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「封印」 第二十三章 腐敗



 夜、男は部屋を出た。もう我慢できなかった。こんな隔離で、食糧も底をつき、職場にも行けず、何も出来ない。
 護身用のナイフを手に、男は非常階段から一階まで降りた。見張りの警官が二人、アパートの玄関前に立っていた。その内の一人が、こちらに歩いて来た。銃を背中に回し、ズボンのチャックを開けながら、非常階段の扉を開けた。この前男の顔を殴った警官だった。
 警官は男に気づいた。
「何してんだお前?」
 警官は顔を顰めた。
「さっさと戻…」
 男のナイフが、警官の腹に突き刺さった。
「ああ!」
 警官は倒れた。男も倒れた。倒れながら、刺しまくった。怒りと狼狽とで、手は止まらなかった。
 逃げるしかなかった。
 男は立ち上がり、警官の銃を手に、入り口に走った。
 もう一人の警官が振り返った。その胸を押し退け、男は走り続けた。
 背後で、銃声に続き、男性の悲鳴が聞こえた。警官の悲鳴に違いなかった。
 振り返る。
 大勢の群衆が、もう一人の警官に覆い被さっていた。
「なんだあれ…」
 男は背を向けた。目の前に、女の顔があった。満面の笑みで、自分を見ていた。
「え…」
 女は口を開けた。男の首に、その歯が食い込んだ。
 死ぬ。
 そう思った直後、女の顔が燃えた。男の手も燃えた。世界が炎に包まれていた。

 地平線、森の向こうで、爆発が空を照らす。遅れて、空気を揺らす音が追いつく。
「バハイはもう終わりだな」
 コウプスは北の方角を見つめていた。その足元の、輸送機の真横の溝に、アンサングとエテューは、反乱軍兵の死体を投げ下ろした。
 エイナン空港での戦闘は終わった。死んだ護衛と、空港を守っていた兵士達が、感染者達と共に並べられた。
「何をこんなに必死に守るんだかね」
 コウプスはタバコを放り投げた。
 焼け焦げた森と、もう動かない死体の山は、今も煙を上げ続けていた。その煙が包み込む太陽が、ぼんやりとした朝日を、飛行場に差し込んだ。
 イウェンは、朝焼けに燃える南の空を見上げた。空港を囲む森は静かだった。
 南で何かが起きている。
 皆がそう思った。森はあまりにも静かだった。燻る炎の音だけが、かろうじて聞こえた。
「早く移動しよう」
 アンサングに、一同は速やかに従った。
 南から生暖かい風が吹いた。
 何かが強烈に腐った匂いだった。
「ヤアウェ村の方角だな」
 頭上を、ヘリの一団が通過していく。
「主軍だ」

 空爆は続き、遠くのセネゴグの街は揺れる。
 夜の帷が落ちると同時に、国軍の主軍はヤアウェ村に到着した。村の先には、果てしない密林が広がっていた。その森から、生暖かい風は、吹き続けた。
 風は吹いても、誰かの呼吸一つ、聞こえそうな空気だった。
 村は静かだった。置き捨てられた車と、薬莢、点々とした白骨死体だけが、灰色の通りに転がっていた。通りに面する扉の多くは半壊するか内側に倒れていた。特にダムナグの研究施設の周りから、戦闘の爪痕が目立ち始める。
 軍は次々と、通りと建物をクリアしていく。感染者で埋まっている街を、空爆と空からの射撃、戦車と歩兵の波状攻撃で着実に駒を進める。民間人で溢れる中幻と違い、南耀での軍のパフォーマンスはとても効率的だった。
 軍が前進する傍ら、公安とダムナグの部隊も、主軍の戦闘範囲を回避しつつ、研究所への距離を縮めていた。
 それを、ライリー達は、施設の陰に隠れ待ち伏せていた。
「部隊、大通り東通過中」
 アシュラの無線越しの囁きに、レオンが答える。
「大通り西、射光準備完了」
「大通り南、いつでも動ける」
 とファザム。シエラがそれに続く。
「大通り北、いつでも」
 再度、大通り東のアシュラの声が入る。
「現在バーガー屋を通過中。図書館前まで、10秒」
 ライリー達は、静かに、その図書館前に照準を合わせた。
「射撃用意、目標、図書館前」
「了解」
 静かに答える一同。
「5…4…」
 アシュラの声は一層低かった。
「2…」
 引き金に指をかける。
「1」
 そこで、気配を感じた。
「待て」
 空気が一気に冷たくなった。
「なんだこれ」
 兵士が振り返った。全員が本能的に、南を見ていた。ライリーも、壁をかわし、南の窓に向き直った。
 南の森。ぴたりと、風が止んだ。
 動かない木々。
 でも、静かではない。
 風でも動物の鳴き声でもない何かが、その木々の間を埋める影から、聞こえた。それは笑い声だった。感染者の狂った声ではない。興奮を押し殺した、闇の微笑み。
 皆が、あの祠を思い出した。
 神殿は空爆で破壊されたと思っていた。今思えば、あんなものなんの意味もなかったのかもしれない。影は、炎の下で、膨れ続けていただけなのかもしれない。ここに来る人間の肉を待ち続けて。
 森が揺れた。ライリーは叫んだ。力の限り、叫んでいた。
「南だ!!!」
 巨大な影が、目の前に立ちはだかっていた。

 突如、銃声が響いた。いくつも。最初は、南から。そして次は、北から。アンサング達は壁を盾に、跪いた。
 アンサングは本軍に無線を入れた。
「状況は?」
 返答は無かった。ただ銃声と、悲鳴が闇夜から返ってくるだけ。そしてその音源は規模を増し、同時にこちらへの距離を狭めてくる。
「南下を継ぞ…」
 壁が壊れた。爆発で、瓦礫が吹き飛んだ。
 粉塵の中で、感染者達と、主軍の兵士達が揉み合っていた。
 アンサングは立ち上がった。滑る。内臓。隊員が2人、下半身を失って転がっていた。 
 その奥で、立ち上がる影を見た。
「ライリー!」
 エテューが叫んだ。ライリー達は、崩れなかった建物の中に進んでいく。そこは研究所に見えた。ダムナグの研究所に他ならなかった。壊れかけた扉に、ライリー達は走る。
 どこに逃げる。
 急激に、ライリーの頭を、怒りが満たした。
 お前さえ、いなければ。反乱さえ、起こさなければ。感染者さえ、運ばなければ。
 エテューは全弾丸を撃ち込んだ。一発だけ、ライリーの背中に命中した。防弾ベストに遮られる。
 ライフルを再装填しながら、走る。
 銃声で、背後に公安が続くのが分かった。感染者の牙を躱し、階段を駆け上がり、扉を蹴破り、撃ち込む。
 廊下の先の鉄の扉の裏に、ライリー達は消えて行く。
「待てえええええ!」
 ライフルに最後の弾倉を入れ、エテューはその扉に突進した。仮にそこで何十人の敵が待っていて、蜂の巣になっても良かった。ライリーの体にもう一発撃ち込めればそれで良かった。現に血の跡は濃かった。
 扉を引き、数発撃ち込む。
 暗闇で、影が砕けた。死んだ影を足元に、戦士が一人、短剣を振り下ろした。
 銃で受け止めるも、腹を蹴り飛ばされる。
「どけ」
 エテューを踏み越えたのは、イウェン。
 拳銃と短刀を手に、戦士達に切り込む。
 湾曲した中幻造の諸刃の短剣と、赤い緒がブラ下がる、東威産の片刃の短刀が切り刻み合う、通路。
 その先に、エテューはライリーを見つけた。
 二人の護衛に背中を押され、次の部屋に進んで行く。
 エテューは走った。扉を掴んだ時、強烈な銃声が扉の向こうから響いた。
 弾倉を入れ替え、扉を開ける。
 黒い、鋼の、巨大な狼が、口を開けていた。

 ライリーの横で、アシュラが撃たれた。振り返りながら応戦するも、敵は巨大な図体を素早く隠した。
「こっちへ」
 レオンが銃を構え叫んだ。レオンがカバーする間に、ライリーはアシュラの銃を手に、レオンを通り越した。一瞬、通路の下で、ナイフを手に切り刻み合うシエラともう一人の敵が見えた。
 シエラのナイフが、痩せた男の全身を抉った。怒りと焦りで、相手は大ぶりになった。そのナイフを掻い潜り、回し蹴りが、相手の顎に直撃した。
 相手は窓を割って落ちていった。
 ライリーは進んだ。廊下の先に、最下層へつながる階段がある。
 突如、扉が開いた。
 公安とぶつかった。

 イウェンの短刀が、中幻反乱兵の鳩尾と脇を切り開いた。
 聖戦士を名乗る戦士達は、痛みの声を上げずに、倒れながらも、最後の一振りを、イウェンに繰り出す。
 それを、イウェンは踏み潰す。
 湾曲した短剣を、短刀でへし折る。聖戦士の拳がイウェンの顔を打つと同時に、喉に鍛刀を突き入れる。顎を押し上げ、額を戦士の刃を抉ると同時に、腹を切り裂き、殴り倒す。
 狭い通路で、中幻の聖戦士達と、東威の公安は刻み合った。
 壁に頭を擦り付け、股間を膝で蹴って首を刺す。投げ下ろし、顎に膝を打ち込み、顔を柄で砕く。
 死んだ中幻の聖戦士達を背後に、銃を掴み、イウェンは進む。
 ライリーの護衛の足首、腿、股間、腹、脇、首、脇、肘、手首から、順に血飛沫が上がった。倒れながらも、イウェンを押し倒す側近。その体を押し除け、立ち上がるイウェンとライリーの間に、一つの影が降りた。
 シエラだった。

 銃弾が狼の体の上で弾け飛んだ。狼は間合いを詰めた。ショットガンが放たれた。
 狼の顔が砕けた。
 鋼の爪が防弾ベストを突き抜けた。
 鋼の狼に押しつぶされ、胸から血を流し、絶叫する警官。粉々になった鋼は、警官の血に触れる事で融解し、傷口から、警官の体内に入り込んでいく。
 警官の頭にエテューは拳銃を撃ち込んだ。弾倉を入れ替え、背中のライフルを掴み、こちらも再装填する。
 背後を振り返る。それが癖になっていた。
 案の定、口を開けた感染者が飛び込んできていた。
 その額を銃身で叩き落とし、こめかみを踏み砕く。
 目の前には通路があった。ライリーが逃げて行ったのはこの通路と、その先の階段。
 エテューは進んだ。
 廊下の扉が倒れた。雪崩れ込んでくる感染者達。彼らが貪るのは、反乱軍兵士と、ダムナグの職員。
 エテューはライフルの引き金を引いた。冷静に、頭を狙い、一人ずつ撃ち抜いて行く。ライフルの弾倉が落ちれば、拳銃を抜き、連射しつつ、距離を縮める。
 最後の一人の頭を撃ち抜き、再装填しつつ、背後を振り返る。
 誰も来ない。ライフルを捨て、反乱軍兵士の拳銃とナイフを取り、進む。
 階段を登る。
 銃弾が顔の真横の壁を砕いた。応戦しつつ、数歩下がって硝煙弾を投げ込む。
「エテュー」
 小さな声に振り返る。アンサングだった。
 弾の切れた反乱軍兵の拳銃を捨て、腰の拳銃を抜く。アンサングが手榴弾を転がした。
 爆発と共に、忍足で走り込む。
 巨大な影が、一つ。目の前に立った。
 男の手が拳銃を弾き飛ばし、床に投げ下ろされた。
 巨漢の拳が突き下される。その拳にナイフを突っ込み、腹を蹴る。
 ほぼ同時に、アンサングの蹴りがその巨漢の顎を打った。
 エテューは立ち上がりながら、最後の弾倉を拳銃に差し込んだ。
「行きな」
 もみくちゃになりながら、アンサングが言った。

 アンサングの拳が、巨漢の顎を打ち抜いた。
「シャガル、だっけ?」
 うめくシャガルに、アンサングは後腰の拳銃を抜き、向けた。
 背後に誰かが走り込んできた。
 伏せながら、銃を向ける。
 鋭い閃光が、手の甲を切り抜けた。銃が落ちる。ナイフを躱した頭に、膝が打ち込まれる。それを掻い潜り、後に転がる。
 巨漢と、痩せた男が、廊下に立った。
「暗殺課じゃん」
 痩せた方にも、見覚えがあった。ダムナグの傭兵達。
「元軍人シャガルと、公安のグランク」
 アンサングは足首のナイフを抜いた。
「行け」
 グランクの指示に、シャガルが窓を割った。その手にアンサングのナイフが伸びた。それをグランクのカランビットが封じた。
 見え透いた動きだった。
 アンサングの頭突きが、グランクの顔を潰した。
 シャガルは窓から降りていった。
 それを視界の片隅で見送りながら、アンサングはナイフをグランクの手首に突き通した。
「前から目障りだったんだよ」
 カランビットを奪い取り、それを握った手で、何度も顔面に拳を突っ込む。
「ダムナグの犬がよ」
 頭蓋骨が割れたところで、アンサングは銃を拾い、ライリーを追うエテューと、それに続くシャガルの血跡を、追跡した。

「ライリー!」
 扉を蹴破り、銃弾を撃ち込む。誰もいない通路の奥で、銃弾は弾けた。暗い闇が長い廊下の先に続いていた。通路__炭鉱のトンネルのような荒い作りの洞穴__南に伸びていた。
 空爆で、天井が揺れた。
 慎重に、進む。
 通路は下降し、やがて上昇した。
 しばらくして、光が見えた。
 オレンジの、炎の光。
 空は暗くなっていた。トンネルの先で、闇夜で、炎が燃えていた。燃えているのは、空爆で焼き払われた感染者達だった。
 そこは村の跡だった。
 森に囲まれ、炎が円を描き、その先に、粉々になった岩山の残骸があった。
 巨大な岩石の山の端に、ライリーはいた。ライリーの前には、二つい岩の扉が、岩山の斜面に剥き出しになっていた。祠を彷彿させる紋様が、岩の扉には刻まれていた。
 扉は開いていなかった。ライリーがまさに今、手をかけようとしていた。
 全身に悪寒が走った。
「ライリー!!」
 銃弾が、ライリーの手を抉る。
「待て!」
 ライリーが銃を持ち上げた。引き金を引こうとして、エテューの胸を、何かが直撃した。狙撃された。ライリーの横に、中幻系の兵士が隠れていた。
 トンネルの内側に倒れる。無線が鳴った。
「南部集落跡でライリー発見。交戦中」
 コウプスの声と共に、銃撃が、トンネルを真上から揺らし始めた。
 立ち上がり、銃を掴み上げ、残弾数を確認する。三発。再装填。
 一歩進んで、振り返る。
 暗闇の先で、銃を構えている兵士がいた__シャガル__さっき見た、ダムナグの、巨漢の傭兵。巨大な体を丸め、素早く効率的な動きで、まさに銃を構え終えていた。エテューは飛んだ。下腹を、大きな衝撃が抉った。胴体左下。防弾ベストが、かろうじて受け止めてくれた。
 銃を撃ちながら、兵士は接近した。エテューは地面に転がながら応戦した。
 兵士の弾が切れた。後退しながら、エテューは立ち上がり、最後の弾倉に手を伸ばした。兵士のナイフが弾倉を弾き落とした。
 エテューの銃と肘が兵士の顔と首を打った。兵士の頭突きを掻い潜り、銃を離し、ナイフを持つ手を抱え、地面に引きずり落とす。
 首にシャガルの腕が回り込んだ。足首に転がり込んでトンネルの内側に押し倒す。ナイフが岩の壁で折れ、残りがシャガルの太ももとエテューの腕を抉った。
 シャガルの拳が額を打った。倒れながらも、膝を首に打ち込む。再度打ち込まれる拳を腕で受け止め、両足で首を絞めあげる。シャガルは懐を掴み、エテューを持ち上げ、岩の壁に投げ下ろした。
 直撃の寸前に、両足を解き、エテューはシャガルの腕を抱え上げた。背中から岩に、エテューはシャガルの頭を投げ下ろした。

 イウェンの額が、真一文字に切り裂かれた。イウェンの肘がシエラの右頬を砕いた。
 イウェンの短刀とシエラのカランビットが擦れ、弾けた。
 シエラの左手がイウェンの脇腹に突っ込まれた。小さなナイフが、鎖骨をへし折った。それを抱え、イウェンの短刀がシエラの首にぶつかった。シエラのカランビットが受け止める。
 イウェンは短刀を投げ捨て、シエラのカランビットを持つ手の手首を掴み、顔面に頭突した。それを躱すシエラ。イウェンはそこで体重を真後ろに倒し、ぐるりと後転した。
 転がる二人。
 脇腹から引き抜かれるナイフ。
 イウェンの蹴りがシエラの顎を打ち、返す蹴りで、カランビットを床に押さえつけた。
 シエラのナイフがイウェンの頬を貫通した。
 そこで、イウェンの袖のナイフが、シエラの首と目と心臓を通過した。

 銃を拾い、エテューはトンネルを抜けた。
 ファザムの腹を弾丸が貫通した。ほぼ同時に、ライリーの銃弾が、コウプスのヘルメットを吹き飛ばした。ファザムとコウプスは倒れ、それぞれの部下と共に、転がった。
 ライリーは、空になった銃を捨て、扉に戻った。
 その背中と右足に、エテューは銃弾を撃ち込んだ。
 防弾ベストで、再度弾は止まったが、ライリーは扉にぶつかり、ずるずると倒れた。
 頭から血を流しながらも、立ち上がろうとするコウプス。エテューはその手から拳銃をもぎ取り、弾倉を入れ替え、ライリーへの間合いを縮めた。
「俺を見ろ」
 銃を向けられ、振り返るライリーは、口から血を吹きこぼしながら、笑っていた。
「こんな世界…」
 ライリーの手が、扉からずり落ちた。赤い線が、垂直に、扉の表面に描かれた。
 その時すでに、エテューは引き金を引こうとしていた、
 しかし、ライリーが、もう一度、血まみれの手を持ち上げ、今度は水平に血の線を描こうとするのを見て、エテューは指を止めた。
「何をしている」
 ライリーは答えなかった。ライリーの手は、ナイフで故意に切り開かれていた。
 エテューは銃を握り直した。
「何の呪いだ」
 ライリーは笑った。
「終わりだよ」

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