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鉄砲の弾を受けたじいちゃんが戦争を語らなかったのは

お墓参りでお墓を掃除。水を流して線香を立てたら、心まで洗われたような、すっきりした気持ちになった。

みんなで手を合わせ、お祈り。娘の目を瞑る時間が長いので、「おい、まさか何をお願いしに来たのではないだろうな」と聞くと、「え?!お願いするところじゃないん?!」と、クリックリの目をパチパチさせて驚いている。

ちなみに、お願い事は「家族3人で暮らせますように。部活が休みになりますように」だったそうだ。


***

私は、母方の祖父母に育てられたような幼少期で、とにかくじいちゃんこだった。じいちゃんは、穏やかで優しくて、何かっていうと何も言わず一緒にいてくれた人。保育園の送り迎えも、おさんぽも買い物も、じいちゃんと一緒だった。

ただ、酔っぱらうと人種が変わる。

晩酌の度を越すと、すわり切った目で、いつもは絶対に言わないような不平・不満を延々とこぼした。世の中に対してというより、「不甲斐ない」「家を顧みない」家族や親戚に対する愚痴。

そして、両親を早くに失った自分がいかに天涯孤独な人生を送ってきたのか、そして、2つ下の弟タカオが戦死し、無念であることを、毎回、延々と語るのだった。

何度耳にしたかわからない話を、力尽きて眠るまで、喋り続ける。家族にしたらたまったもんじゃない。はよ寝んかなあ〜、と子どもながらによく思ったものだ。

気持ちよくなりすぎると、さらに家を出て近所の飲み屋へ。あるいは、じいちゃんの軍人仲間みたいな人たちのところへ行っては、真っ赤な顔して戻ってくる。やがて、失禁、ゲロまみれのことが多くなっていった。

大好きだったじいちゃんは、私が高校生になるくらいにはどこかへ行ってしまい、私もそこそこ距離をとるようになってしまった。


夏になると思い出すのは、じいちゃんの体に埋まっていた鉄砲の弾のことだ。じいちゃんの体には、2箇所、鉄砲の弾が埋まっていた。

手のひらの甲と、足の向こうずね。大豆くらいの大きさのふくらみは、押すとゴリゴリ、その肉に挟まって鈍く動いた。

私は小さい頃、それを触るのが好きだった。「これが鉄砲の弾じゃ」とじいちゃんが教えてくれてからずっと、感覚と想像を一致させるように、「これが、鉄砲の弾。」と思いながら丁寧に押していたような記憶がある。

当たった時、痛くなかったんだろうか。今もこうやって入っているけど、いつか爆発しないんだろうか。もうこのまま、一生出てこないんだろうか。

なぜ、じいちゃんの体に鉄砲の弾が入っているのか。

子どもすぎた私には、想像のつかない世界だった。ところが、小学校も高学年に入ると、太平洋戦争のことを学び始める。

鉄砲の弾を触る度に、「じいちゃんが死ななくてよかった」と思った。けれども、「戦争」というものが情報として入ってきた時、私はやっと、鉄砲に打たれる可能性があるということは、鉄砲を打つ可能性もあるのだということを理解したのだ。

そうか、ということは、じいちゃんも鉄砲を持っていたということか。つまり、もしかしたら、人をころしているかもしれないってことか? 

母は私の素朴すぎる疑問を聞いて、やや得意げな顔でぽろっとこう言ったのだ。

「そりゃあもちろん、じいちゃんも打っとる打っとる。一人と言わず殺しとるやろ」

このくだりを今も覚えているということは、当時の私には相当なショックだったということだろう。あの、優しくて、穏やかで自慢のじいちゃんが、、、人を、殺した?

信じられなかった。いや、これを信じなくてはいけないのか、という衝撃であったと思う。

いつも私にやさしいじいちゃんは、人を殺したじいちゃん、なのか? ものすごく動揺し、どう心の交通整理をしたらいいのか、わからなかった。

結局、じいちゃんは戦争のことについてはほとんど語らないまま、家を出てしまった長男の愚痴や、借金まみれの私の父の悪口を言い続け、おなじみのタカオのこと、天涯孤独で生きてきたことを語り続けて、78歳で死んだ。心臓発作による突然死。痛みもなく、あっという間に、逝ってしまった。


***

昨日、祖父母のお墓参りで何気なく過去帳をパラパラとめくっていたら、「パプアニューギニア」という文字が目に飛び込んできた。

よく見ると、そこはじいちゃんの弟、タカオさんのページ。命日と戦死した場所が書いてある。

ー昭和二十年四月十五日 パプアニューギニア、ウエワク島にて戦死 二十六才

今まで、気にも留めなかったこれらの情報が、この日、飛び込んできたのはなぜだろうか。

終戦を迎えるほんの数ヶ月前に命を失っていたことを知って、虚しさがこみ上げた。タカオ大叔父さん、どんな人だったんだろう。

太平洋戦争でも激戦区だったと言われるパプアニューギニアが最後の場所だったことを知り、検索をかけただけでわんさと出てくる戦争に関する情報を読んでみる。

タカオさんが、日本の軍隊という組織の中で、どの部隊にいて、何をになっていたのか、足取りや行動が見えてくる。もっと深掘りして調べれば、ウエワクという場所で、タカオさんが何をしていたのか、どのような最後だったのかという情報にもたどり着けそうな気がする。

今まで、「タカオが」と演説し続ける酔っぱらったじいちゃんの声でしかなかったタカオさんが、急に生身の人間になって迫ってくるような気がした。

さらに過去帳には、じいちゃんの両親が、戦後1、2年でパタパタとなくなっていることも記されており、じいちゃんが一人ぼっちになったのは、戦後というよりも、戦争そのものの影響が色濃くある時代のことだったのだと知った。


「じいちゃんがずっと抱えていた孤独」の内容に今頃になってふれたような気がして、胸が苦しい。

じいちゃんの本当の苦しみの何ミリ、わかり得たのかは怪しい。

けれども、じいちゃんが死ぬ間際、私が高校生になる頃には「じいちゃんなんか、嫌いだ」と思うくらいには思春期を随分こじらせてしまい、お別れは、あんなに大切にしてもらったのに、やや残念な離別になってしまった。

やがて、大人になり、子どもが生まれ、「じいちゃんにも酒に頼らなければ拭えなかった孤独があった」と、安っぽい演歌の歌詞くらいのことは、想像できるようになった、つもりでいた。

けれども、もちろん、そんな薄っぺらい世界ではなかったのだ。

じいちゃんがいなくなって三十年近くがたつ昨日、今まで気にも留めなかった細かな情報に触れて気づいたのは、

じいちゃんが酒に頼ることなしに自分を開示できなかったのは、もちろんそうでもしなくては耐えられなかった過去があったからであろうし、

戦争のことを直接ベラベラと語らなかったのは、じいちゃんが、戦争というものを知りすぎていたからだと、やっと、思い至ったのである。







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