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心の恋人 第6章 人妻の親近感

(前章第5章までのあらすじ)
佐藤は調査に出かけ、税理士から、態度が悪いから左遷させろと人事課に言ってこられる。阿部は、結婚話を相手の親に反対されて、真剣に悩んで仕事を休む。

 一〇月のその日は、加藤と佐藤が組んで調査に行った。カウンターバーの店だった。
「どうぞ」
 そう言われて、常連客のようにカウンター席に着いた。向かい合ってマスターが立っていた。佐藤は、その場でカクテルでも出してくれたらいいのに、とふと思った。
 調査は、それどころか、もっと緊張した雰囲気が漂っている。納めるべき税金を納めない。足りないのなら、更に納める。ある種の駆け引きのようなものだ。
 加藤が追加の納税を口にすると、経営者は言った。
「行政不服審査請求は出来るんですか? 」
 加藤は言葉に詰まった。泡を食って、佐藤に目配せして、苦笑いした。
 住民の側から見ると、裁判は、法的には可能だ。納税者には当然の権利がある。しかし、本当の、納めるべき金額はいくらなのか。
 裁判を起こすかどうかは、天秤にかける必要がある。税務機関が少なめに見積もった金額で、言われたとおりに税金を払ってしまうか。弁護士に頼んで、手間暇をかけて、裁判を起こすか。その先勝てるのか。勝っても、いくら勝てるのか。どちらが、自分にとって得なのか。
 行政の側から見ると、出来れば相手にそのような請求はして欲しくない。事が面倒になる。担当職員の調査の方法が適切でなかった、と批判されることにもなりかねない。

 納税者への対応が続いた。反発する人々に会うと、佐藤は緊張感を覚えた。手の震えと顔面の紅潮が現れる。不安と恐怖にかられる。そして思う。こんな好きでない仕事をしているうちに、大切な青春の年月が過ぎ去ってしまう。
 佐藤は職場の休憩時間には、相変わらず将棋と囲碁を楽しんだ。
 時には、ピンクキャバレーに寄った。ホステスに、いい顔していると言われた。酒を飲んだ帰りには、駅前の、のぞきの風俗店にも行った。
 阿部は何かの時に、佐藤にこっそりと話した。
「この間、東北の温泉街で、若い芸子買ってきたよ。芸子って言った手、普通の若いお姉ちゃんだよ」
恋人と別れて、性欲を満たす相手が欲しかったか、と佐藤は思った。

ある日、佐藤は曇った空から雨がぱらぱらと降り始めるのを見た。その町は、佐藤の働く職場のある町からは少し離れていた。
「あれは、野中さんの旦那さんだよな」
 先輩の荒木は助手席で、そう言った。ふたりは車で一緒に出張して、佐藤が運転していた。
 佐藤が見ると、それは何度か見たことのある美香の夫だった。髪形は軽いリーゼントで、尖った髪が端正な顔の額から、前に突き出ていた。
 夫は若い女性と肩を寄せ合って、駅に通じる歩道を歩いていた。
「ああ、そうですね」
 夫は白いコートを着て、町中の風景の中で目立っていた。コートを前開きにして、ズボンのポケットに手を突っこんでいた。コートの裾は風を受けて、うしろになびいていた。
 普通のサラリーマンは、黒っぽい服装をする人が多い。白い服装の夫は、女連れが人目についても気にしないように見えた。
 夫は息のかかる距離で、連れの女性に何か話しかけていた。
 女性の方は、妻の美香ではなかった。目鼻立ちがもっとはっきりしていた。派手な顔立ちで、美香よりも冷たい印象があった。スカートから出た脚は、細くて長かった。
 遠目に見て、粋な男女のアベックだった。知らない人の目には、中年の伊達男とその若い妻か恋人の組み合わせに見えるだろう。
 雨脚は強くなる気配だった。雨粒を気にしたのか、夫は女性の肩を抱き寄せた。
「旦那の悪い虫は、まだ治まってないのかな?」
 荒木の言い方は、不倫を責めるというより、他人事を面白がっているような口調だった。
 佐藤は、このことは美香にもその友だちの悦子にも話さない方がいいだろうと思った。

 一一月に入り、ある団体の幹部の噂話が、職場に入ってきた。その幹部は、団体の代表者に反旗を翻し、繁華街に自分の事務所を構えた。市税事務所の職員の中には、その幹部に会った者が多い。下克上を起こしたんだ、とはやし立てた。
 幹部は、市税事務所に、現金を持って、仲間と一緒に税金を納めに来たことがある。スーツを着て、五百万の札束を、耳を揃えて持ってきた。テーブルの上に置いた。杉山が受け取った。
「さすがに、払うとなったら、ぴしっと払うよね」
 幹部は、土地転がしもやっているという噂だった。巧妙な手口で暴利を得ている。土地を売買して値上がり益は得るが、自分の名前を所有権登記することはない。その手で税金を免れる。
 聞いたところでは、佐藤と同じ進学校の高校の出身だった。出身者の中には、名門大学を卒業して、名門企業に就職する者もいる。一方には、その幹部のように、特別な団体の中で頭角を現した者がいたと聞いて、佐藤は驚いた。犯罪を起こしても知能犯と呼ばれる人々のひとりか。
 さらに、地元商店街から事務所撤去の申し出を受けた。商店街の代表から立ち退きの要望書を手渡される場面が、テレビで放映された。幹部はのちに、覚醒剤関係で警察に逮捕された。
美智子から返事が来た。
 大型連休に、佐藤に会えて良かった。野口と会ったか? あんなに長く、三年間も一緒だったのに、今はまったく離れている。

 風が少し冷たく感じられるようになった。住宅地の目立たない場所で、虫の音が聞こえ始めた。
 夏の暑さには、人々はうんざりしている。それでも、忍び寄る秋の気配は、どこか寂しさを感じさせる。
 佐藤の所属する事務所の人々は、職員の親睦のため温泉地の観光ホテルに出かけた。
 職員たちはマイクロバスに乗り、それぞれ好きな席にすわった。運転士がバスのエンジンをかけると、低い機械音が鳴りだした。
 乗客が缶ビールのふたを開ける音があちこちで聞こえた。
「宿まで待てないよ」
 酒好きな職員が、笑いながらひと言言った。間もなく、職員たちは顔がほころび、気勢を上げて話したり、歌ったりし始めた。
 一行を乗せたバスは、大小の建物が連なる市街地の中を通り抜けた。ほどなく眼前には、野山が目につく郊外の風景が広がり始めた。
 山々のあちこちが、赤や黄の鮮やかな色で染まり始めている。
 バスが目的地に着いたときには、出発してから一時間くらいが経っていた。
 ホテルにはいると、気の早い職員たちは早速、浴衣に着替えた。
「まず、温泉かな」
 仲間の声に、佐藤も同調した。
 男たちは、股間を手ぬぐいで隠して、浴室の中に散らばってすわった。温泉のイオウの臭いをかぎながら、浴槽の中で溜息をついた。
 風呂から上がると、座敷の広間で宴会が始まった。運ばれた膳の上にはビール、ウイスキー、日本酒、地元の山の幸の料理が並んだ。
 宴会は乾杯の音頭で始まり、会社の主だった者たちのあいさつがそれに続いた。出席者は互いに酌をして、がやがやと話し始めた。
 自由奔放な無礼講になってきた。職員たちは気の向くまま座敷の上を動き回った。誰かが酒をこぼして奇声を上げた。畳の上でじゃれ合ってふざける若い職員もいた。
 宴会場は寛いだ雰囲気に包まれ、一時間が経った。
「宴たけなわではございますが…」
 喧騒の中で一際大きなマイクの声が言った。幹事役が時計を見て動きだした。座敷の酔客が進行役の方に目を向けた。
 やがて、宴会は締めの音頭で幕を閉じた。

 宴会客の面々は散会して、ある者はホテルの中の飲食店に、二次会に出かけた。ある者は自分たちの部屋に戻って、二次会を開いて飲み続けた。その場で決めた部屋に陣取り、マージャンに興じる者もあった。
 佐藤や悦子は、キャバレーのショーを見に行った。
 店内は原色の照明で眩しく輝いていた。外国人女性のダンスのショーなどがいくつか行われた。
 佐藤は近くにすわる悦子の顔を見ていた。少し厚いくちびるに、視線が行った。悦子の体に近づきたくなった。
 ホールでは、他の宿泊客に混じって、職場の仲間たちが踊っていた。薄暗い店内と極彩色の照明の中で、いくつもの人影がゆらゆらと揺れていた。
「踊らない? 」
 佐藤は悦子の方に手を伸ばした。
「えっ、わたし? 」
 悦子は恥ずかしそうに笑いながら応じた。
 佐藤は最初、社交ダンスの真似事をした。そのうち、気取っているのが面倒臭くなった。
「おれ、きちんと踊れないんだ」
 そう言って悦子の腰に手を回した。そのまま抱き寄せて、体を密着させた。佐藤はチークダンスに持ちこんだ。
「ちょっとお」
 悦子は小さく叫んで抵抗した。
 佐藤は酔いに任せて、さらに悦子の顔に自分の頬をすり寄せた。太ももの間に自分の脚を割り込ませた。
 悦子は顔を背けた。手をうしろに回して、佐藤の手をふりほどこうとした。佐藤の手首を握り続けた。
「あっ、小林さん」
 そばのテーブルに付いていた友人の美香が、声を上げた。先刻からふたりの動きを見ていたようだった。手の早い若い男性職員に、警戒の眼差しを向けていた。心配そうに見つめていた。
「ちょっと、だめだめ」
 美香は自分の席から声を出して、ふたりのチークダンスを止めようとした。しかし、その声はホールの音響にかき消された。
 職場の仲間たちは、舞台で繰り広げられるショーに見とれたり、アルコールで酔って呆然としていた。人妻と独身男のひとときの戯れ、酔ったあまりの座興と見過ごす人たちも多かった。
 ふたりはフロアの上でゆっくりと回転した。スローテンポの曲で、海に浮かぶ海草のように揺れ続けた。
 佐藤は下半身で、悦子に無言で訴え続けた。悦子はうつむいて黙っていた。悦子の体温が伝わってきた。悦子の太ももの盛り上がりと柔らかさが、衣服の生地を通して伝わってきた。

 一二月のこと、あるスナックの店主が、パーティー券の売上げで申告、納税にやってきた。
 佐藤が応対した。
「いやあ、参りましたよ。赤字なんですよ」
 角刈りの店主は、頭をかきながら苦情を言う。
「利益が上がってねえんだから、税金は負けてもらえるんすよね? 」
 佐藤は釘を刺した。
「いいえ、税額は売上額の一割です」
「一割? そんなに払えねえっすよ。だって、儲けがねえんですから……」
「それは、申し訳ないんですが、この税金は利益とは関係ないんです。お客からの預かり金ですから……」
 店主は、表情が気色ばんできた。
「それはおかしいでしょう。ちょっと、上の人に相談してもらえませんか? 」
 探るような、強い目つきをした。お前のような若造では話にならない、という表情をした。
「おらあ、払えねえから。だって、経費を引いたら、赤字なんですから……」
 このマスターは、パーティー券の申請に来たときは、にこにこして愛想が良かった。受付をしたのは、佐藤だった。店主は、知り合いのつてで、店に芸能人を呼んで、一儲けしようともくろんだ。結果は、うまく行かなかった。来所したときは、この税金は客からの預かり金だから、利益の多少に関係ない。売上げの一割は課税されることを納得していた。

 佐藤に相談された加藤が、応対に出てきた。ソファで佐藤と二人で、店主に向かい合った。
「そんなの、納得できねえよ。そんな、ひでえ話はねえよ。おれは、税金納めねえって、言ってるんじゃねえんだよ。納めるって言ってるんだ。だけど、売上げの一割なんて言うのは無理だよ。赤字なのに、どこから金、持ってくるんだい? 何か控除するとか、そういうのはねえのかい? 」
 店主の声は荒くなり、大きくなった。
「いや、そう言われても困るんです。決まっているものだから、特別扱いはないです」
 生真面目な加藤の顔を見て、店主は足を組んで、ソファに背を持たせて、ふんぞり返った。あごを突き上げて、室内を見回している。
 加藤は二度三度、納得して納税するように、言葉を継いだ。
「あんたじゃ、話にならねえよ。責任者、出せよ。課長、出せよ。課長」
 店主は開き直って、横柄な態度で、怒鳴り始めた。佐藤は、少したじろいだ。ここで暴れられては、困ってしまう。
 一方では、腹が立った。とうとう、化けの皮がはがれた。一皮むけば、ただのごろつきか。
 最初は下手に出ていても、出るところに出ると、正体を現してしまう。気にならなくなると、自分勝手に相手に怒りをぶつける。飲食店の経営者という肩書きの他に、何とか言う企画会社に所属しているらしい。他にも、別の顔を持っているのかもしれない。
 この男は、自分のわがままを押し通そうとしている。一般に、税務の職員は、真面目で、おとなしい。相手が感情的になっても、自分は感情的にはなれない。受け身で対応することになる。
 不真面目で、口うるさい人間だったら、役所に不向きで、採用されない。法律上は、住民に仕える立場にある。
 気の強い納税者は、強く押せば、税金は安くなると勘違いする。職員は、大声を張り上げて脅せば、黒い物も白くなると、高をくくっている。無理が通ると勘違いしている。
 こいつは最初から、そういう魂胆だったのか。こちらを舐めているのかもしれない。自分の力を誇示すれば、どうにかなると、高をくくっているのか。
 佐藤は、天井を見上げる男を、厳しい視線で見つめた。自分がもっと自由な立場だったら、もっと強い態度に出られるかもしれない。
 出来ることなら、この男が役所仕事を勘違いをしていることを、他の人が教えてやった方がいいかもしれない。世の中はそんなに甘くない。自分の思い通りには行かないということを、だれかが教えてやった方がいいかもしれない。
 いや、そういう点では、この社会では、すでに法律が働いているか。いざとなれば、当人に懲罰が与えられる仕組みになっているか。

 課長はというと、背中を向けて、耳をほじくっている。仕方なく加藤は、課長に相談に言った。このまま態度の大きな納税者に居すわられると、職員たちが困る。事務所に入ってきた他の納税者の耳にも、話が入っているかもしれない。
 課長は善後策を講じて、加藤に提案したらしかった。
 課長の席は、応接用のソファから遠くなかった。店主の不穏な言動は、先ほどから耳に入っていたらしい。他の職員は、眉をひそめて、成り行きを見守っている。
 課長は、加藤の案で納得したらしかった。居心地が悪かったのか、腰を上げてトイレの方に、ゆっくりと歩き出した。
 ソファに戻ってきた加藤は、静かに小声で店主に話し始めた。
「それじゃあ、性質上、これは自主申告が建前ですから、お宅さんが、パーティー券がこれしか売れなかった、と書類に書き込むんでしたら、こちらとしては、それを受け付けることにします」
 店主は口を閉じて、組んでいた脚をほどいた。騒ぎ立てた甲斐があって、うまく相手が折れたと思って、満足したらしい。しおらしくなって、書面に記入した。いくぶん、恥ずかしそうな表情にも見えた。それほど器の大きな人間ではないのかもしれない。本来の金額より少ないと思われる金額の税金を、そのあとすぐに納めて、帰っていった。

 納税者の中には、預かった税金を持って、そのまま店を閉じて、どこかに行ってしまう人もいる。それに比べると、この店主は、税額の決定の段階に問題はあったが、納入の段階には問題はなかった。
 しかし、手のひらを返すような店主の態度に、佐藤は嫌悪すべき人格を見た。ああいう輩は、世の中には確かにいる。
 課長は、あとから言った。
「おれが出て行って、解決すればいいけど……。おれの上を出せなんて、あそこで騒がれたんじゃあ困るからねえ。あの男は、役所の仕組みを知ってるんだよ」
 佐藤は、心の中で、こんな気分が悪くなるような仕事をしているうちに、自分は年を取ってしまうと思った。

 ある晩、電話をよこした平田は、最近の女性関係を語った。性欲を持て余していたのか、女に手が早いらしかった。
 遠藤も、近況を伝えてきた。付きあっていた同級生の女性に童貞を捧げた。相手も、処女を自分に捧げてくれた。自分の卒業と同時に結婚するつもりだった。しかし、自分は二度留年して、風向きが変わった。
 佐藤は、相手を選んでいるせいか、二人に比べて、自分は性交渉が少ないと思った。 

職場の親睦旅行から戻って、しばらく経った。
 その日、職場の懇親会があった。悦子は帰りがけに佐藤に声をかけた。
「佐藤さん、わたしの車に乗っていく?自宅まで送ろうか? 」
 悦子は車に乗ってきていて、酒は飲んでいなかった。
「あっ、いいんですか? じゃあ、お願いしようかな…」
 佐藤は車の横に立って、同じく乗り込もうとする悦子に言った。
「やっと、ふたりきりになれましたね」
 悦子は苦笑いして黙っていた。佐藤はその反応で想像した。悦子も自分と同じように、職場の他の人たちを交えずに、ふたりだけで話したがっていたのかもしれない。
 途中で悦子を誘って、喫茶店に立ち寄った。
 佐藤は酔って浮かれ気分で、思いついたことを口にした。
「結婚には興味のないようなことを、前に言いましたよね。確かに、したいとも思わないし、焦ってもいないんです。でも、変な話だけど、肉欲の対象としての女には、必要性を感じてるわけですよ」
「なるほどねえ」
 悦子は注文した飲み物をストローでかき回しながら、軽く受け流した。
「一緒に住みたいとは思わないけど、一晩一緒に寝たいとは思うわけ」
 佐藤は適度のアルコールで気分が良く、目を伏せた彼女の表情に欲情を感じた。
「結局、どこかのプレイボーイと同じ? 」
「いや、それほどの男には自分はなれないと悟ってますけど…」
「でもやっぱり、男の人から先に声をかけないと、女の方は黙ってるだけよ」
「そうみたいね。男と女のためには、良かれ悪しかれ、男の声かけが必要なんでしょうね」
「そのう、肉体だけで、心で女の人を好きになったことはないの? 」
「ありますよ」
「そのとき、結婚したいとは思わなかったの? 」
「ずっと、一緒にいたいとは思いましたね」
「どうして、そうしなかったの? 」
「片思いだったから」
 佐藤はそう言って笑った。
「振られたわけですよ」
「ああ、それじゃあ、失恋してがっかりしちゃったから、独身主義になっちゃったの?それって、平凡な成り行きよね」
「それもあるかもしれないけど、女は特に必要じゃないという考えは、前から持ってましたね」
 佐藤は目をそらして、窓の外を見た。
 悦子はうつむいていたが、しばらくして言った。
「そのうち好きな人ができれば、いやでも結婚して、一生一緒に暮らしたいと思うわよ」
「そういう恋の威力ってのは、おれも感じてますよ。それまでの生活が変わっちゃいますからね」
「でも、佐藤さんて、冷静なとこあるから…」
「わりと淡泊なんですよ」
「ううん。淡泊なのかな。未練がましいところはないの? 」
「未練はあるかも知れないな」
「未練があって、前の人を忘れられないとか…」
「そういうのはあるかも知れない。でも、肉体的には淡泊なんですよ」
「ううん、わからないなあ」
「試してみる? 」
「ええっ」
 悦子は照れて下を向いた。佐藤も笑った。
「すぐに背中向けたりして…」
 悦子は、またおもしろがって笑った。
「でもねえ、浮気は結局、傷つくから…」
「立場としては、おれの方が有利かも知れないな」
「結局、女の方が先に泣くのよ」
「そうですか。でも、おれ、女性から優しいって言われたことはあるんですよ」
 佐藤は悦子の顔を見つめて言った。
「えっ、佐藤さんのどこが優しいの? 」
 悦子は佐藤の顔は見ないで言った。
 佐藤は少しとまどって、言葉に詰まった。この人は、おれがこの人に優しくしていないと言っているんだろうか。
「なかなか、男と女の付き合いの最初から最後まで、知的な遊びとして割り切ってる女性はいないもんね」
「それほど簡単に片づけられる問題じゃないもん」
「多分、そういう性道徳を植え付けられているんだよね。日本の女子教育の弊害だな」
「何か、男の身勝手な意見って感じがするけどな」
「きっと、社会が性的にもっと奔放になれば、他の制度や秩序も腐敗して行くんだろうね」
「そうかもしれないわね。平行して乱れていって…」
「でも、女だって欲望はあるんでしょう? 」
「女の欲望っていうのは、わたしの経験だと…」
 悦子は自嘲的に小さく笑った。目尻に、年齢に相応のしわが寄る。
「二五,六才を過ぎてからね。二〇才の頃なんて、まだきゃんきゃんしてて…。欲望っていうのをはっきり意識したのは、結婚してからだったなあ」
「はあ、それで、今みたいな女盛りになっちゃうわけ? 」
 佐藤はさぐるような眼差しを向けた。
「そういう話って、女性からはあんまり聞けないですね」
「あたし、結構、しゃべっちゃうから」
「ぜひ一度、一回だけでいいから、悦子さんにお願いしたいもんですね」
 悦子は下を向いて笑った。
「だって、もう経験済みなんでしょう? 」
「えっ、いやいや」
 佐藤は苦笑いした。

 やがて、ふたりは喫茶店を出た。
 わき道から大通りに出るとき、悦子はあわてて車を発進させた。あやうく、他の車と衝突しそうになった。
「気をつけて運転してくださいね」
 佐藤は、悦子がふたりの会話で少し動揺しているのかもしれないと思った。
「ごめん。もし事故にでも遭って表沙汰になったら、佐藤さんの将来に傷がつくもんね。あたしはかまわないけど…」
 佐藤は内心、胸騒ぎがした。悦子の真意がわからず黙っていた。
 深夜、ふたりが一緒にいたことが周囲に知れれば、どうなるだろう。ふたりが職場の同僚だとはいえ、黙って見過ごす人ばかりとは言えない。妙な噂が広がり、悦子の夫も、それを知ったら黙ってはいないだろう。
 悦子はそうなっても仕方がないと考えているのか。ふたりの関係が人に知られても、それをある程度は受け入れる覚悟ができているというのか。それとも、自分はもう配偶者を見つけてしまったから、未婚の人ほどあとのことは心配はしていない、ということなのか。

 佐藤は、悦子との間に、よくある男女関係を結ぼうとは思っていなかった。
 既婚者と未婚者という異なる立場の自覚があった。自分たちの間には、恋愛や結婚という出来事は生じないという暗黙の了解がある。最初から、夫のある女をわざわざ熱愛の対象にはすまい、と心に決めていた。
 それはある意味で、諦めの感情でもあった。
 人妻との不倫の恋、その言葉には偽悪趣味を満たす魅力もある。しかし、最終的にたどり着く好ましくない結果は予想できた。
 幸いに悦子には、理性を奪い取るほどの魅力はないと、佐藤は感じていた。男をかどわかすような魅力があるとは感じられなかった。悦子は、佐藤にとってそれほどの価値のある女ではなかった。
 しかし、先々のことは、成り行きでどう動くかわからない。
 気になるのは、ときどき覚える親近感だった。ふたりの間には、職場の同僚という気安さがあった。
 その親近感は、必要以上にふたりを接近させることがあった。悦子には、子どもを持っていながら、娘娘したところが依然として残っていた。
 そんな悦子に、夫も子どももいないところで、佐藤が気軽に接する。すると悦子は、気心の知れた楽しい女友だちのように思われた。学生時代に付きあっていた仲間を思い出させた。独身の若い娘を扱うような気楽な気分に浸ってしまうのだった。
 会話が弾むと、ふたりには禁じられている関係に対して無防備になる。道ならぬ恋に陥る危険性が、わずかに顔を覗かせる。ふたりは、恋心を不用意に呼び寄せてしまうように思われた。


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