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【短編】過ぎゆく夏のサナトリウム

先日の同人イベントで発行したコピー本を、こちらにも掲載します。
夜の音が苦手なHSP(繊細さん)の男子大学生・奏斗が、隣に引っ越してきた先輩・紗南に恋心を抱く話。青春小説です。

初めての有料記事です。約13700文字の短編小説で、一話完結です。
途中まではサンプルとして読めますので、続き~最後まで読んでみたい方は、缶コーヒー1本分のご支援をお願いいたします。

=====

   1

 奏斗はベッドに腰かけ、石のようにジッと固まっていた。
 大学後のバイトが終わって帰宅してから、夕飯も食べず、シャワーも浴びずにずっとそのままだった。カーテンを隔てた窓の向こうはすっかり暗くなっているだろう。
 ワンワン、ドッドッドッ、アハハハ。様々な音が、奏斗の鼓膜を震わせている。梅雨が明けて、ここのところ街の空気はずいぶん開放的になっていた。
『おい、これ発泡酒じゃねぇか! ビールを買ってこいって、いつも言ってるだろうが!』
 ふと大きな声が聞こえて、奏斗はびくりと肩を震わせた。
 まただ。また始まった。ハーフパンツを握るこぶしに力が加わり、しわが深くなる。
『ごめんなさい、間違えたの。すぐに買ってくるから』
『もういい、つまみを作れ! さっさとしろ!』
 しゃがれた男の怒鳴り声に、ごめんなさいと何度も謝る女の涙声が重なる。隣に住んでいるオヤジとその通い妻だろう。
 奏斗はベッドに横になって、頭から布団を被った。閉め切った部屋だというのに、隣人の怒声が、道を走るけたたましいバイクの音が、酔っ払い集団の哄笑が、吠え立てる犬の声が耳にわんわんと響く。ぎゅうと、布団の端を握った。
 これだから夜は嫌いだ。昼間と違って、悪意のあるいろんな音が大きく響くから。
 奏斗が幼少期を過ごした田舎はこんなにうるさくなかった。夜はしんと静かで、空気が澄んでいて、朝はのどかな鳩の鳴き声で目が覚めて。とても居心地のいい場所だったのだ。
 それなのに、今や奏斗の心の安寧はすっかり奪われてしまった。
 ああ、はやく夜が明ければいいのに。
 奏斗は今日も、夜を厭う。


 そんな鬱屈を抱え日々を過ごしていたが、ある朝、ガタンゴトンと床にものをぶつける音で目が覚めた。奏斗はビクッと肩を震わせ、枕に押し付けていた耳を離して跳ね起きる。
 隣がけたたましい。いったい何の音だろう。
 今日は金曜日、燃えるごみの日なので、台所のごみを袋にまとめて外に出る。すると隣の共用スペースに、冷蔵庫や洗濯機が並べて置いてあった。冷蔵庫の下から排水溝に向かって水が流れており、奏斗は目を丸くした。
 それらを眺めていると、玄関から雑巾を持ったオヤジが出てきた。ヨレたTシャツにだらしない腹をしたオヤジは奏斗を怪訝そうに見た後、手に下げたゴミ袋を見て納得したのか、ふんと鼻を鳴らした。
「おはようございます。引越しですか」
 そう尋ねるとオヤジは「おう」とだけ言って、冷蔵庫の掃除を始めた。奏斗は軽く会釈をして、エレベーターのボタンを押す。頬が緩みそうになるのを押さえるのに必死だった。
 こいつが居なくなる。やっと静かになる。もう少しの辛抱だと、奏斗は足取り軽く到着したエレベーターに乗り込んだ。

 しかしこの大学生の多い居住地域で、アクセスのいい立地にあるこの単身用マンションが長く空き部屋になるはずもなく。間もなくして、別の人間が引っ越してきた。
 ある日、ドアに備え付けのポストに「隣に引っ越してきた者です。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。ささやかなものですが、よろしければ使ってください」とまるっこい字で書かれた手紙とともに、手触りのいいタオルが包装紙に包まれて入っていた。
 今時珍しくマメな人物のようで、奏斗は顔も見ぬうちに勝手に好感を抱いた。筆跡からするに女性のようだし、前の隣人のようにうるさくはしないだろう。前の隣人は、歩くだけでドスドスと音が響いていたから。
 翌日、奏斗は新しい隣人と会った。
 共用スペースで折りたたんだ段ボール箱をまとめていたのは、華奢な女の子だった。清潔感のある黒髪を肩で切りそろえ、ワンピースタイプのパーカーに黒いタイツを穿いている。
 ふと目が合ったので、奏斗は反射的に挨拶をした。
「おはようございます」
 彼女はぎこちなく微笑み、「おはようございます」と小さな声で挨拶を返してくれた。知らない男にいきなり声をかけられて驚いたのだろう。申し訳ない気持ちになったが、愛想が悪かった前の住人とは大違いで心が癒される。
 すると彼女はアッと声を上げ、床に散らばった段ボールを慌てた様子でかき集めた。
「すみません、散らかしちゃって。すぐ片づけますから」
「あ、いえ。大丈夫です」
 奏斗は慌てて両手を振った。それからタオルのことを思い出し、「あの」と彼女に話しかけた。
「タオル有難うございました。使わせてもらってます」
「ああ、ご丁寧に。ささやかなものですが」
「いえいえ……」
 若人がそろってペコペコと頭を下げあうという奇妙な状況。同じフロアの住人に怪訝そうな目を向けられながら、二人は言葉を交わした。
「ええと。あっ、申し遅れましたが、わたしは木村と言います」
「えっ」
 奏斗は思わず声を上げた。
「オレも木村です。同じですね」
「わあ」
 彼女は「すごい偶然ね」と声を上げた。
「木村、誰くん? あ、わたしより年上かしら。すみません」
「ええと、奏斗って言います。そこの大学の三年生です」
「奏斗くんね。わたしは紗南。同じ大学の院生なの」
「先輩なんですね」
 奏斗は再び驚いた。紗南と名乗った彼女は幼い顔をしているので、新入生か、下手をすると高校生でも十分通じると思ったからだ。
 紗南はもう何回目かも分からない会釈を繰り返した。黒髪がさらりと白い頬を撫でて、奏斗はその様子にドキドキした。
「色々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
 そう言って微笑んだ紗南に顔がかっと熱を持ち、奏斗は確信した。これがひと目惚れというやつか、と。
 此度の隣人も、別の意味で心が休まりそうになかった。
  


   2

 そうして、奏斗にも四か月遅れの春が訪れた。
 紗南は見た目どおり、礼儀正しく穏やかな女性だった。わりとおしゃべり好きで、お茶目な発言もする。ときどきあらぬ方向を見てぼんやりしたり、的外れな天然発言をしたりと、不思議な一面も持っていた。
 そして、本当に人が住んでいるのかと不思議になるくらい、夜は物音がしない。洗濯機を回す音や掃除機をかける音はするが、昼間のみで、夜はシンとしている。前の隣人が賑やか過ぎたので、逆に「ちゃんと生きてるよな?」と不安になるくらいだった。こちらとしては快適に過ごせて何よりだが。
 大学の友人たちに紗南のことを話すと、「ずるい」「可愛い先輩と一つ屋根の下なんて」と口々にはやし立てられた。一つ屋根の下はだいぶ語弊がある気がする。
「相手の部屋に上がったりしてんの?」
「押し倒してチューしろ、チュー。お前顔はそこそこだからイケるだろ」
「いや普通に犯罪だろ。それに先輩、法学部の院生だから。弁護士目指してるんだって」
「それは勝てないなぁ……」
「やっぱりやめとけ。お前と法廷では会いたくない」
「言われなくてもしないよ」
 奏斗は苦笑した。紗南のことは好きだが、今すぐどうこうなりたいという欲はないし、ただの隣人と友人の間のようなどっちつかずの関係も心地が良い。
 そもそも、紗南が奏斗のことをどう思っているかも分からない。よく世間話をするので嫌われてはいないと思うが、男として、恋愛対象として見てもらえるかも怪しいところだ。紗南の眼差しは、姉が弟を見守るようなものに近いから。
 まあ、ゆくゆくは付き合えたらいいなと思うけれど。奏斗は紗南と手をつないで歩くビジョンに胸を膨らませ、口角を上げた。
 奏斗の心は浮ついていた。しかし訪れた春告げ鳥は、同時にあるひとつの厄介ごとを運んでくるのだった。

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