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子鹿は森で生きていく

 子鹿のムリッチェリンは山鳩のホルンシェルと、たわいない話をするのが好きでした。ホルンシェルはかなり年をとっているので、最近は具合が優れない日も増え、ゆっくり会って話をする機会はだんだん少なくなりました。そして今年の冬からは、すみかをでることもできなくなりました。それはムリッチェリンにとって寂しいことでした。
 晩秋、あたたかな昼時に、遠くの森から来たというカッコウがムリッチェリンのもとに現れました。「あなたはムリッチェリンですね。山鳩のホルンシェルのすみかを知っているでしょう。教えていただけませんか。」しかし、この森の生き物のすみかを森の外の生き物に教えることは禁じられていました。以前、リスの一家のすみかをアナグマに教えたことで、その一家が冬を越すために蓄えていた豊富な食糧をすべて食い荒らされてしまう事件があったからです。そんな悲惨な事件が二度と起こらぬよう、森のみんなで決まりを定めたことに、ムリッチェリンも誇りをもっていました。「森の決まりだから、すみかを教えることはできないよ。」少し間をおいて、カッコウはゆっくりと、たしかな声で話し始めました。「鮮明には覚えていませんが、私は幼いころ親に捨てられました。そんな私をホルンシェルが拾い、面倒を見てくれました。彼女には恩があるのです。私が自立し、別々の森で暮らし始めてからも、毎年ホルンシェルは私の森まで会いに来てくれました。私たちは、たわいない話をとても楽しみました。そんな彼女が今年は会いに来なかったから、彼女の身に何かあったのかと心配しています。彼女は元気なのでしょうか。私も年をとっているし、ホルンシェルはもっと年をとっていますから、もしかしたら、もう会うことはできないのかもしれないと怖くなったのです。いつ二度と会えない日が来ても後悔しないように、今ありがとうと伝えたくて、そのためにここに来たわけです。実はこの森の決まりのことは知っていました。だけど私がなにか悪いことをするようなトリにみえますか。どうか会わせてほしい。」ムリッチェリンは自分に向けられるカッコウの丸い瞳を見つめた後、頭のなかでホルンシェルの姿を思いました。つぎに、みんなで森の決まりを定めた時のことを思いました。「あなたは悪いことをするようなトリにはみえない。でも森の決まりは守らないといけないよ。」気を抜くと泪がこぼれ落ちてしまいそうな顔を隠すように、互いに見つめあっていましたが、しばらくしてカッコウは軽く会釈をした後、ムリッチェリンに背を向けました。今にも飛び立とうとする翼は、どこかいびつな形をしていました。「あの、待って。ホルンシェルはね…。」ムリッチェリンはついにホルンシェルのすみかを教えてしまいました。「どうか、くれぐれも、このことは秘密にしてほしい。」「もちろんです。感謝申し上げます。」カッコウはホルンシェルのすみかのある方へ飛んでいきました。少し離れたブナの木の陰から、熊のリクソンが「俺はみていたぞ」と言うような顔をこちらに向けていましたが、とくに興味なさそうにズシズシと森の奥へと歩いていきました。
 その日からムリッチェリンは「ぼくは良いことをした。森の決まりを破ってでも良いことをしたんだ。」と何度も何度も自分に言い聞かせています。

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