心の恋人 第7章 恋のともしび
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心の恋人 第7章 恋のともしび

tomono

(前章第6章までのあらすじ)
佐藤は先輩の美香の夫が若い女と歩いているのを見て、気にかける。旅行先で、悦子とチークダンスを踊る。ある店主が、税金を少なくしろと事務所で騒ぎ出す。佐藤はまた悦子と恋愛談義をして、親近感を覚える。

 一月の業務の予定では、佐藤は先輩の加藤と、あるスナックに調査に行くことになっていた。
「佐藤さん、調査は、店じゃなくて自宅に行くことになったから」
 加藤は、何か目配せをして、佐藤に言った。
 市の幹部職員のひとりから、課長あたりに連絡があったらしかった。スナックの女性店主は、その職員の知り合いらしかった。
 どうやら、その職員は、その女性を愛人にしているらしかった。調査の通知を受け取った愛人は、動揺して職員に相談した。愛人に相談されて、その職員は調査の当日に立ち会ってもいいかと、事務所に打診してきたらしい。立ち会いは許されたらしかった。
 加藤は、佐藤が若いせいか、事柄の性質のせいか、佐藤には多くを語らなかった。はっきりとした話はしなかった。
 佐藤も、分かりたいとも思わなかった。これは、年配の大人の話だと思った。自分のような二〇代の若者には、よくわからない。
 しかし、後で考えてみて、あまり良い気分はしなかった。妻子持ちだと思うが、風俗の女性を愛人にしている。経済力は、幹部職員になって、ある程度あるようだ。結構なご身分だ、いい気なものだ、という見方も出来るだろう。
 挙げ句の果てに、真意は分からないが、税務調査に圧力をかけるような行動に出ている。あるいは、そのような誤解を生む行動をとっている。立場上、愛人から頼まれて、黙っているわけにも行かなかったか。

 加藤と佐藤は、言わば職員と愛人の愛の巣に乗り込んだ。
 座敷に出迎えた職員が、照れ笑いしながら言った。
「今日は、わざわざ来ていただいて申し訳ない。税金を負けてくれなんて言うつもりは、もちろんないんだよ。調査の邪魔なんて、もちろんしないし……。ただ心配だから、一緒にいてくれって言われたもので…」
「ああ、そうですか。事情はお聞きしました」
 加藤は、丁寧に話した。相手は、職場は違うが、組織の中では、上層部の人間に当たる。
「言われたことにはきちんと従うように、ママには言うから。恥ずかしい話なんだけど、このことは内密にしてもらいたいんだ」
 書類の検査と、聞き取り調査は、ある程度終えた。
 加藤は、落ち着いて言った。
「調査でお聞きしたことや、知ったことは個人の秘密ですから、外に漏れることはありませんから」
 五〇代の年配の職員は、恐縮しながら、笑いながら頷いた。
 愛人は職員の隣にすわって、終始、おとなしくうつむいて黙っていた。若い頃は美人で通ったと思える面影があった。
 佐藤は税務調査で、スナックやバーのママやホステスを見る機会が多かった。玄人の女性は、地方の町でも魅力的だと感じた。

 調査を終えて、加藤と佐藤は公用車に乗り込んだ。
「じゃあ、内緒ってことだから、佐藤さん」
「はあ、分かりました」
「おれも、あんな身分になってみたい気もするけど…。給料が増えると、そういうことを考えるのかな? 」
 加藤は、にやりと笑った。
「まあ、税金きちんと納めてもらえれば、こっちは別に、それ以上言うことはないからね」
 佐藤は苦笑いしながら言った。
「奥さんも家族も、知らないんですか? 」
「そのようだなあ。それとも、わかってんのかな? 何かわけでもあるのか。表面上は、知人っていうことにしてあるようだね。でも、もう一〇年以上は続いているのかなあ。店に通うようになって付き合いだしたようだけど」
「公務員も、ああいう人もいるんですね」
「別の人の話だけど、もっと偉い人だけどね。ある店のママが、その人の愛人だって聞いたことがあるよ。その店を出て、知り合いの人から内緒だよって言われて、こっそりと聞かされて、驚いたけどね。一応、先輩だから、まあ、手心を加えるってことじゃないけどね。世の中の人間模様っていうか、色んな人がいるからね」

 遠藤の手紙が、また来た。
 野口と一年ぶりに再会した。自分は新聞配達のバイトがあるため、早めに別れた。自分はというと、裕美との関係は終わった。自分も野口も、付きあっていた女に振られた。同類相哀れむ。野口は卒業アルバムを見て、別れた美智子を忍んで泣いた。二人が仲が良かった頃の姿を思い出した。見ていて辛かった。
 親戚が佐藤のところに、ピアノを弾く二四才の娘の見合い話を持ってきた。父は苦労知らずの娘ではないかと言って、毛嫌いしている様子だった。庶民的で、生活の苦労を知っている娘が好みらしい。佐藤は今年、二六才になってしまう恐ろしさを感じた。

 二月になって、その日、夕方暗くなってから、佐藤と杉山は、とある場所に公用車を停めた。大通り沿いのビルの隣にある空き地だった。
 通りの向こうには、ピンクキャバレーが一軒見える。看板のネオンサインがきらきらと光っている。店の入口には、派手な装飾が凝らされている。いかにも、「お客様、いらっしゃいませ」という雰囲気だ。店内では、性交渉が行われているという噂もある。
 佐藤たちは、車のエンジンを切り、ライトを消している。ときどき小声で話している。暗い車内から、店の入口の動静に気を配る。
 車はひっきりなしに、目の前の大通りを行き来する。
 見ていると、三々五々、客が入口に入っていく。客は車で、店の隣の駐車場に乗りつける。時々、駅から歩いてくる客もいるようだ。
 入口の周りには、呼び込みの従業員や、客を案内する従業員が、時々姿を現す。 

 張り込んでから、二〇分か三〇分経った。
 従業員のひとりが、佐藤たちの存在に気づいたようだ。ちらちらとこちらを見ている。時々、じっと見つめる。向こうもこちらも暗がりにいて、表情までは良く見えない。しかし向こうには、佐藤たちが車内で目を光らせる様子は分かる。
 どうやら勘づいたらしい。従業員は店に入り、もうひとりの男と出てきた。男は、通りを横切って、近づいてくる。
「見つかっちゃったかな? 」
 杉山が呟く。気づかれる恐れは、最初からあった。夜間、周囲に人通りはあまりない。目立ちすぎる。

 男は杉山の方に近づいてきた。目つきが鋭くて、体格が良い。車の隣に立って、腰をかがめる。車内を覗き込む。
「何か用かい? あんたら誰だい? 」
「市税事務所の者です」
 杉山が答える。男がすぐそばで、杉山の横顔を見つめる。
「市税? 税金か……」
 佐藤たちの正体が分かって、少し安心したようにも見える。もっと何か危険な人物を想像していたのかもしれない。
「何やってんだい? 」
「ちょっと、客入りの状況を確認させてもらっています」
 杉山は、正直に答える。秘密の仕事が見つかってしまって観念したらしい。
「なに? 客入り? 」
 どうやら、男は店の責任者らしい。杉山と佐藤を睨みつけた。
「そらあ、営業妨害だなあ。迷惑だなあ」
 男は不平を漏らした。
「すいません」
 杉山は素直に頭を下げる。
「まったく」
 男は吐き捨てるように言って、店の方に戻っていった。
 佐藤は終始黙って、男と杉山のやりとりを聞いていた。杉山は、度胸がいいのか、それとも先の見通しがつかないのか、どちらかだな、と思った。

 男は二,三〇分して、また戻ってきた。
「まだ帰らないのかい? よお? 」
 男は語気を荒くして、脅すように杉山に言った。杉山の方は、一〇歳以上年上に見える。
「すいません。もう少し、いさせてください」
「何? 」
 佐藤は心配になった。そんなことを言っていいのか? ずうずうしくないか? こんなところで夜中に、変な連中に何かされたら、たまったものではない。
「車、持ってきて、横付けにしてやるか? 入り口、塞いで、出られなくしてやるか? 」 杉山は、男に間近で睨みつけられている。硬直したまま、店の方をまっすぐに見ている。
「ちぇっ」
 男は顔をゆがめて、そう吐き捨てた。また店の方に戻っていった。
「もう戻った方がいいね」
 杉山はやっと、緊張を解くように、ひと言言った。
「何かされたら、大変だから、もう行きましょう」
 佐藤は一息ついた。
「客入りはある程度、つかめたからね。この人数が売上げに乗ってこなかったら、それだけで単純におかしいから」

 遠藤の手紙が来た。
 卒業できそうだ。就職先が決まった。まだ会社員になる気がしていない。この一年、孤独で酒浸りのこともあった。バイト先で、社会の最下層になるような不安も感じたこともある。
 美智子もまた、手紙をよこした。
 三月に妹とアメリカに行く。眠れない夜に、卒業アルバムを見て、学生時代を思い出す。暗い気持ちになったり、明るい気持ちになったりする。結婚の話題が、周囲で盛んに出ている。

 三月になって、職場の福利厚生の事業で、佐藤は釣り大会に出た。川に釣り糸を垂らすのは、子どもの頃以来だった。水や植物に囲まれて、新鮮な気分だった。
 課の送別会があり、阿部、井上の転出を残る者たちが激励した。野球部会、テニス部会でも送別会が行われた。
 バイトの送別会もあり、佐藤は由美子に、半分冗談で心をうち明けた。
「おれのところに嫁に来ない? 」
 すると、由美子は苦笑いしながら、すぐに答えた。
「私、田舎嫌いなの」
「ああ」
 佐藤も、頷きながら、余裕を持って笑った。由美子は、地元ではなく、都会に目を向けているようだった。
 由美子は事務所の中でも、目立って器量が良い。しかし、住んでいる家は、田園地帯の果ての山際の農家だった。大学を終えると、大都会のしゃれた街並みの中から、地方の実家に引き戻されてきた。田舎の田んぼの中に、再び放り出された気分を味わっているようだった。その境遇からまた、抜け出したがっているようだった。
 佐藤にとっては、この二年間は仕事色に染まった就職後の年月だった。学生時代とは、生活もその舞台も大きく変わった。別れの季節で、職場で交わった人々との思い出が、胸の中にあふれてくる。
 厄介な納税者を毎日相手にして、若さもあってか、相変わらず緊張する。対人恐怖は続く。

 貴美子の思い出は、追いかけるように佐藤の胸中に去来した。かつてのクラスコンパで、貴美子に借りて、クリーニングを通して返した女物のハンカチを思い出す。二年前の別れの時の後ろ姿を思い出す。
 貴美子の思い出が胸の中にあふれ、夜中、悲しみに耐えきれなくなる。寝床で、急に声をあげて、体を起こす。あぐらをかいて座り込み、うなだれて、感情を持てあます。

 別れてから二年が経ち、かつて予感した最後の絶望が訪れるのを感じる。
 貴美子を愛しても何も報われない。そう心の中で繰り返すうちに、肝心の自分自身がもはや貴美子を愛さなくなってしまう。
 そのような新しい恋心の段階は、それ以前の段階に全面的に取って代わるわけではなかった。心の無意識の層の中で徐々に変化して、ときどき意識の表面に鮮明に浮かびあがってくるらしかった。
 もはやすべてが遅いと思われる。見方によれば、貴美子はおれを、自分に求婚して受け入れられなかった男として、永遠に規定した。
 さらに、考えようによっては、断ったはずの貴美子が、同時に断られた女になってしまうという解釈も出来そうだった。なぜなら、今後の人生で万が一、貴美子がおれを愛することがあったとする。その場合、おれは、貴美子を決して認めず、許さないだろうと思われるからだ。
 恋心は死にかけている。冷えた恋心が、倒れて地面に横たわったきり動かない。恋心の亡骸は人形のように、ただ日常生活の中を生き延びている。かつて恋心の誕生は意志の命令に従わなかった。同じように、その消失も、理性の領域の外で徐々に進行している。

 佐藤はある時、悦子と車に乗って本庁に行った。悦子は助手席で恋愛や結婚のことを、色々と話した。やはり自意識の強い、恋に動揺しやすい女性だと感じられた。温泉地で抱き合った関係を、佐藤は思っていた。
悦子は美香のことを話し始めた。職場ではいつの頃からか、美香の姿を見かけなくなっていた。
「美香ちゃんが入院しているの、知ってるわよね? 」
「ああ、そうらしいですね。どうしたんですか? 」
「それが、大きい声じゃ言えないんだけど、悪い病気らしいの」
「悪い? 」
「乳がんなんだって、それも大変なの、末期らしいの」
 悦子はつらそうな表情を見せてうつむいた。佐藤はすぐには言葉が出なかった。
 一方で、憂いを含んだ悦子の顔も、色気があって欲情をそそると思った。
「末期ですか? そりゃあ、大変だ」
 重い病気のせいで、その話は自分の耳にはなかなか届かなかったのだろう、と佐藤は思った。
 美香は、目鼻立ちがはっきりしていて、愛想が良かった。佐藤はときどき、滑稽な印象を抱いていた。美香の表情は、鳩が豆鉄砲を食ったように見えることがあったからだった。
 佐藤は、性格の明るい美香が、どうしてそんな病気にかかってしまうのか、すぐには納得できなかった。
「美香ちゃんが、職場結婚っていうの、知ってるわよね。もともと、美香ちゃんの方が熱を上げちゃったらしいのよ。旦那さんの方は、美男子で男っぽくて、女性にもててたのよ。今でも、持ててるんじゃないかな」
 佐藤は、内心で悦子の考えに同調した。この間、美香の夫が若くてきれいな女性と、駅前を一緒に歩いている姿を見たことを思い出した。
 しかし、そのことは口には出さなかった。
「旦那さんの方から声をかけてきたのね。美香ちゃんはそれで、夢中になっちゃって、いろいろと尽くしたみたい。かいがいしく世話を焼いたらしいの。あの人は一途なところがあるのよ。でも、旦那さんには、ひとりかふたり付き合っている人がいたのよ」
「それは大変ですね」
 佐藤は驚きの表情を見せたあと、あきれた顔をした。
「でも、成り行きで迫られて、美香ちゃんは結婚を条件に、何て言うか体を許したらしいの。旦那さんはそれで決心して、他の女性と別れたらしいの。嫁にするなら、この人がいいって思ったのかなあ」
「ああ、そうですか。何だかメロドラマみたいな話ですね」
「美香ちゃんは、自分に驚いたって言ってたわ。恋のライバルを蹴落とすのに、苦労したらしいの。あとで思ったんだって。自分にこんな力があるとは思っていなかったって。いざとなると、すごい力が出たんだって。女の戦いで、修羅場になったこともあったらしいのよ。それでやっと、めでたく結婚できたわけ」
「情熱的な結婚だったんですね。でも、結局今でも、女に持てる色男の旦那で苦労しているわけですか? 」
「そんな感じね。彼女もある程度、仕方がないって諦めているのかな」
「世間にはいろいろな夫婦がいるんでしょうけど、それも変ですね」
「それで、こんな病気になっちゃったでしょう。旦那さんにも、少しは責任があるのかなあって思うの」
「心労が病気の原因になったってことですか? しかし、それはちょっと、科学的にどうかと思うけど…」
「でも、夫のいい加減な気持ちが、不幸な結果を妻にもたらしたって見方もできるわよね。やっぱり、人との関係で、いい加減なことをしちゃいけないのかなって思うのよ」

 事務所に戻ってきたところで、悦子は思いついたように言った。
「そうだ。この前、気になったことがひとつあったんだけど…。あたし、何か悪いことした? 本当に、傷ついちゃったの」
 聞いてみると悦子は、佐藤が気軽に言ったひと言を気にしていた。
 数日前に職場で、職員たちのボーリング大会の打ち合わせがあった。職員同士の組み合わせが抽選で決められた。
「佐藤さん、良かったね。女性と一緒だよ」
 そのときに、佐藤は落胆するように半分冗談で言った。 
「小林さんとじゃあなあ…」
 その捨て鉢な言い方が、悦子には気に入らなかったらしい。
 佐藤は弁解するように言った。
「いい人だと思っているし、すばらしい人だと思ってるけど。やっぱり何てったって、小林さん、結婚してるじゃない」
「それはもちろん、そうなんだけど…」
「独身のアルバイトの女性を相手にするようなわけには行かないよね。やっぱり、まずいもん」

 新年度の係の飲み会に出た佐藤は、二年間同じ係で一緒に働いた井上、阿部がもういないのを寂しく感じた。
 代わりに係に入ってきた職員のひとりは、菅原という名だった。菅原には、二〇歳前後の年齢に似合わず、老成の感があった。過去に苦労が多かったのか、若い頃から、世間を高みから見下ろす性癖があったのか、それは分からない。
「おれは昔、熱く熱く生きていたんですよ。力一杯情熱的に生きていこうって思っていたんですよ。でも、そういう生き方は辛くて、くたびれるんですよね。ときどき、どっと疲れが来るんですよ。そしたら、ある人に言われたんです。昔から、生き急ぐと死に急ぐって言うんだよ。あんまりあせって生きていると、早死にするよって」
 菅原は別の時には、こう言った。
「母ちゃんがあの世に旅立ったあとのことだったんですけど。上司から言われましてね。菅原さんも若いんだし、女房の墓守、いつまでもやっているわけにもいかないよねって」
 佐藤はあとで、菅原の体験した出来事を知った。
 菅原の付き合っていた女性は、難病にかかった。菅原はそれを承知で、女性と結婚した。一年後に旅立っていく女性を、枕元で看取っていた。

 佐藤のところに、また縁談があった。
 経歴書、写真、あいさつ代わりなのか菓子が送られてきた。経歴書では、生け花、教員の資格がある。短大の学歴と、銀行の職歴がある。ピアノ弾きの趣味がある。写真では、気の優しそうな、背の高い大人っぽい箱入りらしい女性に見える。
 佐藤は、旅行や税務の仕事に追われていた。
 人からは、「女性に持てるだろう」と言われながら、自分を振った女性のことを考えていた。
 縁談は見送ることにした。母親は残念そうだった。

 新年度に入っても、職場では相変わらず調査が続いた。強面の相手に対応するときは緊張した。
 ある先輩は、別の税務関係者から聞いた体験談を、佐藤に話した。
 そこでは、危ない会社の調査の時も、ひとりで行く。代表者の自宅に行くと、応接間に通された。大きなテーブルの両側に若い社員がすわっている。その先の少し離れた所に、正面に見えるところに代表者がいる。
 調査員は、ひととおり質疑を終えてから伝えた。話しながら、自分が緊張しているのを意識した。
「納税額が不足しているようですから、追加で納入してもらうことになるかも知れません」
 すると、代表者は静かに言った。
「そうかね。分かった。おれは構わないが、ここにいる若い衆は、何するか分からねえよ」
 調査者は視線を落として、その場を去った。

 事務所に新規採用の職員が入ってきた。佐藤は、樋口というその後輩に自分の過去の姿を見るような思いがした。新鮮さと未熟さがある。
 佐藤は、初めて職場に来た頃の自分の心持ちを思い返した。過ぎ去った学生時代への、はるかな思いが、胸の中に蘇った。その頃、自分の人生が、学生時代から社会人時代へ劇的に移っていくような気がしていた。自分が人生の主役なのだと感じていた。生きる充実感に包まれていた。人生の大きな節目にいる実感があった。 

 五月晴れの連休に、佐藤は関西に旅立った。
 旅行の最初に貴美子の住んでいるらしい町の駅に降り立った。駅前には、紅白のサツキが咲き誇っていた。夏空のように、天候はからりと晴れていた。そこは古都の郊外だったが、街並みは近代的で、ビルが建ち並んでいた。
 佐藤は意外に、明るい気分に浸っていた。心には不思議な平穏があった。昔好きだった女の住む町に行ったら、もっと心が動揺するかと思っていた。しかし、そうではなかった。
 歩き進むに従い、盆地の丘陵地帯に、真新しい雰囲気の住宅街が開けてきた。
 関西のある町に、貴美子という平凡な女が住んでいるという印象を持った。それは、昔も今も当たり前のことだった。当たり前のことを改めて感じたのは、心の平穏な状態のせいだった。

 貴美子と別れた当初は、恋心は貴美子という一点に集中していた。
 それから二年近くの歳月が経過した。それは、貴美子と一緒にいた学生時代と同じ長さの歳月だった。その間に、恋心は勢いを失い、枯れ果てていった。現実の貴美子とは違う女を、空想の世界に作り出していた。
 長らく、空想の世界の女に慣れてきた。それがこうして、貴美子の生きている現実の世界を目の当たりにした。途端に夢から覚めた。様々な空想が一瞬で吹き飛んだ。
 貴美子との別れを、観念でなく体験で確認するために、おれはこの場所に来たのかも知れない。
 時というものは、なぜこうして無益に過ぎていくのか。おれは、苦い思いを味わう。今の自分には、恋をする気力も、結婚する勇気もない。
 貴美子はどこかの会社に勤め、やがて好きになった男と結婚する。子どもを産んで母になり、年老いて生を終えていく。それはもはや、おれが関わりを持てる事柄ではない。おれも、今まで誰かが生きたような一生を、これから繰り返していく。
 恋は空想だった。少なくとも、この恋は空想に終わった。

 ずっと以前に、この恋心には見込みはないと感じた。手を尽くして貴美子に連絡を取り付けるとか、悪あがきすることはなかった。諦めようと決めて、努力した。相手のことを考えないようにして、恋心を押さえつけた。恋心が小さくなっていくのを待った。
 恋心が消えて欲しくないという気持ちと、消えて欲しいという気持ちが心の中でずっとせめぎ合っていた。恋心は分岐点に差し掛かっていた。諦める道と諦めない道があった。おれは諦める道を選んだ。
 いつだったか、もはや貴美子を恋していない、とはっきり自覚した。そのとき、頭から血が引いていった。切羽詰まっていた感情が、どこかに消し飛んでしまった。以前のように、熱にうなされることはなくなった。心は冷えた。
 そうして貴美子への片思いが終わった。あの女は、自分の恋心の対象ではないと悟った。
 やっと貴美子と同じ気持ちになれた気がした。残念なことだったが、貴美子を恋していない以前の自分になれた。言わば、おれを恋していない貴美子と同じ心持ちになれた。もはや、恋人同士や夫婦になる気持ちはなくなった。
 今では、特に会いたいとも思わない。会えれば会えたで、懐かしくて心楽しいだろう。そんな風に貴美子のことを、かつての学生時代の仲間たちと同じように、のんびりと考えられる。
 一方で、新しい恋の対象を探したが、なかなか見つからなかった。見合いの話もいくつか舞い込んだが、その気にならなかった。今までの恋心はなくなったが、新しい恋心も生まれていなかった。

 ホテルで一泊してから、佐藤は大学の女友だちの美智子に、京都の繁華街で再会した。
 佐藤は京都が好きで、それは当地への数回目の旅だった。観光地散策の同行者として美智子を誘い、京都駅で落ち合う約束をした。美智子は暇を持て余しているらしかった。
「佐藤君が、わざわざ関東からやって来るんだから……」
 そう口実を設けて、山陽地方の実家から快く、新幹線で京都まで出てきた。
 二人は小雨で煙る古都の中を、南禅寺から哲学の道を歩き出した。
 美智子とは、学生時代の懐かしい昔話に花が咲いた。
「貴美子さんのところには行かないわけ? 」
 美智子は不意に、貴美子の名前を持ちだして、佐藤を動揺させた。かつて、佐藤が貴美子の思いを寄せて、色よい返事をもらっていないことを知っていた。
「今回は、あっちの方には行かないんだ」
 佐藤は、力まない小さな声で嘘をついた。前の日に貴美子の住む町に行ってきたばかりだった。
恋心の整理がある程度ついていたから、わざわざ虚勢を張る理由はもうなかった。ただ、正直に白状して未練がましいと言われるのがいやだった。
「貴美子さんとは、同じ関西に住んでいるのに、卒業以来、一度も会ってないの」
「各種学校は終わったんだっけ? 」
「うん。デザイン関係の会社に就職は決まったって聞いたけど……」
 佐藤は平然を装って、改めて尋ねた。
「貴美子さんは、まだ結婚はしないの? 」
「そういう話は聞いてないけど、分かんない。あの人のことだから……」
 そう言われてみて、平静でいられる自分の反応に、佐藤は驚いた。貴美子が結婚するというのは大きな出来事だ。それなのに、年頃の娘が結婚するのは当然だと、大きな動揺もなく思った。
 美智子の言いぶりも気になった。貴美子は日頃から、個人的なことはあまり話さない。そういう人柄を見ていたのは、美智子も自分も同じだったのだ、と分かった。
 会話の中で、佐藤がわざと触れまいとしていた事柄を、美智子の方から先に切り出した。
「この間、久し振りに東京へ行ったのね。大学の辺り歩いてたら、きっと野口君の思い出が戻ってきて、頭の中がワアーツとなっちゃうんだろうなって思ってたわけ。でも、そんなことなかった。街の様子も大学の感じも、もうそんな昔のこと関係ないよって感じで……。あたし、あの時、ああ、終わったんだなあって思ったの」
 佐藤は、美智子も自分と似たような感慨を抱いていることを知った。過去の出来事の幻影は心の中には長く残っているが、出来事の起こった場所にはもはや残っていない。あの空虚感は佐藤に独特の感慨ではなく、もっと一般的な人間の心理に近いものなのかもしれない。
「そうか。おれは内心、二人が結ばれてくれるといいと思ってたんだけど……」
「未練がないって言ったら嘘になるけど、やっぱりあたし、幸せになりたいもん。あたし、我がままばっかりしてたけど、ミツオ君は許してくれて、元の鞘に納まったって感じ…」
「でも、好きだったんだろ? 野口のこと」
「すごく好きだったけど、今はそうじゃないの」
 糸を引くような雨の向こうに、傘を差したたくさんの人々が見えてきた。
 佐藤たちは、銀閣寺へと続く通りを上り始めた。
「野口君のこと、最近、何か聞いた?」
「おれ、あんまり聞いてないんだ。地元の新聞社に就職したらしいけど……」
「ふうん。新聞記者なんて似合うかもね。いつも夢みたいなこと言ってて、バリバリ仕事やりたいって言ってたから……」
 佐藤は、本当はそれ以上に野口の近況を聞いていた。それは口に出せなかった。
 遠藤から、野口が久し振りに上京し、他の仲間と一緒に酒を飲んだと小耳にはさんでいた。そのときの野口は、かつての懐かしい思い出話に花を咲かせた。
 しかし、野口は最後になって、真情を吐露した。
「美智子のことで知ってること、全部話せ」
 そう言って、仲間たちに強要したらしい。涙混じりで愚駄を巻き、その姿は見るに耐えなかったという。
 小柄な美智子は、佐藤と観光地を歩いている間、ずっと快活だった。あどけなさは今でも変わらず、とても男を二人三人と知っている大人の女とは見えなかった。
「おれたち、他の人にどんな風に見えるかね? 」「恋人同士に見えると思う? 」
「中学生とその保護者に見えるんじやないか? 」
 美智子は、くすっと笑って、佐藤の顔を見上げた。その表情に、小悪魔の側面を見たように思えた。
 美智子は、知らないうちに男を傷つけて行くのかもしれない。そう思い、男という種族のひとりとして、小さな敵意を覚えた。
 幸い、佐藤は、その小悪魔にたぶらかされる趣向は持ち合わせていなかった。
 一方で、心の中には、男女愛から離れた、男と女の親しさのようなものが生まれてきた。
 石段を下りながら、佐藤は言った。
「二人が六十才くらいになって、またこの同じ場所を歩けたらいいね」
「おじいさんとおばあさんで? 」
「そう。そういう付き合いもいいだろ? 」
 美智子は何を思ったか、微笑をこぼした。

 美智子と並んで、繁華街の歩道を流して歩いた。人と物があふれ、様々な音に包まれていた。
 関西の都会では、関東の都会と同じように、群衆が大きな流れを作っていた。貴美子は今や、そこを生活の場にして、その群衆の中に組み込まれているように見えた。かつては、貴美子はおれと同じ関東の都会で生活していた。今は、同じ日本の都会だが、場所を関東から関西に移した。
 都会の群衆は個人を飲み込み、大きな流れで押し流していく。おれも貴美子も、それに逆らうことは出来ない。
 貴美子というひとりの娘は、おれにとっては大切な存在だった。しかし、群衆は圧倒的な無関心で貴美子を無視してしまう。

 佐藤は自分勝手に納得した。この群衆の中の男たちに、貴美子を任せてしまおう。どんな男を選ぼうと、それは貴美子の自由だ。理想の高い貴美子は、いまだに素敵な男性を夢見て、ひとりでいるかもしれない。
 佐藤は、長い時間をかけてやっと、この考え方にたどりついた。他の男に貴美子をとられると思うと、胸が苦しくなった。ずっと、その妄想と戦い続けた。しかし時間が経つにつれ、心の中の嫉妬心を飼い慣らすことが出来た。嫉妬の乱暴な牙を抜くことが出来た。
 貴美子の相手役は、おれでなくても他の男で十分に間に合う。その男は、貴美子の面倒を甲斐甲斐しく見て、共同生活を仲良く営んでいく。その役割を、貴美子はおれに求めてはいない。それなら、おれが身を乗り出していく必要もない。
 これは、個人的で独断的な思いだ。振られた男が自分の恥を隠して、白を切る方法だ。恋愛の当事者ではなく傍観者となって、心痛を和らげる方法だ。おれの恋心は、求める男女愛から、見守る思いやりに変わったようだ。
 貴美子はもちろん、そんなおれの思いとは無関係に、男たちと交流していく。それも、当然に分かっている。

 愛することは、相手の足下に身も心も投げ出し、ひれ伏すことだ。おれは別れのとき、拝むような気持ちで涙を流した。貴美子に同じ心情を持つことを求めた。共に強烈な恋情に負けることを求めた。
 おれはせっかちだった。貴美子の高慢な鼻柱をへし折ってやるつもりだった。一気にその高い山を征服して、占領してしまうつもりだった。
 多分、電話でのあの求婚は、そうしたおれの甘さ、性急さ、片思いの苦境からの逃走願望に起因していた。おれの求婚は、そのための熟した環境や心の準備を備えていなかった。アルコールの力を借りた、出任せの言葉と見られても仕方ない。
 貴美子は恐らく、ある程度の交際を経たあとで、相手の口から求婚の言葉が出ることを望んでいただろう。それなのに、おれは一生を決めてしまう別れでせっぱ詰まっていた。おれは求婚を、軽はずみに口にした、ということになったのかもしれない。

 関西への旅行では、貴美子との別れの意味するものを探りに来た。できれば、その別れのあとに続くものの足跡を確かめたかった。
 しかし、結果的には、貴美子に物理的にいくら近づいても、何も分からないということが分かった。貴美子と自分を隔てる距離をどんなに縮めても、自分の知っている事実は変わらない。今や、過去のすべての感情、四苦八苦した出来事のすべてを、自分ひとりが抱え込んでいる。
 ある意味で、すべての物事は自分から出て、自分に跳ね返ってくる。そのような状況は、生の終わりまで続く。
 言い換えると、貴美子は今、おれの中にしか生きていない。しかも、今の貴美子でなく、あの頃の貴美子だ。実際の貴美子が、どこでどうしているか、知るよしもない。現実の貴美子を自分の思い通りに変えることはできない。
 しかし、心の中でなら、貴美子を磨いて輝かせることが出来る。共に生きてきた日々を、ひとつの生の証明として、確実で堅固なものにすることが出来る。そこにも、貴重な喜びと幸福は見つけられるだろう。
 おれの側の片思いである以上、あの恋の情熱とその歴史を、束の間のこの生に刻んで、温存していくことはおれにしか出来ない。そうして得た心の満足や貴美子の偶像は、この地上で刻々と変貌していく現実とは別の次元で、もうひとつの自分にとっての現実となるだろう。
 こういう考え方は、一種の自慰、滑稽な自己正当化に思える。しかし、おれは四年もかけて、やっと、こう考えるだけの余裕を得た。思い続け、悩み続け、ときには泣き、絶望した末の結果だ。これは失恋を乗り越えて生き残るためのひとつの方便だ。
 そう考えると、貴美子に対する感謝の念も生まれてきた。なぜなら、貴美子は数え切れない他人に囲まれる世の中で、偶然にもおれの前に姿を現してくれた女性だったからだった。貴美子は自分から、おれを愛することはなかった。しかし、少なくとも、おれから愛することだけは許してくれた。一時期は、その姿を見せるたびに、おれを夢見心地にさせてくれた。地に足の着かない時間を与えてくれた。

 おれは、やがて、貴美子の存在も、自分の心の中から、徐々に去っていくことを、苦々しい思いで、認めざるを得ない。かつての初恋の相手がそうだったように。
 日々の生活の中で、さまざまな若い女性と交流し、二六才の今、二十才の娘からも気楽に声をかけられることがある。しかし、貴美子のように心を揺るがす女性は、周囲に見つからない。
 もう一度、貴美子への恋に悩んでいたあの頃に帰りたい。早く貴美子が結婚してくれれば、この苦悩から解放されるのに。


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tomono
• 学生時代、社会人時代の経験を題材にして現代小説、エッセイなどを書いています。青春、恋愛、友情、人生、社会の現実を描いていきます。文学部出身の退職者です。