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真珠のきらめき 第6章 緊急入院

 その日、現場から戻った遠藤は、石田のそばの自分の席に戻った。遠藤は事務所の中で技術系の所長補佐をしている。
事務所は山間地に必要な治山治水工事を行っている。業者を指名して入札を時々行う。落札した業者の工事が進むと、事務所は検査に入る。その現場での検査と検査結果の書類の作成が、遠藤の主な職務だった。連日、その作業に頭を悩ませているようだった。
 その時、石田は下を向いて、書類を作っていた。遠藤は電話に出て、相手の飲み会か何かの誘いを断っているように石田の耳には聞こえた。どうやらその日、マージャンの先約があるようだった。遠藤はマージャンが好きだった。その辺の事情は、石田にも分かった。
 その直後、今まで聞こえていた遠藤の声が、急に石田の耳に聞こえなくなった。
石田が書類から顔を上げてみると、遠藤は、自席に座り込んだまま動かなかった。上を向いて、両目を大きく開いていた。仰向けに反っくり返っていた。
 最初は、椅子の上で伸びをしているように見えた。あくびでもしているように見受けられた。
 しかし、様子がおかしかった。目がうつろで焦点が定まっていなかった。いびきに似たうなり声を出していた。
そばの職員も、異変に気づいた。遠藤の体がぐらつき始めた。石田たちが驚いて駆け寄り、その体を支えた。
「補佐」
 何人かが声をかけた。その大きな声が職場全体に伝わった。遠藤は反応しなかった。
 事務所の職員はほとんど、入り口から入って奥の方にいた者も、異変に気づいた。総立ちになって、遠藤を見つめた。
 貧血か、とも石田は思った。しかし、目を見開いたままで、意識のない状態が見て取れた。その上、失禁していた。ズボンの股間の辺りが、濡れて、染みになっている。虫の息と言えるような苦しそうな息づかいになった。
「救急車、呼びなさい」
 少し離れて座る岡村補佐が、大声で指示した。若い職員の誰かが、電話で通報した。
 救急車を待つ間、職員たちは遠藤のそばに集まった。ベルトやネクタイをゆるめ、めがねを外した。舌をかみそうに見えた。誰かが遠藤の口の中に、ハンカチをあてがった。
 人形のように、大きく両目を開けている。その目は動かない。
 遠藤は時々、弱い息をもらした。それは、弱くなっていく命の、意識の底からわき出る、悲しい声のようにも聞こえた。 
 
 救急車が到着し、隊員が階段を駆け上がってきた。白衣を着て、ヘルメットをかぶった2人の男が担架を持って事務所の中に入ってきた。
「急にこんな状態に、なっちゃいました」
 職員の誰かが、おびえるような顔つきで言った。
「もしもし」
 隊員が遠藤の顔に口を近づけて、大声で呼びかけた。頬を2、3回叩いた。遠藤は反応しなかった。
 職員も協力して、遠藤の体を抱き上げ、担架に乗せた。隊員は、救急車のハッチバックを開けて、遠藤を中に運び込んだ。岡村補佐の指示で、石田と小倉課長が担架のそばに付き添った。小倉は、遠藤から見ると、日ごろから行動をともにすることの多い技術職の部下だった。この時、石田は初めて救急車というものに乗った。
 隊員は、遠藤の口に酸素マスクのようなものを着けた。
 救急車は赤色灯を点け、サイレンを鳴らして病院に急行した。石田は、目の前に瀕死の状態で横たわる遠藤の体から、外の風景に視線を移した。空は晴れ上がり、穏やかな天気であることに気づき、奇妙な感じがした。
 遠藤は、近くの総合病院の処置室に担ぎ込まれた。
 石田は、事務所に連絡を入れた。事務所の方は、遠藤の自宅に連絡を取っていた。遠藤の妻は、病院に向けて出発した。事務所までは、車で小1時間かかる。
 事務所は、他の関係者、関係機関に次々と連絡を入れた。
 処置室の看護婦のひとりが、石田たちの所に聞きに来た。
「診察するんですが、患者さんの背広をハサミで切っていいですか?」
本人は意識を失っている。悠長にしてはいられない。
 小倉は瞬きしながら言った。
「その方がいいんでしょう? お願いします」
 事務所から、更に佐藤、篠田が応援に駆けつけた。
 
 しばらくして、担当の医師が処置室から出てきた。
「遠藤さんは、くも膜下出血です。脳動脈瘤が破裂しています」
 医師は表情を変えずに、はっきりと言った。 
「これから検査をしますが、恐らく助からないと思います」
 その場に居合わせた職員たちは青ざめ、唖然とした。驚いて、顔を見合わせた。何と言っていいか分からなかった。
 遠藤は担架に乗せられ、通路を運ばれ、エレベーターの中に消えた。
 佐藤は、ぽつりと言った。
「助からねえって、そんなことあるんかい?」
 それから、待合室で石田たちが待っていると、遠藤の妻が到着した。
 事務所の所長や他の職員も、続いてやってきた。
 事務所は、その後も、ひとり息子や他の親類などに連絡を取り続けたらしい。息子は、京都に下宿して名門大学に通っていた。
 
 検査が終わり、職員たちと妻が、小さな部屋に呼ばれた。担当の医師が、遠藤の病状について説明を始めた。
 くも膜下出血という病気になっている。この病気は、発病すると3分の1は死亡する。
 現在は、呼吸が止まる恐れがあるため、人口呼吸器を使っている。体を移動するのは危険なため、この病院でしばらく入院してもらう。
 再発を防止するために、脳外科の手術が行われる。しかし今は、遠藤さんの病状は最悪で、手術はできない。より軽い段階になれば、手術を行いたい。
 手術で助かっても、脳死になり、植物人間になる可能性がある。脳死になると、2週間で心臓死になる。50才という若い年齢だと、その危険性が大きい。
 
 説明が終わり、妻と職員たちは待合室に戻った。
 妻は、看護婦に促され、入院の手続きを済ませた。気が動転していても、気丈夫に振る舞っているようだった。
 夕方になると、親戚の面々が次々と現れた。遠藤の兄弟の数は10人近くに上った。見知った顔を見ると、妻は手を口に当てて声を上げた。
「ああっ」
とうとう泣き出した。それまでこわばっていた顔が、急にくしゃくしゃになった。堰が切れて、涙がどおっとあふれてきた。
 
 やがて、親戚の者たちへの説明が始まった。
 妻は、京都の息子に電話を入れた。息子を下宿に待機させていた。遠藤の症状を見て、必要なら息子を呼び寄せるつもりでいたらしかった。
 息子は母親の話を聞いて、急いで新幹線に乗って東京方面に向かった。
 数時間が経ち、息子は長旅を終えて、病院に姿を現した。
 遠藤は、立ち入り禁止の集中治療室に入ったままだった。妻と息子と親戚の面々は、事務所の手配で地元の旅館に泊まることになった。
 石田は他の職員と一緒に、夜になってから事務所に戻った。
 遠藤は、その後、一命は取り留めた。しかし、半身にマヒが残ったという話を、石田は後で聞いた。
長い入院生活の後、人事課の計らいで、自宅に近くて通いやすい職場の閑職に就いたらしい。
 
 御用納めの日のことだった。
今日で、今年の仕事は終わる。世の中も、年末年始の雰囲気に包まれているようだ。石田が、そう思っていたら、電話の連絡が入った。
 サルが住宅街に姿を現して、木の上や屋根の上を飛び回っている。
 サル? どこのサル? 山のサルか動物園のサルか? どうしてサルが、ひとりで町の中を歩いているんだ?
 石田の係では、これは大変だ、ということになった。職員は2人派遣された。今年配属されたばかりのせいか、石田には、指名が掛からなかった。これ幸いと、厄介なことが起こる前に帰宅の途に着いた。
 年明けに、現場に行ってきた篠田や仲間の職員に、事の次第を聞いた。
 警察が来て、付近の住民も顔を出していた。面倒なことが起こると困るから、サルを捕まえてしまいたい。しかし、高いところを移動しているから、簡単には捕まらない。どこかで飼っていたペットが、逃げ出したものらしい。
サルの方は、人を馬鹿にするように高みから見下ろしている。人の方は見上げたままで、「あっち行った」、「こっち行った」と、その後を追いかけるばかりだった。やがて、どこか遠くに行ってしまった。
 その後、特に連絡は入ってこなかった。
 
以前にかいぼりに招いてくれた自然保護員の小田が、ある日事務所を訪れた。
 岡村補佐と向かい合ってソファで話し始めた。そのうち、石田が呼ばれた。
 用件は、小田の息子の縁談についてだった。
小田は照れ笑いをした。
「個人的な用事で、悪いんだけど…」
持ってこられた縁談の相手は、石田と同じ市役所勤めの女性だった。しかも、よく聞いてみると、石田と同期だった。小田と同じ市内に住んでいた。
「息子の嫁に、って話が来たんだけど。どんな人かなって思ってね」
 石田は、自分が周囲から結婚を迫られている立場で、小田の相談に乗るのも気が引けた。
 どんな女性かと尋ねられて、いくつかのことを思いつき、口に出しても差し障りのないようなことだけを話した。
「大学を出ていて、保健婦の資格を持ってますよね?」
「確かに、頭も良さそうだし、器量も良さそうだけど」
 その女性は、見方によっては才色兼備の雰囲気があった。
 そう言えば、かつて同期の宴会があったときに、石田は興味がわいて近くにすわって話をしたことがあった。しかし、そのことは小田には話さなかった。
「長男は、満更でもないような顔をしているんだけど。どうも少し気が強そうな、うちの倅には、その気にならないような感じがして」
 そう言って、首をひねった。
 長男の嫁として、家に入ってもらうことに疑問を感じているらしかった。
 気の強そうなところは、かつて話したときに、石田も感じていた。生意気という印象もあるが、男性に対する理想が高いのかもしれなかった。

 

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