に『無知は罪』

 茨城県で一年を過ごしていたが、ホームシックになっていた私は、6時間の勉強と、アルバイトに精を出していた。グランドオープンを控えていたガソリンスタンドにレギュラーレベルでバイトをしていた。当時のガソリンスタンドは全盛期の時代、なにが全盛期かというと、若者の車時代である。ガソリンはレギュラーで72円/㍑。ハイオクですら82円/㍑なのだ。全ての収入をローンにかけ、車をいじっていた。私は田舎者出身だったので、原チャリで十分だった。しかし、そのガソリンスタンドは24時間営業。車の魅力にはまったのは5秒でした…

寂しくて車にハマった。

本当にアホです。
浪人生の分際で、200万の車をフルローンで組み、ボーナス払いを設定。当時の思考では就職をすれば絶対にボーナスが出ると思っていた。なので半年に一回は10万レベルの請求がくる…いくらガソリン代が安いとはいえ、当時はガソリン代の分、パーツを買っていた。給料はほぼ、ガソリン代とローンとパーツ代に消える。

 そんなときに、受験できない状況…やむを得ず千葉の大学受験をした。
ガソリンスタンドの友達が行ってる学校だった。小論文で受験が出来るという。
その大学を一本で受けた。受かった。で、その大学に通う。

でも、つまらなかった

そう、関西に帰れなかった。大学に行っても、車の維持費でバイトの毎日。大学まで実家から片道100kmあった。アホだから車で通った。ガソリン代も半端ない。で、更にバイト…

まさに負のスパイラル

「若いっていいな~」
と今なら、笑えるが当時は本当に悩んでいた。
大学に友達が出来ない。地元の友達は日に日に疎遠になる。車に維持費がしんどい。気が付けばバイトばっかりしている。で、1年の単位をほとんど落とし留年が確定していた。誰だ!大学は遊んでても卒業できるって言ったヤツは!と本気で思っていた。

 大学に行ってても意味を感じなかった私は、2年になってすぐ、入学して1年1カ月で退学した。
そのまま、バイトをしていたパチンコ店の社員になった(大学の通学途中のパチンコ店でバイトをしていた。ガソリンスタンドと併用してw)。

心を地元に残して。

結局、地元の楽しい記憶が美化していき、半ばどうでもいい思考に陥っていた。
 そこからは散々だった。
8年間埼玉に住み、そのあとは全国を転々とする生活を送る。
まともな家に住んでいたのは、埼玉の後4年くらい。
28歳くらいからは、経営コンサルトンと言う名の、派遣社員…依頼があれば全国に飛ぶ。住む部屋は依頼のあった法人様が用意した部屋。1ルームのレオパレスならまだいいが、店舗上の寮だったり、ヒドイときは見ず知らずの同僚といきなり同居…しかもワンルームで…

私は仕事を優先し、プライベートを捨てていた

いつの間にか住む場所なんてどうでもよく、仕事を優先した人生を送っていた。
なので、信じられないと思うが28歳から43歳まで、私は家賃を払ったこともなければ水道光熱費などほとんど払ったことが無いのだ。住んでいた部屋なんで車一台で引越が出来るレベルの荷物しか持っていなかった。

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|人生の転機

 人生の転機が来た!5年前の旅行だった

私には、信じあえる仲間がいる。
青年期(20代)を孤独に生きてきたが、35歳の時に、本気で信じられる仲間が出来た。
男だけの5人組だ。
正直気持ち悪い話だが、その4人とはそれぞれいろんな人生があり、たまたまその時期に人生が交わったのだ。

 その4人と知り合って名前を付けた。

漢氣會

と。漢氣會とは今や私の人生の主軸となっている。
臭い言い方かもしれないが、
「互いに尊重し、常に平等の仲間」
それが、漢氣會という仲間だ。

 青年期に友達と離れ離れとなり、自分の人生を自分で生きてきた。心のよりどころなんてなく、自分で決断し、自分で考えて生きてきた。そんな生活に疲れていた時に結成されたのだ。男5人は別々の地方で仕事をしているが、ひとたび声が掛かれば、どこにでも行って集まる。旅行も数回行った。もちろん男だけで。 

そんな漢氣會で最後に行った旅行が九州旅行だった。
みんな九州なんて縁もゆかりもない土地。知り合いもいない。

だけど、この街に魅了されたのだ。
みんな私と同じ仕事をしている。赴任先に知り合いも友達もいない。だから休みが取れれば、どこにでも行った。半年に一度は休みを合わせて旅行に行ったり誕生日にはサプライズで襲撃もした。そして、最後に旅行に行って1泊宿泊したのが博多の中州である。初めて行った土地だったのだが、そこには勢いがあった。ライフラインが完璧に整っていた

 私たち漢氣會メンバーはそれぞれ東京、大阪は頻繁に行っている。
 東京は、新幹線に駅は中心にあるが、羽田空港は湾岸に位置しており、東京駅まで20分はかかる。
 大阪は、新幹線の駅は川を挟んであり、伊丹空港なんてもはや兵庫県だ。
 博多は、中心に新幹線駅があり福岡空港はそのお隣の駅。街も博多、中州、天神をわかりやすく密集しており、住んでいる人たちに力を感じた

住むならここしかない

 大げさかもしれないが5年前その地を訪れたが、しょせんは旅行。
住みたいと念願したところで、仕事がなければ住むことなど不可能である。では、どうする?答えは一つしかなかった。それは…

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|起業すればいい

 単純に”起業”というイメージがそれぞれの頭の中に確立した。
 そして、5年後。
 この地で漢氣會のひとりであるUGがそれまでの仕事を辞めて一人単身福岡に移り住んだ。そうとうな覚悟である。2019年2月のことだった。
 私は山口でクライアントがあったので、山口で住むことになる。UGが移り住んだ時期と同時に私は独立をしたので、まずはUGが代表となり、私と二人で立ち上げたのがMONvalryです。

2019年7月1日 株式会社MONvalry起業

そして、私もUGに遅れること1年4か月後の2020年6月26日、私は5年間の憧れであった博多に居を構えることになる。それまでは本当に考えられなかったことだけど、やっと自分の城を構えた瞬間だった。大袈裟な言い方だけど、10年以上自分の部屋を持ってなかった私にとって、

思考が具現化した瞬間

でもある。今日この日から博多の住人として、人生の岐路に立った。
これからもっともっと思考が具現化するために、夢をひとつづつ叶えていくことを心に誓う。

そして現在、漢氣會の仲間は7人になっている。

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