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誰かが、見ている。


さて、トランスフォーメーションゲームで起こった、私の中のハイライト。

この話は、人によっては不快だったり、ちょっと気分を悪くする内容だったりもします。そのような気分になりたくない人は、別の方のnoteを楽しんでね!

この記事は自分のために書きます。少し勇気を出して、書いてみようと思ったのは、他ならぬこのゲームに参加した、結果です。


「あなたにとって魔物ともいえる思考に絡みとられてしまいました。その思考とはなんですか」

たしか、ゲームの序盤(中盤だったかな?)、私が引いたカードにはこんな内容のことがかかれていました。(セットバックというカードです。これを引くと、過去の傷や引きずっている経験をシェアして、アイコンとしての「涙」を受け取ります。「涙」は、ボード上のコマの進行を停滞させる役割もありました)

魔物、はて。

私にとっての魔物・・・

じつはこの問いが目の前に現れたとき、もうソレとわかる答えは頭に浮かんでいたのです。これかなと思ったそれを否定しても、何度も何度もそれが浮かんでくる。

私にとっての魔物。それは、

目立ちたい


という欲求でした。

目立ちたい。ちやほやされたい。人前に出たい。

いつもいつも、何をするにもどこか他人の視線を感じられるところにいたい、、

それなのに。

私には、いつもそこに強烈な罪悪感がありました。


「私などが人前に出てはいけない」という罪悪感は、時々、ものすごい恐怖心となって心を覆いました。

目立つことは、一時期私のやりたいことでもあったし、何かしら前に出ることで、やりがいを感じたりもできた。

目立ちたいのに、怖い。

なんだなんだこの矛盾。私にとっての魔物は、これに違いないと確信しました。


***


それで、二律背反的なこの感情、欲求について、おそるおそる話そうとしたときです。

たしかチョモさんから

「怖いと感じるのはなぜだと思いますか?きっかけとなるような出来事はありますか?」

といった質問をされた気がします。ちゃんと覚えていないけれど、多分。

目立ちたいのに、怖い。

この感情の後ろ側にある、過去の経験、ずっと蓋をしていた、心のひずみ。

あ、、、と思ったとき、私はそれに、ずっと気づいていたけれど、もう解決したものだとも思って、驚きました。

ゲームで、このことをシェアする必要など、なかったと思います。するか、しないかは、自分次第なので。

でも、私はシェアすることを選びました。

ここから先のことは、私の人生で、これまで信頼できる数名にしか話したことがありません。いきなり、誰が見ているかわからないnoteで書いてみる(笑)。

この話がどのくらい、残念なできごとなのか、長年隠しすぎてもう自分ではわからないので、できるだけ冷静に書きます。


私んちは、私が6歳から18歳になる年まで、ずっとストーキングされていました。


ずっとずーーーーっと、私たちはそいつの影と一緒に、暮らしてきました。


原因は単純なことで、父親が保証人になったおかげで背負った借金。


その借金取りが、よくある「金返せおどりゃあ!」と言って玄関口に怒鳴り込んでくればわかりやすかったのですが、うちはそうではなく、10数年にわたる嫌がらせを延々と受け続けたのです。

これが長いのか短いのか、昭和の消費者金融の実態がどうなのか、私にはわかりません。

父は夜逃げし、母子家庭となった私たちが今度はその標的となりました。毎晩、黒電話のベルが怒鳴り声あげるみたいに鳴りました。

毎日毎日、もーずっと。

だから、私は電話がいまも苦手。メールがうまれてありがとう。


私はまだ子どもだったから、守ってもらっていたところも大きかったとは思います。

だけど、黒電話時代に、間違ってとってしまった電話口から、

お前、今日は○○にいただろう
お前ら、全員ぶち殺したるからな
お前の家、火付けて燃やしたる

という、少しかん高いおっさんの声が飛んでくるのを、6歳や7歳の子どもがどうよけたらいいのか、わかるわけがありません。

その言葉をそのままうけとった私は、世の中がどれほどおそろしい場所なのか、そして私たちはいつか殺されるのだ、と思い込むようになりました。


思春期になると、標的はさらに私や兄にむかい、その頃には留守番電話機能つきの電話機で対応していたももの

留守番電話には、ありとあらゆる卑猥な言葉が吹き込まれるようになりました。

それは、うっかり聞いてしまう10代女子の心をズタズタにするのにあまりに十分な内容で、自分の全身が薄汚れていて、汚いものだと信じ込むに値する見事な言葉によるレイプなのでした。

だから私は、今でも少し声の高いおじさんが、今も苦手です。できたら、黙ってて欲しい(笑)。


何年も何年も、私たちは、このおっさんに追いかけ続けられた。

毎回同じ人物からの電話で、生涯、私んちを嫌がらせしたのはこのおっさん一人だったと思います。

家族それぞれで、うまく距離をとったりして、冷静に対応できたりしていたかもしれないけれど

私は、どうしようもなく無力な、本当に、ただの子どもだった。

気がついたら、私は、人影のないマンションに視線を感じるようになりました。誰もいないのに。見たことのない車が家の近くに止まっているだけで、心臓がバクバクしました。うつむいて走って帰っても、どうせバレるのに。


誰かが、ずっと見ている。


私たちを殺そうと、狙っている。


その妄想とずっと一緒だった、10代。


ストーカーなんて言葉がなかった時代、警察からは証拠がないと無視され、相談できる人もおらず、ただ、私たちのなかで、受け止め、時間がすぎるのを待つしか、方法がわからなかった。

悔しいけれど、私の青春は、このおっさんから精神的な脅迫と言葉によるレイプを受けて、それで終わったのです。


ずっと、誰かに見られている。


カードが私に、「魔物のような思考」について問うた時、この感覚がぶわあっと湧き上がり、話そうとしたと同時に、涙が溢れてきました。

けれど、これって私にとっては少し驚くようなタイミングだった。

だって、もう二十年以上も前の話で。私からすると、とうに乗り越えたはずの物語だったのです。

目立ちたい、と思っていた自分の中の「魔物」には、別の意味があることがわかって、愕然としました。

ただ堂々と、安心して
人前を歩きたかった。


子どもの頃に置き去りにしたままだった、その気持ちを掴んだとき、もうちょっと、涙で声にならなかったです・・・


***


こんなことを書いたって、、、といつもなら思ったでしょう。自分の過去を話してどうなる? 誰だって辛いのに? また不幸自慢か? と。

書きながら、また胃のあたりがずんと重くなるのを我慢しながら。

でもねでも、私は自分が体験したことを100%理解して欲しい、そしてあいつがにくい!わたし可哀想!を伝えたいんじゃないです。そんなことじゃなかった。

悲しみは、誰にでもあること。どんな形であれ、その人の中に必ずあるもの。

だからこそ、

「私よりもつらい人はたくさんいるんだから」

と思ったり

「うちが悲しむ資格ないよね」

と思ったりすることで、なんとか生きてきたわけです。


こんなことで私なんかが、悲しいと言ってはいけない。つらいと言ってはいけない。こんな生活はいやだと、言ってはいけない。もうこんなところにいたくない。悔しい。悲しい。きえろ! 大人なんか全員しね! 学校も社会も全部なくなれ!


と、言ってはいけない。


でも、それは、自分をじわじわとなぶり殺しているのと同じだったということです。

私はただ、「悲しかった」と言いたかった。それだけだったことに、あの日、気づいちゃったんです。


***


そうそう、嫌がらせは、私が大学生になる頃には終わりました。多分、あのおっさんは、死んだと思います。

それ以降、電話がぷつんと止んだから。

一度も私たちの前には現れることなく、あの人はきっと、孤独に生きて死んだと思う。

今なら、あの時代の矛盾だらけの大人の社会で、真っ当には生きられなかったおっさんみたいなヤクザがたくさんいただろうと思うし、そのような想像をして、少しは相手を気の毒に思うこともあります。

あのおっさんも、つらかっただろうな。

私たちの前で、暴力をふるう勇気のなかった人だから。



私にずっと、まとわりついていた「誰かにずっと、見られている」という感覚。


今日言いたかったのは、この魔物が、このゲームに参加した日、意味変してしまったということです。


私は、このシェアをきっかけに、ゲーム上ではトントン拍子にレベルアップし、一日でゴールをしてしまいました。

それは、私がゲーム前に掲げた目標を達成することができる、その可能性を示すものでもありました。


私が掲げた目標はこうです。


私は、多くの人を幸せにする作家として成功し、心から満たされて生きることを意図します。


この目標だって、一人しかいない地球上で掲げてみたところで、ただの独り言です。

でも、ゲームには少なくとも3人のメンバーがいて、チョモさんというファシリテーターさんがいた。

参加者全員でそれぞれの目的を祝福し、受け入れ、サポートしあうことを確認しました。

その上で、ゲームではみんながあらゆる形でサポートをしてくれ、先に行きなよと道を譲ってくれ(間接的に、そう解釈したものも含め)、皆さんに私がゴールするところを見守っていただきました。


子ども時代、死ぬほどおそれた誰かの視線は、今は、

きっと誰かが、見ていてくれる。


に上書きされています。


どんなことがあっても、誰かが私の知らないところで、ちゃんと見ていてくれる。誰かがベストなタイミングで手を差し伸べ、誰かが引っ張り上げてくれるために現れる。


その誰かがいると信じて、委ねて、自分のまま生きていける世界は、やっぱり最高に美しいと思います。


私の子ども時代はただの暗黒でしたが、それでも、私が今日も生きているということは、たくさんの人に見守られてきた証であるし、私が幼すぎて気づかなかった視線も、たくさんたくさんあった証だろうと思います。


そして、その最高に美しい世界の仕組みは、究極的には、あの憎しみ倒したおっさんが、教えてくれたことでもあります。


だからね、本当にいろんなことが起こって、しんどくって、もーだめや、ってなることがあったとしても、絶対に一人ではないし、必ず誰かが見守ってくれていると信じてみるんだよ、必ずいるから、見ていてくれるひとが、助けてくれる人がね、必ず現れるから。だからなるべくなら声をあげて、自分を卑下せずに、ちゃんとそのまま、大事にするんだよ、

ということをお伝えしたくて、このnoteを書くことにしました。


もしかして、最後まで読んでくださったレアな方がいたら、本当に感謝します。ありがとうございます。



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